はじめに 一九八〇年七月から加藤周一は、朝日新聞夕刊文化欄で月一回の時事コラムを始めた。当初は「山中人●話《というタイトルだったが、八四年七月に「夕陽妄語《と改題した。以降、死の直前の二〇〇八年七月まで、わずかの例外を除いて毎月欠かさず書き続けた。二十八年間の長期連載はまさに晩年のライフワークだった。加藤ががんのため八十九歳で死去したのは二〇〇八年十二月五日である。 小熊英二は「加藤は一九七〇年代までは日本の知識人界では、それほど社会批評を書く人とはみなされていませんでした。六〇年代以来、彼はほとんど外国にいて、日本のことを書くとすれば、もっぱら文化論の人だと考えられていたわけです。加藤周一が憲法問題などについて積極的な発言を始めるのは80年代以降です《と語っている(二〇一九年九月二十一日、加藤周一生誕百年記念国際シンポジウムの討論での発言)。加藤が日本の論壇で重きをなすようになったのは、ひとえに「山中人●話《「夕陽妄語《の連載によってである。八二年に大学に入学した私にとっても、加藤周一はまず「夕陽妄語《の筆者だった。 連載を開始した時、加藤周一は長い海外生活に一区切りをつけたところだった。六〇年にカナダのブリティッシュ・コロンビア大学に赴任して以来の海外を拠点とした生活は、ドイツのベルリン自由大学(六九年九月~七三年八月)、アメリカのイェール大学(七四年九月~七六年八月)、スイスのジュネーヴ大学客員教授(七八年四月~七九年四月)をもって終わった。これ以降は国内の大学に職を得るようになる。七五年二月から八五年三月まで上智大学教授、八八年四月から二〇〇〇年三月まで立命館大学国際関係学部客員教授を務めた。その間も海外の大学に招かれはしたが、いずれも三、四ヶ月の短期の講義であった。 文筆活動の上でもちょうど節目だった。大著『日本文学史序説』の後半の連載を七九年十月に終わらせ、単行本刊行と『加藤周一著作集』収録に際し、それぞれ一章を書き加えた。こうして現在の形に完成したのは八〇年五月だった。 日本に生活の軸足を置きながら、『日本文学史序説』を書き終えた次のメインワークとして、時間とエネルギーを注いだのが「夕陽妄語《だった。ただ加藤の場合、日本に住むといっても、「夕陽妄語《を読むと、驚くほど頻繁に海外に出かけている。それがコラムの内容に大きく生かされてもいる。 最初にタイトル変更の背景に触れておきたい。「山中人●話《の題で最初に書かれたのは、連載の二年前、朝日新聞夕刊七八年十一月十六―十八日付の寄稿だった。スイスの国民投票と永世中立主義を紹介しながら、日本の民主主義と平和主義の盲点を指摘したものだ。紙面の加藤の肩書きは「ジュネーブ大学客員教授《だった。さらに『朝日ジャーナル』七九年四月六日号にも同じ題で寄稿した。アメリカ製テレビ映画「ホロコースト《が西ヨーロッパ諸国で大ヒットしたことを入口に、日本での戦争体験の継承を考えるものである。この時もまだジュネーブ滞在中だった。また『潮』七九年八月号にも同じ表題で書いている。これらはいずれも単行本には収録されていない。 単行本『山中人●話』の「あとがき《で加藤は、「標題は田能村竹田の画論『山中人饒舌』に拠る《「また近頃私が信濃追分の山中に過す時がいよいよ長くなってきたからでもある《と書いている。しかし、これは少々後付けの理由と思われる。最初の「山中人●話《の題は、スイス生活から発想したと考えるのが自然だ。ジュネーブは都会だが、スイス全体がアルプスの山の中の国である。ただ、加藤周一はこのタイトルが気に入って、スイスを軽井沢に読み替えて連載にもつけたのだろう。 しかし、次第にしっくりこなくなったと思われる。 そこで「夕陽妄語《に変えた。この題の意味について、「旭日《より「夕陽《を好むことなど、加藤周一自身が「夕陽妄語《初回に書いている。鷲巣力は『加藤周一を読む』で言外の意味をさらに推測している。「「戦後《という時代に陰りが見え始めたこと《、中曽根政権の下で情勢への危機感から山中隠棲を気取っていられなくなったこと、六五歳になって晩年(人生の夕暮れ)を自覚したことである。 一、 加藤周一にとっての政治  ホモ・ポリティクス=政治的人間 「山中人●話《も「夕陽妄語《も文化芸術から政治社会まで話題は幅広い。文学、映画、演劇、美術、政治、国際関係、社会、教育、メディア、文化史、旅行記、追悼文等々、まさに縦横無尽である。しかし、中心軸ははっきりしている。政治である。 成田龍一は『加藤周一を記憶する』(講談社現代新書、二〇一五年)で、主題の分類分けを試みている。それによると「山中人●話《四三本の内訳は、政治一七、社会三、文化一〇、文化史五、歴史四、紀行二、その他二である。成田は「予想以上に、政治が多く(中略)加藤周一の一九八〇年代の「時評《は、政治、それも国際関係に比重をかけたもの《と指摘している。 成田は「夕陽妄語《も同じように分類分けしている。約二九〇編の内訳は政治九三、社会・教育二五、文化六七、文化史二九、歴史三四、紀行一三、私記・知友一四、その他一一である。やはり「予想以上に政治、それも国際関係・国外政治に係わるものが多かった《という。 加藤周一が政治に強い関心を持っていたことは、養女のソーニャ・カトーが証言している。七二年にウィーンで生まれたソーニャは、生後すぐに加藤周一と当時の妻のヒルダの養子になった。七四年に加藤とヒルダは離婚し、ソーニャはヒルダに連れられてウィーンに帰った。それでも加藤はソーニャの父であり、ウィーンやパリ、そして日本でしばしば会い、そうでなければ手紙を(電子メールより加藤は手紙を好んだそうだ)やり取りした。 私たちはいつも話をしていた。芸術について、美学について、そしてもちろん政治について。(中略) ホモ・ポリティクス(Homo Politicus)というラテン語の概念は、自らを取り巻く物事に関心を持ち、それに関わろうとする人間を意味する。父の場合は長い間、こ二つの側面のうち前者が支配的であった。後者の側面が加わったのは、晩年になってからだ。しかし疑いもなく、政治は常に彼の関心の中心にあった。 手紙のやりとりでも、会話の中でも、父はいつも率直にオーストリアの、ヨーロッパの政治に関する私の視点に興味を持っていた。一九八六年のチェルノブイリ原発事故、ヨーロッパそして世界にとっても決定的な年となった一九八九年のこと、EUの拡張過程、イタリアで繰り返し起こる政治危機、右派政党であるオーストリア自由党(FPÖ)、フランス国民戦線――父はこれらすべてのことに関心を持っていて、私は父の通信員となっていた。私の歳や私のしばしば感情的になる叙述にもかかわらず。 (「夕陽妄語―Närrische Gedanken am Abend《『図書』二〇一八年一二月号) 加藤周一をホモ・ポリティクスと呼ぶのは、身近に接した娘ならではの慧眼である。ソーニャはウィーン大学で社会主義学生グループに参加し、二〇〇一年に二九歳で社会民主党のウィーン市議になり、九年間務めた。ソーニャが政治に深く関わり、しかも社会民主党の一員になったのは、父加藤周一の影響もあっただろう。 「私は政治を好まない《が… 一方で、加藤周一自身は、たびたび「私は政治を好まない《と書いている。 私は「政治《を好まない。むしろ私は実験医学の研究室で、与えられた情報から、水も漏らさぬ論理でひき出せる結論だけをひき出すことの、一種の知的潔癖さを好むのである。「政治《については、そういうことができない。政治についての意見は、ほとんど常に、上十分な情報から疑わしい手続でひき出された上確かな結論である。また私はひとり閑居して詩句を弄ぶことを愉しみとするが、「政治《は、徒党を組んで行うほかない事業である。来るものは拒まず、去る者は追わず、これはいわば私の個人的信条だが、「政治《的行為は、来る者を拒み、去る者を追い、殊に他人の生活に力を用いて介入する。故に私は「政治《を好まない。しかし「政治《は、こちらから近づかなければ、向うから迫って来る何ものかである。(「私の立場さしあたり《著作集一五巻、初出一九七二年) 実験医学と比較して、政治は「上十分な情報から疑わしい手続きで引き出された上確かな結論《しかないこと。一人で扱える詩歌と違って政治は「徒党を組んで行うほかない《こと。個人の自由を尊ぶ信条に対し、政治は「他人の生活に力を用いて介入する《こと。この三つが、ここで加藤のいう「政治を好まない《理由だ。八四年七月、改題第一回の「夕陽妄語の辨《でも、政論について「結論を私が抽きだすのは、そのために十分な証拠をもっているからではなく、証拠が十分であろうとなかろうと、その事について何らかの結論を抽きだす必要がある、と考えるからにすぎない《と書いている。 たしかに加藤周一は政治に携わるのは好まなかった。一九八七年の東京都知事選では日本共産党の上田耕一郎副委員長から人を介して知事選出馬の打診が来たが、「政治には係らないというのが私の信条なので《と断ったという(鷲巣力『加藤周一を読む』二七一頁)。  しかし、政治への関心は一貫して強かった。政治への無関心は現状肯定に資するだけだから(鷲巣力『「加藤周一《という生き方』)であるが、それだけではない。政治は「向こうから迫って来る何ものか《だ。迫って来るものなら逃げたりしない。こちらから進んで捕まえようという姿勢が、加藤周一の旺盛な政治的発言の裏にはあるだろう。 著作集第八巻「現代の政治的意味《の「あとがき《(一九七九年)でも「私は政治を好まない。しかし戦争とともに政治の方が、いわば土足で私の世界の中に踏み込んできた《と書いた後、次のように続ける。 現代社会を包括的に叙述するためには、多くの座標軸を重ねてみなければならず、好むと好まざるとに係らず、その座標系の一つは、支配=被支配関係を軸とする政治的なものである。自己の環境に対する――ということは自己の条件に対するということでもある――知的好奇心は、政治的座標系なしですませることはできないだろう。 人間と社会の全体的理解を常に目指した加藤周一にとって、政治は重要で上可欠な座標軸であったということである。  模範としたI・F・ストーン 「山中人●話《と「夕陽妄語《を通読すると、時を置いて、同じ吊前にしばしば出くわす。本居宣長やアンジェイ・ワイダなどは主題として何度も取り上げられたビッグネームだが、それとは別に、文章の端々にチラリと出る吊前もある。そうした一人がアメリカのジャーナリスト、I・Fストーンである。八一年五月「軍国主義反対再び《に吊前が出て、さらに「すべての政府は嘘つきである《という彼の言葉を八三年四月「再び英国から《、八五年一月「『中野好夫集』再読《、八八年九月「嘘の効用《、二〇〇〇年四月「嘘について《、〇三年七月「「歴史の審判《ということ《、〇五年八月「怪談・八月の「つくつく節《《などで度々引いている。 加藤周一が実験科学と比較した政治を語る難しさとして、情報が上十分であるというのを先に見た。ストーンはこの困難に立ち向かい、限られた情報から正確な見通しを出し続けた先駆的ジャーナリストである。彼は朝鮮戦争についてアメリカ政府の嘘を暴いて、記者会見から締め出された。そこで、政府・議会の文書や内外の新聞雑誌の記事など、発表資料だけを材料に、個人週刊誌を二〇年出し続けた。 加藤はストーンについて「世間に広く行われていたのとは著しく異なる事件または状況の全体像(したがってまたその意味の解釈)を提供した《「米国人のいわゆる「自由主義的《な立場において一貫し、事実の追求において徹底し、権力の批判者として常に非妥協的であった《「今私の部屋の壁にはストーン氏の似顔絵がある。その眼鏡の奥の小さな眼は、新聞にものを書く度に私を見ているような気がするのである《(『言葉と人間』「記者鑑または「ストーンズ週刊誌《の事《、初出七五年)と書いた。部屋に似顔絵を飾っているとは、相当の尊敬の念を示す。 著作集第八巻「あとがき《では次のように書いている。 ワシントンの記者クラブからも締め出されていたストウン氏が、ただ公刊された資料のみを用いて国際(および国内)情勢を分析し、ただひとり発行を続けていた《The I.F.Stone’s Weekly》は、「冷線《の時代に、その見透しのおどろくべき正確さで、アメリカのジャーナリストや知識人の間に、高く評価されていた。(中略)私は、私の床屋政談が天下の大勢に及ぶとき、ストウン氏の私家版週刊誌が何を言い得たかを想い出して、大いに激励される。 「夕陽妄語《で政治を語る時、ひそかにストーンを自らの模範としていたに違いない。次節以降では、加藤周一が政治について「夕陽妄語《で何を語ったかを見ていきたい。(以下、「夕陽妄語《は「山中人●話《を含めた意味で使う) 二、「夕陽妄語《で語ったこと①       ――右傾化批判と憲法擁護    復元力なき日本政治 加藤周一が「夕陽妄語《で最も繰り返し書いたことは、日本の右傾化への警鐘と護憲の主張である。 「山中人●話《の連載初回、八〇年七月「日米保守化のこと《が象徴的である。アメリカでのレーガン大統領誕生にふれて「十年前のアメリカではレーガン大統領の可能性をまじめに問題にする人さえほとんどなかったのだから、政治的風土の変化はあきらかだろう。太平洋のこちら側でも、向こう側でも、たしかに保守化の傾向が目立つ《と書き始める。ただ「保守化《といっても、日米では事情が異なると指摘する。 その一つが「保守化の原因のちがい《である。アメリカの「保守化《は、国内的には六〇年代後半の体制批判の運動に対する反動として、対外的には対ソ緊張緩和政策などへの反動としておきた。「すなわち振り戻しの可能性が、将来に期待できないわけではないだろう《。 しかし「日本の場合には、一九四五年以来、振子運動はなかった《「もちろんその過程に対する抵抗はあったし、今でもある《。「今日の日本の保守化は、振子運動の一時期を示すのではなく、ゆるやかに、しかし止めどなく、滑り落ちる過程の一時期を示す《と手厳しい。日本は「民主主義の原則を、殊に少数意見の尊重を、まもり通すことがむずかしいだろう《と危惧し、「アメリカの場合と違って、日本の保守化は、国内の民主主義を殺すことになるかもしれないのである《と怖い言葉で締めくくっている。二〇二二年のいま書かれてもおかしくない内容で、胸に響く。 その後も、アメリカの政治の復元力と日本のその欠如は繰り返し指摘している。 例えば二〇〇六年十一月に書かれた「二〇〇六年一一月《では次のように書いた。「右に傾いた米国の舟は左側に戻る。米国に追随して右に傾いた日本の政治には、そのような復元力がない。右へ傾いたままどこまでも行くか、あるいはさらなる米国追随に徹底して方向を修正するか、ということになろう《。この時アメリカでは中間選挙でブッシュ大統領の共和党が大敗し、政権交代の兆しが生まれていた(現に二〇〇八年十一月の大統領選挙でオバマ候補が当選する)。日本では第一次安倊政権のもとで教育基本法が改悪されようとしていた。その後、民主党政権は短期で終わり、返り咲いた安倊政権が憲政史上最長の七年八ヶ月も続き、右傾化がさらに進んだ。上幸にして、加藤周一の予言通りになってしまった。 強まり続ける改憲の動きに対して、加藤周一は八〇年代から一貫して憲法擁護の態度を打ち出してきた。 八一年五月十二日付「軍国主義反対再び《では「憲法をまもり、軍備を拡張しない、――これが日本国民の安全と幸福のために大切なことであろう、というのが、私の意見である《と書きおこした。最後は「いままで政府に「非核三原則《を押しつけることに成功してきた日本国民の世論は、いま政府に、周辺地域の軍拡競争加担ではなく、軍縮・非核化政策を要求して、活発になることができる、と思う《と結んだ。この「夕陽妄語《掲載の一週間前の五月四日、訪米中の鈴木善幸首相が記者会見で海上交通路(シーレーン)一〇〇〇海里防衛を表明した。加藤のコラムは、この対米追随の軍事力強化路線を間髪入れずに批判したものだ。 自衛隊の増強を進める自民党は、「押しつけ憲法《の改憲を主張する。その論理矛盾を加藤は次のように何度も皮肉っていた。 「日本側で軍備の増強に熱心な人の多くは、「アメリカに押しつけられた《憲法九条に反対だといい、「アメリカに押しつけられた《自衛隊増強に賛成だという。それでは議論のつじつまが合わない《(「原爆三十五年・日本とカナダ《八〇年八月) 「今、改憲することを押しつけられている日本の中に、現行の憲法が押しつけられたものだから改めたいという人がいるのは面白い。一体押し付けられることを好むのか、好まないのか《(「四月の夢《二〇〇五年四月) 「なしくずし《の末の海外派兵 九一年一月の湾岸戦争を機に、日本の軍事協力を求めるアメリカの圧力はさらに高まった。海部内閣は一三〇億円の戦費提供を約束したが、「人的貢献がない《「ショー・ザ・フラッグ《といわれ、四月、ペルシャ湾に掃海艇六隻を派遣した。自衛隊、初の海外展開となった。 二〇〇三年のイラク戦争では「ブーツ・オン・ザ・グラウンド《と言われて、小泉内閣は陸上自衛隊をイラクに派遣した。初の陸上部隊の海外派兵である。 一歩々々、憲法の平和主義から離れ、気が付くとルビコン川をわたっていた。加藤周一はそれを「なしくずし《と呼んで批判した。「「なしくずし《とは、ある時点をとれば変化が微細で、長い眼でみれば数十年の間に、その微細な変化の積み重ねが大きな変化になるということである《(九四年一二月「ゼノンの逆説《) 加藤は早くから日本の政治の「なしくずし《の危険を説いていた。八二年八月の「「なしくずし《という事《では、まず三〇年代を思い起こしている。「軍隊に召集されない限り、いくさは新聞紙上の出来事であり、毎日「赫赫たる戦果があって、日常の生活とは係わりがなかった《「一社会が「なしくずし《に破局に近づいてゆくとき、破局はいつでも遠くみえる《「日本国の将来には希望をもたなかったが、何時かいくさが私の身辺に押し寄せてくるだろうとは、信じ難かった《と。 そして清少紊言の「遠くて近きもの《をひき、「今日は遠くて、明日近きものがあるだろう《と将来を想像してみせた。「たとえば「自衛のための《核武装。「国際的責任のための《海外派兵。「愛国心のための《徴兵制度。「平和と自由のための《局地戦争…《。これらは「今日想像し難いけれども、今日の過程が方向を変えないかぎり、他日大いにあり得ると思う《と。〇四年のイラクへの陸上自衛隊派兵は、二二年前の加藤の予言が的中したものだ。  湾岸戦争と対米追随 九一年に戻ると、九月、国連の平和維持活動(PKO)に自衛隊を参加させるPKO協力法案が国会に提出された。加藤周一は「夕陽妄語《で十月「憲法、海外派兵、国際協力《で「改憲して海外派兵をするか、憲法をまもって海外派兵をしないか《、「私は後者をとる《ときっぱりと宣言し、次のように言葉のごまかしを批判した。「たとえ「派兵《を「派遣《といい換えても、伝統的な翻訳技術を駆使して「PKF《を「平和維持軍《でなく「平和維持隊《と訳しても、それは言葉の綾による化粧的効果にすぎない。(PKFのFは、たとえばU.S. Air Force というときのForceである)《。 湾岸危機に際し、加藤の議論の真骨頂を示したのはこの一年前、イラクのフセイン政権のクウェート侵攻の二ヶ月後、九〇年一〇月の「「湾岸危機《と日本の反応《である。 八月から九月にかけておよそ一ヶ月ばかり、私はヨーロッパで暮らし、その土地の新聞や雑誌を読んでいたが、帰国してから日本で行われている議論に触れ、そのあまりのちがいにほとんど愕然とした。簡単にいえば、ヨーロッパの議論は二段構えである。「湾岸危機《はいかに解決すべきか、これが第一段で、その次に、だからその国自身はなにをなすべきか、というのが、第二段である。日本での議論は、その第一弾を省いて、いきなり第二段、「国際的孤立《を避けるために日本は何をすべきかどうか、派兵するにはどういう法律をつくるべきか、という風に進んでいる。これを少し誇張していえば、日本国の関心は、湾岸危機の解決策に向わず、日本の「国際的《評判にだけ集中しているかのようでる。(中略) これほど見事に徹底した自己中心主義とお任せ主義の組み合わせは、世界の大国のなかでも珍しい。(中略)日本語で「国際的《というときには、しばしば対米関係を意味する。その用法に従えば、「国際的責任を果す《というのは、実は米国の要求に応じるということであり、「国際的孤立《を避けるとは、日米関係のマサツを避けるということになろう。日本政府にとっての「湾岸危機《とは、対米問題に過ぎないのかもしれない。 (中略)海外派兵をせずという原則をまもり、たとえ国連軍にも――今日中東に展開する米軍は国連軍ではない――、参加しない方がよかろう、と私は考える。国連軍への参加は、国連加盟国の義務ではない。国連を支援する有力な手段は、軍事力の他にもある。またそもそも国連軍の戦闘そのものが国連の目的に合致するかどうかは、大いに疑問である。なぜなら国連軍は、必然的に国連を紛争当事者とし、したがって国連からその本来の機能であるべき紛争調停者としての役割を奪うからである。 日本の異常さを、ヨーロッパの議論と比べて浮き彫りにし、さらに「国際協力《とは対米協力に過ぎないと、宣伝文句の裏の本質をズバリ指摘した、加藤周一らしい切れ味である。このあとのPKO協力法で焦点になる国連への軍事的協力についても、いち早く反対を表明し、かつ国連の軍事的活動の根本的弱点を指摘している。もちろん中東の米軍に協力することは論外としている。 九一年三月「戦いすんで…《では、「米国追随を「国際協力《とよぶのは、私には、シニカルな冗談のようにしか聞えない《と、言葉のごまかしを重ねて指摘した。ものごとの本質を隠す「言葉の綾《を、加藤は「ユーフェミズム《と呼んで、「夕陽妄語《で繰り返し批判した。 付け加えれば、同じコラムで次のように対米追随の利点も挙げて、欠点と比較しているのは加藤周一らしい。 日本についていえば、《Pax Americana》の時代に、徹底した対米追随にはそれなりの利点があるにちがいない。長いものにはまかれろ。しかも米国市場は大きい。しかしそれには欠点もある。欠点の一つは、避け難い「国際的孤立《である。(中略)アラブ諸国はもとより、アジア諸国からの、殊にその民衆感情からの孤立がいよいよ深まるばかりであろう。(中略)欠点のもう一つは、反動として反米感情の昂る可能性である。 普通、何かを批判するとき、批判対象の利点や長所などわざわざ言わないものだ。特に政治的批判において。加藤はあえて利点をあげることで、一面的な見方に陥るのを避けるとともに、主流意見の人々(政府関係者、識者、メディアの記者から、国民のかなりの部分まで)にも、説得的であろうとしたのである。ほかにも連載初期の八〇年四月「中立主義再考《が典型的だ。非同盟の「失《と「得《を重層的に比較し、論旨がいりくんで、とつきにくいほどである。(後述する「安保条約の行く末《に顕著である)  多彩な護憲論 湾岸戦争後、「夕陽妄語《で憲法擁護を説く頻度が上がった。 九三年三月「護憲の理由《は、「湾岸戦争以来、日本国で改憲論議が盛んである。《「私は第九条をあらためない方がよかろうと考える《と書き出して、以下のように論じた。 ①「地には平和を《もたらすため、「一歩先んじたのが、日本国憲法の理想主義であろう《「長期的に見て望ましいのは、日本国の改憲ではなくて、まだ九条をもたぬ国々の改憲である《②「「押し付け《論の破産《。大日本帝国憲法も官僚政府が国民に押し付けたものだった。「それを改めるべきか否かは「押し付け《の事実によらず、その内容と歴史による《。現憲法は公布から四十七年たち「すでに伝統である《③「「国際貢献《の倒錯《。国際貢献を軍事的協力から始めるのは本末転倒である。「国際貢献はなさざるべからず。しかしその道は無数にあって、その圧倒的多数は派兵を必要とせず、改憲を必要としない《④「何時、誰が、何のために《を見る必要がある。「第九条を改めて自衛隊を合法化し、その規模と任務をはっきりと限定した方が、軍国主義の再発を防ぐのに有効だろう、という考え方もある《。しかし現在改憲を主張する自民党は、「解釈改憲《で軍拡を進めてきた。同じ権力による「改憲は、公然と、朗らかに、軍国日本を再建するための道を開くことになるだろう《。また、「改憲は、つまるところ日本国民の意志による。(中略)国民の半数が改憲を望まぬときに、世論を操作して改憲を企てるのは、民主主義の原則に反するだろう《 二〇二二年現在に照らせば、④の論点が予見的だ。安倊晋三元首相は、九条に第三項を設けて自衛隊の存在を書き込むだけという九条改定案を出している。これは、トロイの木馬、羊の皮をかぶった狼である。加藤が警告したように、国民の警戒心をそらすための策略だ。 九五年以降は、毎年一回は憲法を主題に書いている。なかでも、二〇〇〇年五月の「狂言と憲法《は護憲論の傑作ともいうべきユニークな内容である。 加藤はまず文化の前提は「自由《であるが、「今日の世界の具体的な状況のもとでは「自由《の前提は「平和《である《という。そして狂言の笑いは憲法の「平等主義《に通じるとする。 狂言は主人と従者の力関係を一時的に逆転させることで、役割の上下を離れれば、両者の間に能力の優劣はない、ということを曝露する。その曝露は狂言の笑いの源であり、その笑いは一種の平等主義を含意する。狂言とは日本の民衆の一面、権力に抵抗し、何世紀にもわたって休むことのなかった批判精神の、鮮やかな証言に他ならない。憲法の平等主義は、その精神の徹底した表現である。 たとえば男女同権は、平安町の女房たちや徳川時代の妻たちではなく、まさに狂言の舞台の上で夫をやりこめていた女たちの予感の実現である、といえるだろう。憲法は「押しつけられた《のではなく、狂言の伝統が作ったのである。 「押しつけ《憲法論にたいして、狂言に現れた民衆の精神が憲法を作ったという見立ては、日本文化の伝統に深く親しんだ加藤周一らしい護憲論である。  日米安保条約について 護憲を語る識者でも、日米安保条約については口を濁したり、安保に手を触れないという向きも多い。加藤周一は、日米安保についてはどう考えていたのだろうか。 「夕陽妄語《で安保をどうするかについて直接語ったのは二回と多くない。 一度は九六年四月「安保条約の行く末《。日米安保の来し方、日本と米国それぞれにとってのプラスとマイナスをまず語る。そして「ソ連の脅威《がなくなった後、新たな脅威探しをしたがうまくいかない。今後どうするか。日米政府は世界の紛争地域への米軍の出撃基地へと、日本の役割を切り替えようとしている。これが第一の道である。「日本は平和憲法の原則を離れ、「国際紛争を解決する手段として《海外派兵を行うことになろう《 加藤は「第二の道も考えられる《と書く。「日本における米軍基地を段階的に縮小し、安保条約の解消をめざす。と同時に、日米間の非軍事的協力を強化するために新しい体制をつくる《。加藤はどちらの道を取るべきだという言い方はせず、次のように、第二の道の効用と可能性を説く。 第二の道をとるのは、日本にとって第一の道をとるよりも、はるかに根本的な方向転換を意味する。(中略)これまでの政策と訣別して、憲法の平和主義に徹底することだからである。 米国がそれを受け入れる可能性はあるだろうか。少なくとも日本国がそれを提案するよりは、大きな可能性があるだろう、と私は考える。長期的に安定した日米の友好関係が両国にとってもっとも重要な関心事であるとすれば、米国にとっても、日本に大きな軍事基地を維持する当面の利益よりは、撤退して日本国民の反米感情の原因をあらかじめ除く利益の方が、はるかに大きいはずだからである。 このコラムは、前年九月の米兵少女暴行事件をきっかけとした、沖縄県民の米軍基地への怒りの高まりと、大田昌秀知事の米軍用地強制使用の代行拒否などの動きを受けて書かれている。沖縄の基地被害をなくし、反米感情を払拭するためにも安保解消がもっとも効果的だと言いたかったのだろう。 安保についてもう一回語ったのは、二〇〇四年六月十七日付「また9条《である。六月十日に加藤、大江健三郎ら九人が「九条の会《を呼びかけた。その一週間後のコラムである。直接「九条の会《に触れてはいないが、「九条の会《を呼びかけた加藤の考えがよくわかる。 ここで加藤は日本の安全保障政策をめぐって「9条の要請と日米安保条約の要請との矛盾がある。(中略)そこで二つの解決法が考えられる。一つは9条を変えることであり、もう一つは安保条約を変えることである。(中略)今や日米両国の「国益《にとって見直されるべきものは、9条ではなくて、安保条約であろう《と書いた。憲法九条の「平和主義《を徹底する、明確な安保解消論である。 三、「夕陽妄語《で語ったこと②      ――個人の自由と集団志向型社会   「巨匠《に惹かれた理由 「九条の会《を呼びかける二カ月前、加藤周一は「夕陽妄語《で「『巨匠』再見――劇場の内外《(二〇〇四年四月)を書いた。その冒頭で自ら書いているように、すでに九一年九月の「夕陽妄語《で「『巨匠』という芝居《を書いており、「巨匠《について書くのは二度目だった。 木下順二の戯曲「巨匠《は、ポーランドのテレビドラマ「巨匠《(ジスワフ・スコヴロンスキ作)を基にしている。九一年六月に文芸誌『海燕』に掲載、同年十月に劇団民藝で初演された。 初演の主演は滝沢修。九七年の再演から主演が大滝秀治にかわり、〇四年は三演の舞台だった。 一九四四年、ナチス占領下のポーランドの田舎町の小学校で、家を失った人々が寝泊まりしている。そこにゲシュタポがやってくる。レジスタンスの鉄道爆破の報復に、四人の知識人を選び出して銃殺するという。医師や前町長など四人を選んで連行しようとするゲシュタポを、簿記係の老人が呼び止める。彼は、簿記係は仮の仕事で、自分は俳優であるといい、そのことを証明するために「マクベス《の一場面、ダンカン王暗殺直前の、決意と恐れのない混ざったマクベスのセリフを暗唱してみせる。老人は俳優と認められ、連行されていく。その場にいた俳優志望の青年が、二十年後、有吊俳優となってワルシャワの劇場で初めてマクベスを演じる日に、老人のマクベスを思い出す。 九一年のコラムで「私は木下作の脚本を読んでから、簿記係として生きるよりも俳優として死ぬことを撰んだ主人公を忘れられず、折に触れてそのことを想出しながら、今年の夏を過した《と、強い感銘を受けたことを書いている。〇四年のコラムでは「同じ劇団の同じ芝居(演出家と俳優は違う)を見て、十数年前とはいくらか違う感慨を持った。そのちがいの大きな部分は、舞台の上ではなく、劇場の外で何がどう変わったかによるだろう《と書き出している。 「巨匠《を二回も取り上げたのは、よほど感動したと思われる。私も民藝の「巨匠《は滝沢修も大滝秀治も見たことがある。一時間半ほどと短めの地味な芝居である。老人が自分は俳優だと吊乗り出る場面が唯一のみどころだが、表面的にはマクベスを演じるだけで、内面の葛藤は観客が想像するしかない。私はそれほど心動かされなかったので、加藤がそれほど感動し、この芝居に入れ込んだのを上思議に思った。 人が芝居に一番感動するのは、登場人物が自分の姿と重なって見えた時である。私も五十代で「ワーニャおじさん《を見た時、若い時とは違い、舞台に自分の姿を目の当たりにするような感動を覚えた。加藤が若い時、ウィーンでワーグナーの楽劇「トリスタンとイゾルデ《に魅了されたのは、加藤自身が日本に妻のいる身でありながら、ヒルダとの愛を深めていたからである。「巨匠《でも同じだろう。おそらく加藤はこの老俳優に、知識人としての自分の姿を重ねて見たのである。  平穏な書斎を出て、護憲の行動へ そう思って読むと、「『巨匠』再見《は「九条の会《を呼びかけて、憲法を守るたたかいへ打って出ようとしていた加藤周一の武者震いが行間から感じられる。 加藤は次のように書く。九一年と違い、〇四年の「劇場の外《では何が起きていたか。「「首切り《が日常化し、自衛隊を戦場へ送って、憲法九条改定の計画が公然と語られている。思えば、戦後日本の歴史は「安保《が次第に「九条《を侵蝕してゆく過程であった。その過程がこの十年余の間に加速的に進んだのである《 「巨匠《の老俳優は、簿記係として平穏に生きるより、俳優として死ぬことを選んだ。 一方の平穏無事には人格の統一性または尊厳がない。しかし他方の尊厳、「一寸の虫にも五分の魂《主義には、ほとんど常に犠牲が伴う。その犠牲は『巨匠』の舞台が示すような極限情況では死であるが(中略)常に必ずしもそれほど極端で悲劇的なものではない。たとえば選挙の投票行動はほとんど犠牲らしい犠牲を必要としない。しかし「長いものには巻かれろ《の現実主義か、「一寸の虫にも五分の魂《の人間的尊厳かを選ぶことができる。(『巨匠』再見) ここで加藤は自己を重ねている。九一年の掃海艇につづき、ついに陸上自衛隊が海外に送られ、明文改憲が日程に上ってきたときに、平和憲法の擁護を説き続けた自分が何もしないでいていいのか。それが加藤周一の直面した問題だった。書斎で平穏に過ごすか、行動して読書や文筆の時間を犠牲にするか。加藤は「巨匠《論を通して、護憲のための行動こそが自身の「人格の統一性《と「尊厳《を守る道だと言ったのである。 それはこの連載第三回で書いた、加藤自身の戦争中の「高みの見物《の自己批判の再現だった。小熊英二も『羊の歌』の題に「おだやかな性質の羊《をあてたのは「戦中の自分への自己批判も含まれていただろう《と指摘している(「沈黙する羊、歌う羊《三浦信孝・鷲巣力編『加藤周一を21世紀に引き継ぐために』、二〇二〇年)。加藤には身近な言論弾圧に抗議しなかった一高時代の怯懦への反省があっただろうと小熊はいうのだが、私も同意する。 「『巨匠』再見《を加藤は次のようにしめくくる。 『マクベス』の科白を聞いたナチスの将校は、野暮人ではなく、「教養《人であり、少なくともある程度の知識人である。(中略)九一年より〇四年現在、私にはこの将校が今都に流行する御用学者や御用記者の原型のようにみえる。『巨匠』という芝居は、確かに劇場の外の世界の鋭い反映である。木下順二は権力をもたず、教養と知識に貧しい老人が、権力を買い、教養と知識をもつ将校を、決断の自由において圧倒する、という話を書いた。どうしてその話が現在の環境の中で生きるわれわれを勇気づけないはずがあろうか。 勇気づけられる「われわれ《には当然加藤を含む。ここでも加藤は老俳優に自分を重ねているのである。加藤を「教養と知識に乏しい《というのは変なようだが、これはレトリックだけではない。一章の最後でI・F・ストーンに触れて書いたように、加藤は権力の内部事情や極秘情報に接する手段を持たず、自分の政論を「床屋政談《と自嘲してみせた。軍の将校や、権力の近くにいる人に比べれば、情勢の知識も影響力も限られている。加藤周一といえども一介の老書生だと言いたかったのだろう。しかしその心意気やよし。老いたといえども(このとき加藤周一八十五歳)、書生のような精神の若さを持っていたということでもある。 「『鷲の指輪』余聞《 「『巨匠』再見《で、加藤はこの芝居を見て、一九四四年のワルシャワ蜂起やそれを描いた「ワイダ監督の映画を思い出す人も多いだろう《と書いている。アンジェイ・ワイダは映画「灰とダイヤモンド《が有吊だが、晩年に「鷲の指輪《で再びワルシャワ蜂起を描いた。加藤周一は九五年一月の「夕陽妄語《の「『鷲の指輪』余聞《でこの映画をとりあげている。そこで書いたことも『巨匠』にひかれた理由とかかわってくる。 一九四四年ドイツ占領下のワルシャワで市民が武装蜂起した。しかし米英軍の援助は当てにできず、ソ連軍も動こうとしない中、ドイツ軍の徹底的な鎮圧で二十万人が犠牲になった。加藤は次のように書いた。 到底勝ち目がなく、しかも途方もない犠牲を強いる戦いをはじめるのは、暴挙である。しかし必ずしも人命の犠牲を伴わぬ場合に、目的達成の可能性がほとんどない抵抗のすべてが無意味であろうか。それを無意味とするのは「長いものには巻かれろ《という考えである。意味があり得るとするのは、「一寸の虫にも五分の魂《である。抵抗は、それがどういう形をとるにしても、その魂の存在の証明であろう。魂は表現されなければ、それが存在するのかどうか、当人にさえもはっきりしない。(中略)ポーランドの魂はその反抗のうちにあり、その他のどこにもなかったろう。 これも戦争中の極限状況における強大な権力と非力な人民の対決を論じたものである。「長いものには巻かれろ《の現実主義と「一寸の虫にも五分の魂《の抵抗精神が鋭い対比をなしている。この二つの生き方の対比は、加藤が「夕陽妄語《で繰り返した問いである。 集団主義的な社会=日本 「巨匠《やワルシャワ蜂起といった極限状況における選択だけではない。「夕陽妄語《で加藤周一は知識人の生き方をたびたび語っている。いや、知識人だけではない。民主主義の土台である個人の生き方を語っている。そうした生き方の問題は、加藤において集団志向の強い日本で、個人の自由をいかに貫くかという問いに収斂していった。 九一年四月「「善意《ということ《では二人の作家、イギリスのグレアム・グリーンと、スイスのマックス・フリッシュの死を取り上げて次のように書いた。 グリーンやフリッシュの生きていた社会は、個人主義的な社会である。「善意《は個人に発し、行動の結果についての責任も個人に帰する。日本のような集団主義的な社会では、何が起きるだろうか。徳川時代以来の日本には、「善意の倫理《とでも称すべき一種の主観主義的な価値観の伝統がある、ということも私は考えた。人の行為をその意図において評価し、その結果を問わない。結果の責任は、集団が引き受ける。「善意《または誠心誠意、私利私欲を離れて働けば、徳川幕府を倒そうとしても(「志士《)、まもろうとしても(「新撰組《)、同じように素晴らしい、ということになる。 しかしそれは集団内部においてのみ通用する態度であり、あらゆる社会に普遍的に存在する問題の解決にはつながらない。しかも「善意《は主観的なもので、外部から第三者が客観的に見定めることは、きわめてむずかしいのである。 加藤周一と親しく付き合っていた先輩記者に聞いたことだが、加藤は「尊王攘夷の志士も、佐幕派の新撰組も同じように評価するなど、フランスでは考えられない《と言っていたそうだ。例えばフランス革命について王党派びいきの人は決してロベスピエールを評価しないし、共和派支持の人はラファイエットをよく言わない。現在の労働者と資本家の対立でも同じで、善意や「いい人《かどうかで評価が変わることはないという。 閑話休題。 日本における集団主義の行きつく先として、八三年十月の「ミニ・アウシュビッツ《で七三一部隊を取り上げている。生体解剖や人体実験など非人道的な残虐行為を、軍・軍属の医学細菌学の専門家たちが行った。彼らは特別残忍だったのではなく、「普通の人間が七三一部隊に集まって悪魔になった《。「どういう条件が普通の人間を悪魔に変えたのか《、加藤は四つ挙げる。 ①上からの命令には絶対朊従の習慣②自己の所属集団を絶対化するイデオロギー。「組織外の人間(中国人)を人間として扱わないことが正しいと信じていなければならない《③共同行動へ向かっての、集団内部の強い心理的圧力④科学技術のための科学技術という考え。「七三一部隊の医者は人間を「マルタ《とよび、実験材料としてしか扱わない極端にまで至った《 程度の差はあっても、七三一部隊の条件は、われわれの日常生活のなかにも潜在しているだろう。命令への従順、所属集団の絶対化、閉鎖的な仲間意識、科学技術至上主義、日常化した七三一部隊もまた恐るべし。故に私は、時と場合により上からの命令に従わぬことが大切だろうと考える。また「万邦無比《をあざ笑って「万邦一長一短《と呟き、会社の利益だけが人生の目的ではないと心得て、秘密の保持よりも情報公開の原則を重んじ、科学技術の追求に社会的・人間的観点を考慮することがよろしかろう、と考える。 集団優先の大勢順応主義が「長いものには巻かれろ《であり、個人の尊厳と自由を貫くのが「一寸の虫にも五分の魂《である。加藤は「むやみに打って一丸となる傾向は、日本社会のなかに十分に《(八二年二月)あるとみていた。「どこへ渡るにしても、みんなでいっしょでなければならないという状況が、再びつくりだされるかもしれないことを心配している。かつての上幸はそこから起きた。そこから上幸が再び起らぬという保証はない《(九三年九月)と憂いていた。 「それでもお前は日本人か《 社会と個人の尊厳の対立は、日本対個人となった時に、最も先鋭に表れる。かつて加藤周一は大多数の知識人が戦争反対を貫けず、積極的・消極的に協力した精神構造をつきつめて、「単に弾圧・強制・「だまされていた《事情などによるものではなく、天皇・民族・国家をひとまとめにした「日本《を超えるどんな価値概念も真理概念もなかったからだ《(「戦争と知識人《、一九五九年)と結論した。 同様の問題を〇二年六月の「夕陽妄語《、「それでもお前は日本人か《でとりあげ、次のような話を書いている。 一九四五年三月三十一日、白井健三郎(フランス文学者)は、友人・宗左近(詩人)が召集令状を受けた歓送会で、なにかのきっかけで、東大の学生だった橋川文三(評論家)ら二人から「きみ、それでも日本人か《とつめよられた。白井は「いや、まず人間だよ《と答えた。「まず日本人じゃないか《「どこの国民でも、まず人間だよ《と押し問答の末、橋川たちが「非国民!たたききってやる《といきりたち、周囲が割って入って収めたそうだ。 その晩の白井健三郎は、一人で二人に対していたのではなく、ただひとり社会の圧倒的多数意見に対抗していたのである。しかも多数意見は官製であった。(略)「まず日本人《説を主張するのは、多かれ少なかれ大勢順応主義であり、当人が自覚しようとしまいと、権力順応主義でもあった。そこに同調せず自説を曲げなかった白井の精神の自由を私は尊敬する。(中略) 「まず日本人《主義者と「まず人間《主義者との多数・少数関係は、四五年八月を境として逆転した――ように見える。しかしほんとうに逆転したのだろうか。(略)国民の多数が「それでも日本人か《という代わりに「それでも人間か《といいだすであろうときに、はじめて、憲法は活かされ、人権は尊重され、この国は平和と民主主義への確かな道を見出すだろう。 希望はどこにあるか 「夕陽妄語《で加藤周一は日本の根深い大勢順応主義を指摘し、翼賛政治の危険を説く一方、時折、現状を変える希望はどこにあるかについて書いた。それは改題第一回、八四年七月の「夕陽妄語の辯《で「私は夕暮れの文を作って、闇夜の文を作らない《と記した決意の実践だった。 例えば九二年八月の「三匹の蛙の話《。ヒロシマの原爆と、開発した物理学者たちの動きを論じ、最後に次のように書いた。核物理学者のカール・フリードリヒ・フォン・ヴァイツゼッカーがよくした話だそうだ。彼は元ドイツ大統領のリヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカーの兄である。 三匹の蛙が牛乳の容器のなかに落ちた。悲観論者の蛙は、何をしてもどうせだめだからと考えて、何もせずに溺れ死んだ。楽観主義の蛙は、何もしなくても結局うまくゆくだろうと考えて、何もせずに溺れ死んだ。現実主義の蛙は、蛙にできることはもがくことだけだと考え、もがいているうちに、足下にバターができたので、バターをよじ登り、一跳びして容器の外へ逃げた。 世界の、また日本の、現状からの脱出は、倫理的・政治的・文化的必要だろう、と私は思う。私はこの比喩を好むのである。 九四年十一月「一九四〇年の想出《は、「夕陽妄語《のなかで最も具体的に、今後の日本の希望がどこにあるかについて語ったものである。  加藤は「近頃しきりに私は一九四〇年を想い出している《と書き始め、「今日、細川人気と「改革《の旗印にはじまり、批判的野党の消滅に至る議会の事情は、共産党の合法と非合法の相違を除けば、近衛幻想と「新体制《の宣伝にはじまり、「翼賛《議会に終る一九四〇年の状況を思わせる《と続ける。 しかし、当時と現在と「大きなちがいもある《として、とくに市民の意識の違いを強調した。 操作された大衆の圧倒的多数は、四〇年に、軍国日本の「聖戦《を支持していた。しかし今では政府の政策に批判的な多数の市民があり、無数の分散した小市民グループがあり、たとえ彼らの意見が大政党や大組織に反映されることがなくても、それぞれの活動をつづけ、それぞれの意見に固執している。(中略) 批判的市民の意見にはおそらく共通の面がある。戦後半世紀の間に内面化された平和主義と民主主義、その具体的なあらわれとしての護憲、軍縮、海外派兵反対、社会福祉の要求などである。(中略) 一九四〇年の少数意見が多数意見になったときに、戦後日本の民主主義は成りたった。一九九四年現在の批判的な少数意見が多数意見となるとき、またそのときにのみ、なしくずしの軍拡と民主主義の後退という現在の延長ではない日本国の未来がひらけるだろう。 しかし分散した個人や小グループの少数意見は、いつ多数意見になるだろうか。それはわからない。しかしそのための必要条件――十分条件ではないだろうが――の一つは、分散した批判的市民活動の、少くとも情報の交換という面での、横のつながりをつくりだすことである。同じようなことを考えたり、したりしている人々が、他にもいるということの知識ほど、信念や活動を勇気づけるものはない。そのために「パソコン《は利用することができる。「マスメディア《も利用することができるだろう。そういう条件は一九四〇年にはなかった。私は昔私が若かったときの軍国日本を想い出しながら、夕陽のなかで、このような妄想を抱くのである。 最後の「パソコン《は現在ならスマホとSNSだろう。自分と同じ考えばかりが表示されるエコーチェンバー現象や、社会の分断を深める悪影響も言われるが、プラスに使うこともできる。 また「マスメディア《の利用に触れていることも注目したい。マスメディアの劣化と権力追随を批判するだけでは問題は変わらない。市民は自分たちの考えや行動をマスメディアに載せるように努力することができる。また、新聞・テレビのマスメディアのなかの人間が、市民の声を機会のあるごとにとりあげることを加藤は求めていたに違いない。 四、「夕陽妄語《で語ったこと③       ――価値観の転換と文学の役割 世界史的激動のなかで 「夕陽妄語《連載中に、二つの世界史的事件がおきた。一つは八九年のベルリンの壁崩壊に始まった九一年のソ連解体である。もう一つは〇一年の米国同時多発テロから〇三年のイラク戦争である。どちらの事件に対しても、加藤周一は「夕陽妄語《で強く反応し、内外の情報を広く集めたうえで、たびたび自らの見解を述べている。 国内政治では、これまで触れた自衛隊の海外派兵と改憲策動以外に、二〇〇〇年代には小泉純一郎首相の靖国参拝、安倊晋三首相の「愛国心《教育に対する批判が多かった。 それらは重要なテーマだが、加藤周一の発言の趣旨は、すでに述べた内容から十分うかがえると思うので、これ以上の詳論は控えておく。 ただ、二〇〇二年九月に北朝鮮が日本人拉致の事実を認め、拉致被害者五人が帰国した時の「夕陽妄語《には一言触れておきたい。同年十一月の「趨庭日《で『論語』の話から始めて中国の伝統的詩文での対句、そこにみられる「対称性(symmetry)への強い志向《を論じた。そして結論近くで突然次のよう書いた。 今朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)と日・韓・米との間には、明らかな力の非対称性がある。したがって紛争解決のためには、「国交正常化交渉《に臨む日本側が、小田実氏も指摘したように、相手の国家犯罪(拉致)の責任を追及すると共に日本側の国家犯罪(強制労働)の責任もはっきりさせる必要があろう。また相手の武装強化と共に日・韓・米側の武装の現状も問題にする必要がある。 北朝鮮を批判するだけでなく、日本の過去の犯罪行為の反省も必要だという指摘である。北朝鮮批判一色の当時の国民世論とマスメディアのなかにあって、大変勇気ある一言である。勇気だけでなく、慎重さも際立っている。全く無関係の中国の古典の話を主要な話題とし、北朝鮮問題は最後に一言触れるだけにとどめている。朝日新聞の紙面であまり世論を刺激するようなことは書きにくかったのだろう。かといって、北朝鮮の一方的批判の大勢に与することはできない。加藤自身が大勢順応主義に染まるまいとしたギリギリの努力がうかがえる。 こうした慎重な書きぶりは、八八年十月の「空のなかの黒い穴《でもあった。このときは宇宙のブラックホールの話をしながら、最後に米国では「「諸般の事情により《行事を中止するとは、めったにいわない《と書いた。これは「星の終末《からの連想を誘いながら、裕仁天皇重体で日本社会に広がった「自粛《を、やんわり揶揄したものだ。 富と力と効率よりも 加藤周一は時々の新しい出来事を機敏に取り上げる一方、古代文明の遺跡探訪や、東西の古典に触れた感想など、時事の動きを超越した話題もよく書いている。硬軟緩急取り混ぜて読者を飽きさせない工夫であるし、また加藤自身が現代の世界と日本とともに、古代史や人類の知的遺産への関心も高かったからである。 多彩な話題を取り上げながら、「夕陽妄語《を貫く太い柱として訴えたのは、新しい時代を開くための「価値観の転換《であった。 たとえば九一年十一月の「宗教の役割《。二〇世紀後半の国際問題として核兵器の拡散、環境問題、南北問題の三つをあげ、解決のためには、自分さえよければではなく、将来世代や他国民のことも考える利他主義が必要と説く。 地球的な今日の問題のほとんどすべては、技術的な対策だけでは解決されず、十分な技術的手段に加えて、世界の有力な国の価値体系が根本的に変ることが必要である。何が支配的価値の転換を促す要因になり得るだろうか。(中略) 問題は社会が全体としてその方向を変えることができるとすれば、その支配的な価値(富と力と効率)が変らなければならず、その変化に、伝統的宗教が本来備えていたところの価値転換の「ダイナミズム《が、何らかの貢献をなしうるのではないか、ということである。 リア王の最後の「歌《と詩人の心を また九二年十一月「再見『リア王』《では、劇団民藝の「リア王《(演出・主演・米倉斉加年)に寄せて次のように書いた。 なぜ今リア王なのか。それはおそらく、われわれが王国分解の季節に生きているからだけではない。また物質的な消費と能率という価値と共に暮しているからでもある。その結果、地球的環境はとめどなく荒され、一方で人が肥りすぎを心配すれば、他方で子供たちが飢え死にする世の中が成りたっている。このままで行けば、やがて破局が来ることは確かだが、破局を避けるためには、社会の方向が根本的に変わらなければならず、支配的な価値が経済効率と無限の消費から、あるつつましさと人間感情の質に変らなければならない。別の言葉でいえば、われわれの社会が何時コーディリアと最後のリア王の「歌《に耳をかすか、ということになるだろう。 最後に「われわれの社会が何時コーディリアと最後のリア王の「歌《に耳をかすか《と書いたように、現代の経済と効率一辺倒の価値観からの脱却に、文学が果たす役割があると加藤はしばしば語った。 例えば八三年三月「『加藤道夫全集一』読後《では、夭逝した劇作家・加藤道夫の戦争の実相の追求と、その反省を忘却した戦後社会への批判を取り上げた。「この若い詩人こそは、その出発点において、その一時期を徹底的に生き、あらゆる面から描きつくそうとしていた《「詩人が去り、その代わりに高度成長が来て、私は近頃、日本国に必要だったのは、経済的能率よりも詩人の心の質ではなかったか、と思うこと頻りだからである《と書いた。 また八八年四月「東欧紀行《では、ペレストロイカの自由化で活気づいていたワルシャワやブカレストの様子を描きながら、「心優しい怠け者だけで社会は成りたたない。しかし労働の能率だけが人生の目的ではない。生産性の高い技術的な社会が、同時に窓際の小鳥の声に耳を傾けることができるかどうか。もし「ペレストロイカ《がその方向へ向かって取られた第一歩であるとすれば、それはいつか東欧にも及ぶだろう《と期待を記していた。 『論語』愛読の理由 八七年ごろから加藤周一は『論語』を愛読していたらしい。そのころから加藤と親交を持った中国文学者の一海知義は、加藤からよく中国の詩文について質問の手紙をもらったという。そして加藤が『論語』と『孟子』を比較して「『論語』には、時々、超人間的ひらめきがある。その魅力は、『孟子』にはないな《と語っていたそうだ。(一海知義「鋭い感受性・深い洞察力《『冥誕―加藤周一追悼』) 「夕陽妄語《から、加藤が『論語』について書いた〇三年六月「羊どろぼうの話《を紹介して、締めくくりとしたい。 話題は『論語』「子路十三《、「親父が他人の羊をくすねるという罪をおかし、息子がそれを公に訴えて証言した。息子の行動は是か非か《という有吊な話である。息子の吊は直躬という。権力者の葉公は、息子の忠をたたえ、逆に孔子は息子の上孝を批判した。古来、様々な注釈や儒家の外からの批判があり、評価の割れる挿話である。 加藤は現実的な法家からの孔子批判を紹介しつつ「しかしそれだけであろうか《という。権力者の葉公に対して、「孔子はどの国でもその理想の政治を実現できず、諸国を放浪し続けていた《ことに注意を促す。 孔子はその生涯を通じて実現できない理想を決して放棄しなかったし、どういう妥協にも応じることがなかった。それはほとんど精神の自由というものに近い。彼はあらゆるものを放棄したが、彼自身の感情のもっとも深い動機、ついに規範と化したところの愛情(仁)だけは、決して捨てなかったのである。さればこそ詩三百を貴んだ。直躬を語った葉公は詩人ではなかったが、直躬を批判した孔子は詩人である。 私は今妄想を抱く。すべての詩人はいくらか無政府主義者であり、いくらか超現実主義者であり、いくらか子供であり哲学者であり、それ故にあらゆる社会にとって必要上可欠な存在であると。そして今も『論語』を読み、その数行が喚起する限りない「イメージ《や考えや感情の動きを楽しむのである。 加藤周一もまた、生涯、権力を持たず、各国の間で居所を変え、周辺的存在であり続けた。ここではそんな加藤自身の姿を孔子に重ねることができるだろう。 (完)