どんな花が世界中でいちばん美しいだろうか。春の洛陽に咲き誇る牡丹 に非ず、 宗匠が茶室に飾る一輪に非ず、 ティロルの山の斜面を蔽う秋草に非ず、オートゥ・プロヴァンスの野に匂うラヴァンドに非ず。

一九六〇年代の後半に、アメリカのヴィエトナム征伐に抗議してワシントンへ集った「ヒッピーズ」が、武装した兵隊の一列と相対して、地面に坐りこんだとき、そのなかの一人の若い女が、片手を伸ばし、眼のまえの無表情な兵士に向って差しだした一輪の小さな花ほど美しい花は、地上のどこにもなかったろう。 その花は、サン・テックスSaint-Exの星の王子が愛した小さな薔薇である。 また聖書にソロモンの栄華の極みにも比敵したという野の百合である。

一方には史上空前の武力があり、他方には無力な一人の女があった。一方にはアメリカ帝国の組織と合理的な計算があり、他方には無名の個人とその感情の自発性があった。権力対市民、自動小銃対小さな花。 一方が他方を踏みにじるほど容易なことはない。

しかし人は小さな花を愛することはできるが、帝国を愛することはできない。 花を踏みにじる権力は、愛することの可能性そのものを破壊するのである。そうして維持された富と力、法と秩序は、個人に何をもたらすだろうか。いくらかの物質的快楽と多くの虚栄、 いくらかの権力欲の満足と多くの不安、感情的不安定と感覚的刺戟の不断の追求と決してみたされない心のなかの空洞にすぎないだろう。 いかなる知的操作も、合理的計算も、一度失われた愛する能力を恢復することはできない。

権力の側に立つか、小さな花の側に立つか、この世の中には撰ばなければならない時がある。たしかに花の命は短いが、地上のいかなる帝国もまた、いつかは亡びる。 天狼星の高みから人間の歴史の流れを見渡せば、野の百合の命も、ソロモンの王国の運命も同じように現れては消えてゆく泡沫だろう。 伝えられるところによれば、アメリカの俳優ピーター・フォーク氏Peter Falkは、日本国の天皇から招待されたときに、その晩には先約があるといって、断ったそうである。 私は先約の相手に、友人か恋人か、一人のアメリカ市民を想像する。 もしその想像が正しければ、彼は一国の権力機構の象徴よりも、彼の小さな花を択んだのである。

私は私の撰択が、強大な権力の側にではなく小さな花の側にあることを望む。 望みは常に実現されるとはかぎらぬだろうが、武装し、威し、瞞着し、買収し、みずからを合理化するのに巧みな権力に対して、ただ人間の愛する能力を証言するためにのみ差しだされた無名の花の命を、私は常に、かぎりなく美しく感じるのである。