『日本文学史序説』をめぐって 加藤周一論ノート(7)  ■はじめに  加藤周一の主著といえば、真っ先に『羊の歌』正続と『日本文学史序説』があがる。どちらも加藤が主に海外で暮らした時期に書かれ、週刊誌の『朝日ジャーナル』に連載されたという共通点がある。  『羊の歌』は一九六六年一一月からほぼ一年間連載され、六八年に岩波新書から正続二冊で刊行された。連載時は四七歳だった加藤が、自らの半生を振り返った自伝である。自伝を書くには少し早い年齢だが、これは功成り名を遂げた人間の自慢話ではなく、自己形成の記録である。四〇歳を過ぎた人間は、その人物・性格が大きく変わるものではないという意味では、早すぎることはない。  執筆の直接のきっかけは、サルトルの自伝『言葉』を読んだことだろうと、海老坂武が『加藤周一』(岩波新書)で指摘している。フランスで『言葉』が発表されたのは一九六三年、白井浩司による邦訳が出たのは翌六四年である。発表時、サルトルは五八歳だった。ちなみにサルトルは六六年九月にボーヴォワールとともに来日した。この時、加藤はサルトルとNHKで対談し、雑誌『世界』で座談会に出席し、京都に同行するなど親しく接した。  『羊の歌』については、拙稿でもこれまでの加藤の著作の背景を知るために、逐一参照してきたので、あらためては取り上げない。一層立ち入った研究としては、鷲巣力『加藤周一はいかにして「加藤周一」になったか―『羊の歌』を読みなおす』(岩波書店、二〇一八年)がある。加藤があえて書かなかった事実や、言外の意味をいくつも発掘しており、私も大変教えられた。  本稿では、もう一つの主著である『日本文学史序説』をとりあげたい。古代の『古事記』『万葉集』から、戦後の井上ひさし、大江健三郎まで、膨大な作品を取り上げながら、太い筋の通った思想のドラマとして描き切った。とくにこれまで文学として扱われなかった、日本人の仏教著作や漢詩、漢文による著作を文学史に位置づけたことに特色がある。上下二巻、ちくま学芸文庫で計一〇八〇頁の大著である。  入手しやすい本でもあり、内容はじかに読んでもらうことが一番である。ここではいくつかポイントを絞って、『日本文学史序説』の周辺について書いてみたい。    1、文学概念の拡大    ■海外で講義を聞いた人たち  『日本文学史序説』は前半が、一九七三年一月から七四年八月まで、少しの休憩をいくつかはさみながら『朝日ジャーナル』に連載された。後半が七八年一月から再開し、一度の中断をはさんで七九年一〇月まで連載された。八〇年四月の筑摩書房版の単行本下巻刊行に際し、大正・昭和の一章を加えた。八〇年五月の平凡社の『加藤周一著作集』第五巻収録に際し、短い終章「戦後の状況」を書き足して完結した。ちくま学芸文庫版(一九九九年)は人名・事項索引を付しており、本書の利用価値を飛躍的に高めている。  加藤周一が亡くなった時、大江健三郎は訃報で「『古事記』から大江健三郎まで」という本書の紹介を聞いて首をかしげたという。筑摩書房版しか見ていなかったからだ。もしやと思って『著作集』版を初めて見て、自分のことが書いてあると知ったと語っている(案外、大江流の冗談かもしれないが)。  拙稿第五回でふれたように、加藤周一は一九六〇年から一〇年間カナダ・バンクーバーのブリティッシュ・コロンビア大学(UBC)の客員教授をつとめた。UBCの一〇年を加藤は「蓄積の時代」と語っている(『過客問答』九八頁)。UBCには、赤狩りの犠牲となったノーマン・メイラーの蔵書など充実した日本語文献があり、日本古典の研究には何の支障もなかったそうだ。その後、西ドイツのベルリン自由大学で四年教え、つづいて米国のイェール大学で七四年九月から七六年七月まで教鞭をとった。  七八年四月から二年間はスイスのジュネーブ大学客員教授をつとめている。  海外での学究生活の中で、加藤が取り組んだテーマは日本の古典文学である。  UBC時代の加藤の教え子であるソーニャ・アンツェン(現トロント大学名誉教授)は、江戸時代の富永仲基についての講義を聞いた。「鎖国という徳川時代の体制のなかで、富永仲基が日本の思想や国民性について『国際比較』の視点をもっていたことを加藤先生は強調していた」と語っている1(鷲巣力『加藤周一を読む』一七一頁)。  また作家の水村美苗はイェール大学で学生として加藤の講義を二年間うけた。最初の年は、加藤の共著『日本人の死生観』を基にした講義だったが、二年目は、生徒が水村一人になったため、水村の自宅で講義するようになった。『日本文学史序説』の鎌倉時代の文献が当時の講義の内容だったという(水村美苗「私が知っていた加藤周一さん」二〇一四年九月一九日、東京・日仏会館での講演)。ただ、水村が講義を聞いたとき、連載は江戸時代の半ばで中断中だった。筑摩書房版の上巻も七五年二月に出版されていたので、この講義は既に書いたものをもとにしていたのだろう。    ■「生活の破壊に近かった」  このように、加藤周一は一九六〇年から身は海外に置きながら、日本文学の古典の森に分け入り続けていた。その蓄積に立ち、満を持して連載したのが『日本文学史序説』である。  それにしても、これだけの密度の文学論を、毎週、四百字詰め原稿用紙で二五枚前後書き続けるというのは驚くべき集中力だ。しかも毎週テーマは変わる。『古事記』から『万葉集』へ、王朝物語から鎌倉仏教の経典へ、江戸時代の儒者から芭蕉の俳句へと、週刊ペースで書き続けたのは信じられない。  加藤自身は自信があったから連載を始めたのだろうが、執筆は大変だったようだ。  『『日本文学史序説』補講』(二〇〇六年)のなかで、聴講者から連載は「相当厳しかったのでは?」と問われて、「相当厳しい以上で、ちょっと生活の破壊に近くなっちゃった」と答えている。「友達にも会えないし、映画の一本も観ることもできなかった。つまり眠ってないときと食事していないときはあれを調べているか書いていました。締め切りが一週間だと、一日抜けると相当痛手を受けるわけ。ほかのことはなにもできません」と。  それでも週刊誌連載を選んだのは、「週刊誌が多くの読者をもっていたことと、編集者が非常に熱心に支えてくれたから」と、もう一つ「一種の自発的強制なんです」という。  「そうでないとなかなか終らない。書く材料はいくらでもあるけれど、作家の名前は絞りに絞ってああなった。主な著作を読めば全部入れたくなるし、参考書は無限にあるし、どの程度まで読むのか、どこかで見切り発車しなければあの本は終らないですよ。(略)一週間ですから、四日調べて三日書くか、三日調べて四日書くかということになる」(二四三―二四四頁)。  「見切り発車」といっても、内容の質を落としているわけではない。それは読めばわかる。とにかく週刊誌という縛りを自ら設けて、書き続けたのである。  もう一つ驚きは、こんな硬い連載を部数の多い週刊誌が載せたということ。『朝日ジャーナル』は大学生の読者が多かったというけれど、今ではとても考えられない。『日本文学史序説』を週刊誌が連載したということ自体が、時代を物語っている。    ■日本文学協会第一二回大会  『日本文学史序説』執筆のきっかけは意外なところにあった。  加藤周一は西洋見物の後で「日本人がフランス文学について書いてもフランス人は読まないが、日本文学についてなら読むかもしれない」と考えたと、どこかで語っていた。だから一九五五年に帰国した後は、フランス文学について書くのをやめ、日本の文学・美術について語るようになった。その延長で日本文学の通史に取り組むのは当たり前と、いつの間にか思っていた。しかし、それだけではなく、具体的なきっかけが別にあったのである。  加藤周一は『二〇世紀の自画像』(ちくま新書、二〇〇五年)で、問題意識のきっかけを成田龍一に答えている。「一九五〇年代に日本文学研究者が集まって、中世文学を議論する大きな会」に招かれた。その会の学問的指導者の国文学者、中世文学が専門の西尾実(一八八九〜一九七九)と「論争」したのがきっかけだという。    そのとき、中世文学の精神が平安朝の文学とどう違うかという話が花盛りでした。 西尾先生も含めて。何を材料にしてそういう議論をするかといえば、鴨長明の『方丈記』と兼好法師の『徒然草』なんです。それを分析して、これは平安朝には言わなかったことで、ここで精神が変わったとか言っているわけです。  私は「そういう議論は専門家が『徒然草』をよく覚えていて、うまく引用しながらやっていますが、 それはあなた方のお楽しみで、 日本の中世の精神とは何かということについては、全く枝葉末節であり、そんなことをいくらやっていたって何もわからないだろう」と言ったんです。 「それなら何をすればわかるのか」ときかれたので「それは言うまでもなく鎌倉仏教じゃないですか」と答えました。「兼好法師は面白いでしょう。でも古代が中世に変わったというのは大問題です。中世の精神の成立に決定的な影響があるのは、味のある文章という程度のことではなくて、もっと根本的にいったいどういう精神の構造的転換が起こったかということでしょう。  そういう変化を代表する仕事は、『徒然草』ではなくて、たとえば道元の『正法眼蔵』ではないですか。どうしてそれを問題にしないのか。そうでなければ、細かいことを、いつまでやっていたって、結論は出ませんよ」と言ったんです。(中略)  その後も議論が続いて偉い先生と対決になった。それで自分の言っていることを証明しようという意図もあって、『文学史序説』を書こうと考えることになったんです。    日本文学研究者の集まる「大きな会」というのは、一九五七年六月に本郷の東京大学で開かれた日本文学協会(日文協)第一二回大会のことである。加藤周一は記念講演に招かれて、事前の予告は「文学における二十世紀(仮題)」という演題だったが、当日は「二十世紀と日本文学」という題で講演した。同時に開かれたシンポジウムが『中世文学の世界』というテーマだった。報告は西尾実が『徒然草』について、谷宏が『方丈記』ほかについて、風巻景次郎が和歌について、と三人の国文学者が行い、加藤も加わって討論した。    ■日文協の人たちの証言から  この時のことを西尾実も書いているが、加藤の話とは少し違っている。    また、道元の正法眼蔵の問題についても、昭和三二年六月の日本文学協会の大会の時に、加藤周一氏から、「日本の文学史で親鸞や道元を取り上げていないのはまちがっている。西洋ではパスカルの『パンセ』が文学史に取り上げられているし、説教も、すぐれたものは文学史に取り上げられている。日本では、それは仏教だといって文学史に取り上げていないのはおかしい」という意味の話があった。わたしはその時に加藤氏に初めて会って、「これまでの文学史でも、大きい文学史なら、必ず、法然・親鸞・道元その他の仏教家の著作も取り上げている。けれども、それは、ただ人と文章を取り上げているだけで、文学史における位置づけも意義づけも行なわれてはいなかった。そこに、課題が遺されている」と答えた。ただ、文学史の中に書いてあるかないかということでなくて、それが文学史の上にどういう位置を占め、どういう意義をもたらしているかということは、改めて問われなくてはならない。(「中世的なものの源流」『道元と世阿弥』岩波書店、一九六五年、二七頁。初出『日本文学』一九五九年七月)    実際にはどういうやり取りがされたのか。日文協の『日本文学』一九五七年九月号に第一二回大会のシンポジウム「中世文学の世界」の報告と討論が掲載されている。残念ながら加藤の講演は載っていない。討論記録ではたしかに一箇所そういうやり取りがあるが、あまり白熱した雰囲気はない。2  同誌で大会の当日参加者の声を見ると、加藤の主張がかなり強い印象を与えたことが読み取れる。たとえば「(加藤は)西洋中世文学における宗教的文学の存在意義と対照して、日本の中世文学における宗教的・僧侶的文学のいっそうの探求や、それの正当な評価・位置づけの必要なことが力説された」(新島繁の大会参加記)とある。  別の参加者は「現在刊行中の古典文学大系への批判と関連していて中世文学のワクをもっとひろげて、歎異抄や正法眼蔵を見なければいけない論」(加藤の意見)について、「基本的には賛成」しつつ、「『五山の詩(鎌倉・室町時代の禅僧の漢詩)には何か素晴らしいものがある筈だと思う』などという発言を読みもしないでするのはやめていただきたい」「五山文学の中で個性的なものはわずかの例外しかなくそれを文学的に取扱うためには実に様々な手続きを要する筈です。西洋諸国でラテン語で書かれた作品が自国の文学史の中でどう扱われているのかということ、したがって正法眼蔵や教行信証(親鸞の主著・北村注)、五山文学など漢文で書かれたものはいかなる意味で文学研究の対象となるのかといったごく基本的なところから出発すべきだと思います」(大隅和雄)と書いている。ちなみに『正法眼蔵』は漢字かな交じりの日本語の著作であり、ここで漢文の著作とくくっているのは誤解である。  加藤は平安朝文学と異なる中世文学の精神を、どの作品からつかむか、という問題だったと回想しているが、問題の中心は中世文学の対象の拡大だった。具体的には『方丈記』『徒然草』だけでなく、道元の『正法眼蔵』や親鸞の『歎異抄』など、鎌倉仏教の僧の著作も加えるべきだという主張だった。  参加者の感想から読み取れる内容は、『知性』一九五七年八月号掲載の「日本的なものの概念について」と、翌一九五八年の『文学』三月号掲載の加藤周一「文学の概念と中世的人間」と重なっている。当日の講演を大なり小なりもとにしてこれらの論文が書かれたのではないかと思われる。    ■「日本的なもの」と文学概念の拡大  ここで加藤の日本文学・思想の探求の足取りを確認しておきたい。  連載第四回「日本文化論の形成と発展」に書いたように、加藤周一が「日本的なもの」とは何かについて、初めて書いたのは「果して「断絶」はあるか」(一九五六年初出)だった。日本美術・文学の写実性、感覚性、日常性、経験性という特徴を具体的に示し、その根底にある「日本的なもの」の核心を「超越的な彼岸思想がなかった」ことと指摘した。次いで、日本で超越的思想を確立した例の方に関心が移り、その典型として鎌倉仏教に初めて論及したのが上記の「日本的なものの概念について」であった。この論文の発表は日本文学協会で講演した直後である。この論文の次のくだりは、おそらく日文協大会での話と一致するだろう。    たとえば、いわゆる中世文学の精神を代表する作品として、『方丈記』や『徒然草』をとるならば、もののあわれといい、無常といい、いわゆる日本的なものの典型が中世文学を特徴づけているようにみえる。(中略)たとえば『方丈記』の代りに『歎異抄(たんにしょう)』をとり、『徒然草』の代りに『正法眼蔵隋聞記(しょうほうがんぞうずいもんき)』をとれば、事情は忽ち一変する。日本文学に哲学がない、倫理的感情の深さがない、総じて、人間学の深い展開がないという伝説は、そこで忽ち崩れるだろう。 (中略)  この論文ではほかにも「たとえば日本文学史の中世の項に五山の文学叙述があっても無きがごとく、江戸文学の評価に漢詩人の所業が重きをなさない」と文学史の現状を批判している。五山の文学、江戸時代の儒家の文章、『今昔物語』、狂言、江戸の川柳・雑俳などを軽視・排除しているのは、国学者の「実に大がかりな偏見であった」と強い調子で論難している。  いずれにしても、加藤周一が日本文学の概念の拡大を訴え、その考えを具体的に有力研究者にぶつけた場として日文協の大会があった。その論議の延長戦上で『日本文学史序説』が起筆されたことを確認しておきたい。3  文学概念の拡大について加藤周一のまとまった考えは『著作集』第一巻「文学の概念」と、同三巻の「日本文学の方法論の試み」に見ることができる。  後者は六〇年代半ばに独文で書き上げていたもので、一九七一年にドイツと日本で発表された。最終的によく整理された考えを読める。  前者の論文「文学の概念」は、西尾実「言語と文学についての論」(一九六三年一〇月)への批判として一九六四に書かれたものである。雑誌『文学』発表時は「『言語と文学についての論』についての論」だった。  西尾は「ふたたび言語と文学について」を雑誌に発表して加藤に反論した。関連の論文を単行本にまとめた際に、さらに「みたび言語と文学について」(一九六九年)を書いて補足した。加藤にも西尾にもそれぞれ大きな意味を持った論争だが、『日本文学史序説』から離れてしまうので、ここでは立ち入らない。    ■西尾実の道元研究への影響  西尾実は戦前からの研究歴を持ち、戦後は国立国語研究所の初代所長を務めた国語・国文学・国語教育の権威であった。天皇制に奉仕した戦前の国文学を反省し、国文学界の民主化のためマルクス主義に立つ研究者と共に日本文学協会を設立した。同会は戦後の日本文学研究をけん引する存在だった。  一九五七年以降、西尾実は道元研究に力を注ぐようになる。加藤周一の指摘も一つのきっかけになったのだろうが、実は以前から西尾実は道元の文芸性に注目していた。大会シンポジウムでも加藤に対し「私は当然中世文学の研究というものは道元を極点とするものと考えているので、いまお尋ねがあった点は、「私もそう思います」というほかはございません」と答えていた。(『日本文学』一九五七年九月号)  一九四六年には論文「道元の「典座教訓」」を書いて、道元の「生れながらの文芸的素質の発揮」を認め、「中世文芸の芽生えを、この時代の仏教家たちの遺したものの上に探ることは、文芸史研究者の当然の任である」と記した。一九四七年の「道元の「愛語」」では「今から七百年前に、言語活動の表現性とともに、創造性をも発見し、明確に自覚して、これほど力づよく表現していることは驚嘆のほかはない」と書き、道元の遺著は「一種の文芸性を形成するに至っている」と書いていた。(引用は『日本文芸史における中世的なもの』一九五四年から)  中世文学に鎌倉仏教を入れるべきという加藤の指摘を、少なくとも道元に関するかぎり、西尾実は大きな宿題と感じたのではないだろうか。問題はただ文学作品として取り上げることではなく(それは西尾自身、戦後すぐの論文でやっていた)「それが文学史の上にどういう位置を占め、どういう意義をもたらしているか」(西尾、前出)を明らかにすることだった。  西尾はその後、関連する論文を次々書いた。『道元と世阿弥』にまとめられた論考の表題を見ても問題意識は鮮明である。並べてみると「中世的なものの源流(原題・中世文学における道元)」(一九五九年)「正法眼蔵の中世文学における位置と意義」(一九六二年)「道元から世阿弥へ」(同)「中世文化に及ぼした禅の影響」(一九六五年)となる。    ■加藤説への西尾実の共鳴  この中の最初の論文、「中世的なものの源流」に大きな見取り図が示されている。西尾は最初、平安時代の歌論・連歌論の「幽玄」とは異なる、世阿弥の「幽玄」に中世的なものを見出した。一方、和歌や連歌の幽玄と対立するのが軍記であり、「平家物語」には幽玄と非幽玄が併存している。戦前は「平家物語」の「幽玄」的側面を重視して「平家の滅亡に寄せた哀歌」ととらえたが、戦後は、一転して非幽玄的要素を重視して、義仲、義経など「時代を変革する英雄たちの叙事詩」ととらえるように変わった。  和歌や連歌から変容した中世的「幽玄」と新たな「非幽玄」が止揚されたのが「徒然草」であると西尾はとらえる。幽玄と非幽玄との否定的対立が行なわれるうえで、「親鸞や道元のような、この時代の新興仏教が果している役割」があるという。同時に、鴨長明が「方丈記」で最後に突き当たった問題(世俗から離れての隠居生活は、自分の主体的責任の結果か、社会的環境の必然かという壁)を、親鸞は絶対の「信」という主体的責任によって破り、道元は「法われを転じ、われ法を転ず」という社会と自我の「一体化による自由の獲得」によって解決したという。こうした道元・親鸞研究の経過の中で、日文協の大会で加藤周一の指摘を受けた話も出てくる。  「つれづれ草にしても、さらに能の世阿弥にしても、道元の否定的媒介の影響なしには考えられない傾向を発揮している」ととらえるに至る。当時の学界の成果も紹介して「道元その他による宗教改革は、その後の思想や文化に強大な影響を与えていることが、実証される機運が見え始めてきた」とも言っている。  岩波書店は「日本古典文学大系」六六巻に対す収録範囲が狭いという批判にこたえ、第二期三四巻を刊行し、全一〇〇巻に拡張した。第二期の中に『日本書紀』、五山文学など漢文の著作や、親鸞、日蓮、道元など鎌倉仏教などが含まれている。このとき道元『正法眼蔵、正法眼蔵随行記』の巻を校訂・解説したのが西尾実だった。  西尾実が描いた道元の文学史的位置づけは、加藤周一のそれとは異なっている。でも、これまで文学史から外されてきた鎌倉仏教を、日本の文学的遺産のなかに位置づけようとしているのは同じである。西尾実は加藤周一の実質的な共鳴者だったと言えるだろう。  加藤は「私はカナダで荻生徂徠を耽読し、ドイツの大学の図書館で、道元の古註をたのしんだ。(略)西尾先生の『正法眼蔵』の註解の周到であることを考えた」(「読書の想い出」一九六四年)と書いており、その後の西尾の道元研究を評価していた事がわかる。  一方、加藤周一も西尾実から重要な示唆を得ている。加藤は一九五八年の論文「文学の概念と中世的人間」で、道元の著作としては『正法眼蔵随行聞記』しか取り上げていなかった。加藤のこの論文発表時に、西尾は有志の中世文学研究会に加藤を読んで話を聞いた。「加藤氏が、正法眼蔵随聞記は文学だが、正法眼蔵は文学ではないと言われた時に、わたしは正法眼蔵こそむしろ文学史で取り上げるべきものだといった」と書いている(前出「中世的なものの源流」)。正法眼蔵は道元の著述したものだが、随聞記は弟子による聞き書きであるから、西尾の指摘は当然といえば当然である。実際、加藤は『日本文学史序説』では正法眼蔵を主として道元を論じた。論争好きの加藤だが、道理ある指摘には耳を傾ける柔軟さを持っている。  ただ、加藤は『二〇世紀の自画像』では、全く逆に、自分が「正法眼蔵随聞記より正法眼蔵こそ」と主張したと語っている。加藤の記憶違いであろう。西尾の論文よりはるか後年の回想であるし、当時の加藤は「正法眼蔵随聞記」のみを取り上げて書いている。4    ■文学の拡大の実践  より道がだいぶん長くなってしまったが、あまり指摘されてこなかった国文学界の重鎮との接点なのでご容赦願いたい。  このような経緯もあり、『日本文学史序説』の第一の特徴は文学概念の拡大である。拡大の内容は二つあり、一つは、詩歌、物語・小説、戯曲というフィクション性を軸とした文学ではなく、仏教や儒学など思想的著作も含むこと。もう一つは、日本語だけでなく、知識人が主に使った中国語(漢文)による著作も含むことである。加藤周一は中国語を主にシナ語とよぶ。  『『日本文学史序説』補講』で「『序説』は文学概念を広げるということだけが目的ではなかったけれど、私が強く意識した目的の一つです」「定義を広くとりましょうと私が行っても、どうせみんな聞いてないから、(笑)実際にひろげた文学史を書いてみせて、これがそうですよ、どちらが面白いか、面白いほうを採りましょうといったのです」(二五五―二五六頁)と加藤は言っている。    2 、土着世界観と外来思想    ■戦争体験が問題意識の始まり  『日本文学史序説』の第二の特徴は、日本の土着世界観の執拗な持続と、外来の思想・世界観の「日本化」を、日本文学史を貫く思想的な軸にすえていることである。  日本の土着世界観に着目したことは、戦争体験とかかわっている。加藤周一は「戦争と知識人」(一九五九年)で、日本の知識人の多数がなぜ戦争に、消極的ではあれ「協力」したのか、その精神構造を問題にした。  加藤は、第一に多くの知識人が「国家に対する忠誠概念を超えて国家の善悪を判断する基準」を持たなかったことを指摘する。第二に、国家を超えた価値をもつ思想はキリスト教やマルクス主義など外来思想であり、知識人の「本心」に根付いていなかった。「実生活とはなれた思想は、実生活に対し超越的な価値概念も、真理概念も、つくりだすにいたらなかった。それこそ知識人の戦争協力という事実の内側の構造であった」と加藤は論じた。(以上は拙稿第五回でもふれた)    ■外来思想が乖離する受け手の条件  加藤周一の飛躍はこの次にある。なぜ外来思想は生活と乖離するのかと問うたのだ。  普通、外来思想だから生活と乖離すると言えば、そこで納得するだろう。外来思想は身につかない、どこかしっくりこないということは、私たち日本人はどこか身に覚えがあるからである。しかし加藤は、外来思想だから万事がそうなるとは限らない、とその先を考える。外来思想が身につかないのは、「外来の思想を受け入れる側に、特定の条件があったから」である。「特定の条件とは日本の知識人の精神構造の伝統的な型であって、その型をあきらかにするためには、昔にさかのぼらなければならない。昔とは『古事記』の昔である」というのだ。5  「なぜ外来思想だと乖離するのか」と加藤が問うたのは、答えをすでに持っていたからである。しかし、それだけではない。別の理由もあり得る。外来思想の身につかないということが、加藤にとって自明でなかったという場合だ。  加藤は母方の親族の影響で、幼いころから西洋を身近に感じて育ち、高校・帝大では自然科学にしろフランス文学にしろ、西洋思想を体いっぱいに吸収した。だから外来思想も乖離を感じなかったのだろうか。そうかもしれない。二〇一九年の東京での加藤周一生誕百年シンポジウムでは、作家の水村美苗が加藤の生活の好みがいかにフランス的だったかを語っていた。加藤と過ごした毎年夏の夕食会はまるで「フランスごっこ」だったという。(水村美苗「加藤周一と『日本語で書く』こと」『すばる』二〇一九年一二月号)  ともあれ、加藤周一は戦争に反対しなかった知識人の精神構造の解明のために、『古事記』の時代にさかのぼることを決意した。その歴史的検討は「他日を期したいと思う」と「戦争と知識人」は結ばれている。  その公約をはたしたのが『日本文学史序説』上下二巻ある。そのことは、加藤自身「戦争と知識人」の終わりに書いたことを「私は他日実行した」と、『著作集』第七巻の「追記」に書いている。  「私は長く外国に暮らしているうちに日本が懐かしくなったから、日本の古典を語ったのではなく、日本の歴史の悲劇を、殊に「戦争と知識人」のそれを、見きわめられるところまで見きわめたいと思ったから、古典を語ったのである」    ■土着世界観を軸に「変化と持続」  加藤周一は、『日本文学史序説』の冒頭「日本文学の特徴について」で、「世界観的背景」として、「日本人の世界観の歴史的な変遷は、多くの外来思想の浸透によってよりも、むしろ土着の世界観の執拗な持続と、そのために繰り返された外来の体系の「日本化」によって特徴づけられる」と書く。  日本は土着世界観の力が強く、外来思想が入ってきても、そのままの形では根付かず、「日本化」していくというのである。  加藤によれば、日本の「土着世界観」の特徴は、「抽象的・理論的ではなく、具体的・実際的な思考への傾向、包括的な体系にではなく、個別的なものの特殊性に注目する習慣。そこには超越的な原理がない」ということになる。一言で言って「非超越的な世界観」である。これに対し、代表的な外来思想として大乗仏教、儒学、キリスト教、マルクス主義の四つをあげる。その四つは「包括的な体系」を持っており、「抽象的・理論的・包括的な性格、超越的な原理と普遍的な価値への志向」に特徴がある。ただし、大きな違いとしては、仏教・キリスト教は「彼岸的」(死後の来世的)なのに対し、「儒学・マルクス主義」は「此岸的」(現世的)である。他方、土着思想は一貫して此岸的である。6  加藤は「かくして日本文化の背景には、常に、外来の世界観、土着の世界観、日本化された外来種の世界観があった」とする。  日本文化が、古くは中国文化の影響を強く受け(漢字ももとは中国から来た)、明治以降は西洋文化の影響を強く受けたことは常識である。加藤の創見は、その外来思想に根強く抵抗してきた土着思想・世界観の存在、並びに、外来思想の「日本化」の追跡にある。鷲巣力は「加藤の文学史の主題は「変化と持続」である」と述べている(『加藤周一を読む』一八〇頁)。    ■現世的非超越的世界観の原因は?  そういう土着世界観があるとして、ではなぜそのような世界観が日本で強いのか。加藤周一はそれをどこでも語っていない。ここでは津田左右吉の説を紹介してみたい。  加藤の『日本文学史序説』に先行する日本文学の思想的通史として、まず挙げられるのが津田左右吉『文学に現はれたる我が国民思想の研究』(全四巻、一九一六−二一年)である。丸山眞男も『日本文学史序説』の連載開始を見て、津田左右吉の大著をすぐ連想したと述べている。(『加藤周一著作集』第五巻月報)  『文学に現はれたる我が国民思想の研究』第一巻「貴族文学の時代」の序説第一章には、日本の飛鳥時代以前の生活について次のようにある。  「さて上に述べたやうに、個人としては生活が容易であり、民族としては外部から優勢な異民族に圧迫せられることもなく、内部に於いても激しい闘争が起らず、其の上、山も川も概して小さく優しく、気候風物も温和であつて、民族生活の上に抑圧を加えるやうな自然の現象もないとすれば、我々の民族は此の国土に満足してゐた如く、此の人生にも満足してゐたに違いない。此の世に満足してゐるから、此の現し世を超絶した境地があるとは想像しない」  漢字や仏教が渡来する前の日本人は、温和な気候風土で異民族の圧迫もない生活だったから、現世に満足し、来世的あるいは超越的な考えを持たなかったと推測している。    ■仏教の影響では津田説に賛成  加藤周一も津田左右吉の研究、特に上代文学の研究には敬意を払っている。『親鸞』(一九六〇年)で津田左右吉『文学に現はれたる我が国民思想の研究』に触れ、注記に「上代仏教と文学の関係について、私は津田説に賛成する」とわざわざ書いて、次のように述べている。    もしたとえば仏教思想が、その日本的世界観と矛盾する面において、殊に超越的な彼岸思想の面において、国民の精神に深く影響したとすれば、そのことは『万葉集』をはじめとして文学作品のなかに、何らかの形で反映しているはずである。もし反映していないとすれば、外来思想は観念的に受け入れられたとしても、感情においては受け入れられず、文学的表現の基礎にはなりえなかったと解釈するほかはない。そういう観点から上代文学をしらべたのは、 『文学に現はれたる国民思想の研究』であって、周知のように、 その結論は明瞭に否定的であった。殊に彼岸思想についての指摘は重要であり、第一、上代文学では神仙郷に触れたものは多いが、 極楽に触れたものはほとんどないこと、第二、藤原時代の物語のなかで極楽の語を用いるときには、全く現世的な饗宴を形容した場合の多いことが、あきらかにされた。    『万葉集』に仏教の影響がみられないことについて、加藤は津田説と同じ意見だったが、その後の文学作品の読解・評価では津田とは全然異なる。対立する意見が多い。  ちなみに加藤周一は自身の著作で他の研究者の関連著作にほとんど言及しない。津田左右吉に触れたのは例外である。そもそも加藤の評論には関連文献を示す注記がほとんどない。学術誌ではなく、一般向けの雑誌・新聞に発表することが多かったためもあるが、それだけではないだろう。先行研究の重箱の隅をつついては、引用だらけになりやすい専門家の流儀への批判もあったと思う。加藤が「非専門の専門家」を標榜したからこそのスタイルだったろう。「ダメな画家は画家に学ぶ。すぐれた画家は自然に学ぶ」とはレオナルド・ダ・ヴィンチの言葉である。これをもじっていえば、「ダメな学者は学者に学ぶ。すぐれた学者は現実に学ぶ」と言えるだろう。自戒を込めて書きとめておきたい。    ■マルクス主義の応用  前回の拙稿で紹介したように、『日本文学史序説』がマルクス主義の方法、とくにイデオロギー批判の方法を駆使していることは丸山眞男が指摘している。イデオロギー批判というのは、文学作品を時代状況や階級的利害との関連において考察する方法です。ここで、あらためて『日本文学史序説』の中のマルクス主義的方法を探れば、先述のイデオロギー批判を駆使したことを第一として、続けてさらに二つ指摘できる。  第二は文学・芸術の大きな変化と社会的変化の関係についての見方である。これについては三つの考え方があると、加藤周一は『『日本文学史序説』補講』で述べている。(六〇頁)  一つ目は、無関係という考え方で、加藤は「そんな馬鹿ななことはない」と退けている。  二つ目が、経済の下部構造が文学・芸術など上部構造を規定するというマルクス主義の考え方である。加藤は「いちばん強力な考え方の一つ」という。  三つ目は、その逆で、「思想が変るから社会構造・経済的状況も変化する」というウェーバーの考え方である。『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で、プロテスタンティズムがいかに近代資本主義を生みだしたかを論じている。  マルクスか、ウェーバーか、自分の対処は「そう簡単にいえない」と加藤は明言を避けている。文化・芸術と社会の「どっちが原因でどっちが結果だということは、そもそもむつかしい問題です」と。しかし、加藤の著作を読めば、マルクスの考えを主にして、ウェーバーを少し加味していることは歴然としている。そもそもウェーバーについて加藤が語ることは、マルクスに比べて極めて少ない。  『日本文学史序説』フランス語版が出た時、序文を比較文学専門のエティアンブル・パリ大学教授が書いた。加藤はその序文について「彼は日本文学の専門家ではないので比較的自由な立場から批評しました。方法上のマルクス主義といった問題にもふれています。マルクス主義の影響は明らかだけれども、教条主義的ではないこういう分析の仕方を歓迎すると書いてくれました」と紹介している。(同前、二六五頁)  エティアンブルの序文の紹介という形だが、加藤は自分がマルクス主義に影響を受けて『日本文学史序説』を書いたことを認めている。ただ教条主義的でないと但し書きを忘れない。  加藤が『日本文学史序説』のマルクス主義の方法について率直に語った機会がもう一つある。  一九八六年の第一〇回国際日本文学研究集会(国文学研究資料館主催)のシンポジウム「日本文学史について」である。パネラーとして、日本文学の通史の著作を書いている三人、加藤周一、ドナルド・キーン、筑波大学名誉教授の小西甚一が登壇した。  加藤は“歴史の持続とともに変化を語るには、なんらかの軸が必要である”として、次のように述べている。    マルクス主義の考え方た?と、生産力や経済的な発展と、文学も含めた文化の構造、とを直接結ひ?付ける。私はもっとたくさんの軸を間に入れないと、たとえは?文学か?経済問題にまて?は結ひ?つかないた?ろうと考えます。  どういう軸を入れたらよいか。私の考えは、まあ、大変流行遅れでしょうけれども、古き懐かしい「時代精神」―へーゲルのいう“Zeitgeist”―みたいなものを考えて、思想史的な軸を聞に入れる。そうすると必ずしも文学だけではなくて、 いろんな文化的表現が、ある“Zeitgeist”に集約される。“ Zeitgeist”はまたもっと形而下的な社会的条件とくに経済的な条件によって条件づけられていると、まあそういうふうな考え方をしました。    土着的世界観をここでは「時代精神」みたいなものと説明している。  マルクス主義の考え方に、「もっとたくさんの軸を間に入れないと」と言うが、具体的に挙げたのは。「時代精神」のようなもの=土着的世界観一つである。これが加藤が文学史を語る最大の軸になった。  『日本文学史序説』の冒頭の「日本文学の特徴について」の章から軸を補足すれば、「旧に新を代えるのではなく、旧に新を加える歴史的な発展の型」「文学者の集団への組み込まれ現象」などがある。  経済を抜きに文学を語れないことはマルクス以降、常識になったが、加藤の言うように、経済と直結して文学を語ることもできない。マルクスも「下部構造が上部構造を規定する」と言った時に、多くの中間項や反射作用があると考えていたことは、前回に述べた。加藤が土着世界観という軸を設けたことは、マルクス主義を補うためであった。『日本文学史序説』はマルクス主義と対立する文学史ではなく、マルクス主義を継承・発展させて書かれた文学史なのである。    3、 文学の歴史性と超歴史性    マルクス主義の観点から指摘できる第三は、文学の歴史性とともに超歴史性を顧慮し、個々の文学作品が、なぜ歴史を超えて読者に感動を与えるのかについて説得的な見方を提示していることである。  『日本文学史序説』には、日本文学の豊かな達成、多彩な作物の魅力が様々に語られ、よき文学案内になっている。  同時に、文学の歴史性と階級性も忘れていない。それぞれの時代の文学の担い手がどの階級なのか、その階級が歴史の発展に対して、どういう位置にいたのかを常に踏まえている。多くの時代で、文学の担い手が支配階級やその周辺者であるため、そこに反映されなかった民衆の意識を示す作品を、ごくわずかな例から拾い上げている。『日本霊異記』『今昔物語』をはじめ、江戸時代の農民一揆の檄文も取り上げている。フランス語版への「ル・モンド」紙の書評で『梁塵秘抄』の脱落を指摘された時には、自らも失敗に気づいたそうだ(『補講』二五九頁)。のちに『梁塵秘抄』について別に一冊書いて、欠落を補ったと語っている。  前回の拙稿で、加藤周一の「芸術の本質と創造の方法―今日の状況とマルクス主義」(東京大学学生新聞、一九五七年)を紹介した。マルクス主義芸術論批判の短い論考である。そこで加藤は、マルクス主義が「普遍的な歴史の発展法則を強調」し、「国によって異なる文化の伝統」を軽視することを難点として挙げていた。マルクス主義(と言っても俗流マルクス主義であるが)に足りない伝統軽視を自ら戒めた実践が、先に挙げた土着的世界観を文学・思想の発展の軸に据えることであった。  もう一つ前回の拙稿で、マルクス主義に立つロシアのフリーチェの文学史を加藤が批判したことを紹介した。ゲーテなどの過去の文学遺産を、どの階級の立場に立っていたかの色分けだけで進歩か反動かを判定するやり方である。稚拙な俗流マルクス主義というしかない。『源氏物語』にしろ『忠臣蔵』にしろどのような文学作品にも歴史的制約があり、階級性をもっていることはもちろんである。しかし、現在私たちが古典を読むのは貴族社会を知るためでも、武士の倫理を知るためでもない。今日の私たちにも感動を与える普遍性が作品にあるから読むのである。その文学の普遍性こそ文学の超歴史性であり、時代を超えるものである。  文学の歴史性・階級制とともに、普遍性・超歴史性を豊かにくみ取ることが文学研究・文学評論には求められる。それはマルクス主義文学論でも変わらないはずだ。  加藤周一の『日本文学史序説』はフリーチェ流の俗流マルクス主義を克服した、豊かな文学性を備えたマルクス主義文学史なのである。    4、具体的な叙述の特徴から    『日本文学史序説』はとにかく読んで面白い。とくに詩歌・物語・劇という従来の文学範疇の作家・作品の紹介・評価は抜群に面白い。加藤周一は残念がるかもしれないが、文学概念を拡大したところの仏教家や儒家の部分は、少し理屈っぽくて叙述の躍動感が落ちる。読む側の問題かもしれないが、率直な感想である。  加藤周一の特徴的叙述をいくつかの角度から整理してみたい。(引用は『加藤周一著作集』に基づく)    ■政治社会問題への姿勢に着目  第一に、作家・作品が政治社会問題をどう扱っているかが、加藤の一貫した問題意識の一つである。それは知識人論につながる。  「『万葉集』の歌人たちは、政治社会の問題にも、ほとんど全く触れていない。およそ同時代の唐詩とは、その意味で著しい対照をなす」(上・九五頁)。唯一の例外は山上憶良である。彼の貧窮問答歌は「貧窮のこと、飢えと寒さ、しかも税吏の過酷さのそれに加る光景」を歌った。  加藤は「外国文学の「挑戦」に応じて傑作を生んだ少数の知識人の文学は、憶良以来日本の文学の歴史を一貫して、一箇の系列をつくることになるだろう。その時代の中で孤立した傑作の系列」(上・一〇六頁)と書く。  続いて菅原道真。「庶民の飢えと寒さをうたったのは、憶良の「貧窮問答」以後、平安時代を通じて、ただ道真の詩集があるだけである」(上・一四七頁)。道真の詩はすべて漢詩である。  これが、平安中期の漢文の随筆・慶滋保胤(よししげのやすたね)『池亭記』になって、変化を見せる。『池亭記』を含む文集『本朝文粋』の社会批判の特徴は「特定の政権や政策の批判ではなく、政治社会一般の批判であること。その内容は宮廷の権力闘争に巻き込まれた人間相互の関係に限定され、宮廷外の社会の現実に触れていないこと(菅原道真とのちがい)」(上・一九五頁)と指摘する。  「日本国の文人の理想の一つは、いつの時代にも、市井または山中に隠れて、悠々自適の生活を送る事であった。(略)『池亭記』は逃避の前提に、貴族社会の批判をおき、『方丈記』は、崩れゆく貴族社会の叙述にとどまり、『芭蕉庵記』および徳川時代の俳文は、当該社会の現実には触れるところがない。日本文学の逆説の一つがここにある。(略)そういう発展の淵源は、すでに『本朝文粋』にあった。そこではじめて社会批判は、まさに社会的無関心を正当化するためにあらわれたのである」(上・一九六頁)。こうして、日本文学における社会批判は無力な隠棲文学の方向へ進んでいき、現代につながる非政治的文学の伝統をつくった。    ■時代・階級と文学の関わり  第二に、それぞれの時代・階級と文学の関わりについて、的確で鋭い知見が多い。日本文学に対する見事なイデオロギー批判である。とくに民衆(大衆とも書く)と文学のかかわりを常に重視している。  平安初期、「貫之・道真に代表される九世紀末の知識人文学の成立は、その後の日本文学史を視野に入れるとき、まさに画期的であったといわなければならない。紀貫之と大宰府配流後の道真の文学的業績ほど鮮やかに、政治・経済的支配層と、文化創造者としての知識人層との分離を示すものはないからである」(上・一二八頁)。  平安末期になると、「『今昔物語』の人物の世界は、また行動の世界である。(略)その意味で、すでに『平家物語』の武士像を予告していたとさえいえるだろう。(略)けだし『今昔物語』の偉大さは、現にあるものを直視して描き切ったということにだけあるのではない。やがて来るべきものさえも、見抜いていたということにある」(上・二五四〜二五六頁)  鎌倉時代初期、『万葉集』以来初めて大衆が文学と関わり始める。「一三世紀文学における最大の事件の一つは、少くとも『平家物語』と『沙石集』において、作者がみずからの社会階層とは異なる階層の聞き手(読者)に訴えるようになったということであり、その意味で作者即読者の文学から作者と読者の分離した文学への移行が起こったということである。(略)そこには、貴族のための文学になかった新しい型の人物が登場し、貴族のそれとは異る大衆の価値観が反映することになった」(上・三一八頁)  『平家物語』が「その背景とした価値体系の保守性にも拘らず、時代を反映すると共に時代を超えたのは、第一に、個性的かつ行動的な登場人物であり、第二に、色彩的で七五調のよく響く文体であった。(略)『平家物語』は、なぜこのような人物を描き、戦う男たち、特に東国武士の行動を活写することができたのか。聞き手が、もはや宮廷の女房や貴族ではなく、おそらくは文盲を含む大衆であり、彼らがそれを望んだからとしか考えられない」(上・三二一〜三二二頁)    ■文化の下から上への逆転  民衆が次第に力を強めていく変化を加藤は丹念に追いかける。室町時代には「貴族及び支配層」の文学と「農民・商人・下級武士を含む大衆」の文学の二重構造がつくられた。そしてついに江戸の「町人の時代」に至る。  「彼らのいわゆる「国学」がまず町人層を背景として発達し、次第に武士層に普及したのは、石田梅岩の「心学」が、町人社会に興り、その弟子手島墸庵の時代に多くの武士をひきつけたのに似ている。同じ傾向は、また町家の尾形光琳(一六五八〜一七一六)の画風が、一〇〇年の後、武家の酒井抱一(一七六一〜一八二八)にひき継がれたことにも指摘されるだろう。かくして一八世紀におこったもっとも意味深い社会的変化の一つは、文化の上(武士)から下(町人)への流れが逆転して、下から上への流れが生じたことであった」(下・一八五頁)  読んでわかるように加藤の叙述の魅力は、簡潔な文章のリズムと、思い切った断定、的確で豊富な引例にある。加藤の文章は漢文脈をいかし、近代では森?外・中野重治を手本としていた。  「町人の時代」はさらにつづく。  「一八世紀を通じ、士分を離れ、町人の列に加る武士は多くなった。またそれ以上に、士分にとどまりながら余暇を用いて町人文化に近づこうとする武士が多くなった。(略)町人にも、武士にも、諧謔の動機は強まろうとしていた。しかし農民は笑わなかった。あるいは笑いを通じて自己を表現しようとはしなかった。一八世紀末の農民の主要な自己表現の手段は、文学ではなく、間引きと離村逃亡と一揆だったからである」(下・二〇七頁)  町人文化の爛熟の背後に、虐げられた農民たちが突如現れる。抑圧されたもの、弱いものへの加藤周一の同情と、農民たちを忘れた町民文化への批判が胸をつく箇所である。    ■土着世界観の持続と変化  第三に、土着世界観の持続と変化の流れを具体的な作品に読み解いていく。土着世界観への言及は数が多いので、ここで拾うのはほんの一部である。  まず、奈良時代。「日本の仏教美術の黄金時代は、日本語の抒情詩のほとんど全く仏教に係らない時代でもあった。東大寺大仏と、『万葉集』の時代。この驚くべき対照は、日本の古代文化に仏教の演じた役割が、たとえばヨーロッパの中世文化におけるキリスト教の役割と全くちがっていたことを、示すだろう」(上・五一頁)  鎌倉時代には、土着世界観に鎌倉仏教が「楔」を打ちこんだという。  「一三世紀のいわゆる「鎌倉仏教」は、現世利益的・呪術的な平安時代仏教に対立し、仏教の彼岸的・超越的な面を強調した。その画期的な意味は、すでに繰り返し述べてきた土着の世界観、その此岸的・日常的な現実主義を遂に打ち破ったという点にある。(略)比喩的にいえば、「鎌倉仏教」は、日本の土着世界観の幾世紀もの持続に、深く打ちこまれた楔であった。その影響がいかに拡り、いかに展開していったかということの裡に、鎌倉時代の、さらに室町時代にまで及ぶところの、もしそれを一括して「中世」と称ぶとすれば、まさに「中世」文化の眼目があるだろう」。ここには本論の始めに見た西尾実との中世文学をめぐる議論への応答がある。  しかしヨーロッパの宗教改革と違い、鎌倉仏教は大衆の世界観を変えるに至らなかった。土着世界観は根強かった。中世の隠遁生活の中で「兼好は、たった一人で、日本の土着世界観を内面化しようとしていたのである。さればこそ、『徒然草』の世界は連歌にも通じる」。その連歌について「連歌のなかの時間は、始めなく終りない現在の継起であり、連歌の世界は、全体の構造ではなく、全体から独立した部分の集りである。「古代歌謡」以来の日本の土着世界観にとって、究極の、唯一の現実であった日常生活の「今・此処」。和歌から発した連歌は、その世界観を直接に反映していたから、忽ち大衆のなかに浸透して、未曽有の流行を生んだのである」(上・三六一頁)と説く。    ■土着世界観を体現した織田信長  そして、加藤が、土着世界観の体現者として強調するのは、何と織田信長である。  「信長こそは、いかなる絶対的価値もみとめず、その世界観において全く此岸的であり、その精神において実際的であって、常に目的合理性を志向する日本人の原型の、戦場における表現にほかならない(家康は、同じ世界観と精神の、独裁政権の経営における人格化である)」(上・三八九頁)  今年四月二七日、テレビで「国民一〇万人がガチ投票!戦国武将総選挙」という番組があった。そこで堂々一位は織田信長だった。二位以下を引き離してのダントツである。加藤の言う通り、日本人の土着世界観を深く体現しているから、これほど人気があるのかもしれない。ちなみに二位上杉謙信、三位伊達政宗、四位真田幸村、五位徳川家康であった。豊臣秀吉は、というと意外や第六位であった。  そして江戸時代、長い「鎖国」と平和の中で土着世界観の文化が花開く。「井原西鶴(一六四二―一六九三)は、町人の、日常生活の、殊に経済的な面を含めての現実を、そのものとして正確に描写し、日本のみならず、中国や西洋の小説の歴史にも先例を見出し難い最初の「リアリズム」小説を作った」(下・六頁)。そこに、此岸的世界観と今此処への関心があったと加藤は言う。また「かくして芭蕉は、その発句に、古代歌謡以来の日本語の歌の全体を、つまるところ日本の土着世界観の要点を、要約し、徹底させたということができる」(下・七四頁)。  そして「本居宣長(一七三〇―一八〇一)の画期的な業績は、儒仏の影響の深く及んだ文化のなかで、その影響を離れた日本の土着世界観を、知的に洗煉された思想の水準まで昂めた」(下・一七二頁)  最後に、人形浄瑠璃の語りを俳優の科白にかえて成立した歌舞伎について、加藤の卓見を紹介しておこう。  「科白劇の成立は、同時に歌舞伎が「言葉の力」を失うことでもあった。歌舞伎の科白は、状況の説明か、人物の感情の単純で日常的な表現にすぎず、どういう意味でも雄弁の力を示さない。また一般的な逆説や抽象的な命題を含まず、その知的な内容の極度に貧しいものである。(略)これはたとえば英語国民によく知られているシェークスピアの有名な科白とは、鋭い対照をなすだろう。「世界はどこでも一種の舞台だ。男や女は誰でも役者にすぎない」(As You Like It)というような一般化を、歌舞伎の役者は決して行わないのである。(略)歌舞伎という見世物の本領は、科白の内容ではなく、主として訳者の所作である」(下・一九六〜一九九頁)    ■おわりに  今回、具体的に取り上げたのは『日本文学史序説』の江戸時代までで、幕末・維新期(加藤周一の言う「第四の転換期」)以後には触れられなかった。近代に近づくほど、扱う作家も作品も増えてきて、時代の見取り図が細かくなるためである。八世紀から一八世紀までの文学と比べれば、一九世紀以降の作品は、われわれの同時代の文学である。おのずと相対する構えも変わってくる。  一言付け加えておけば、一九世紀以降の文学史に加藤周一は世代論を導入する。  およその区切りで一八〇〇年生まれの世代が、渡辺崋山、高野長英、佐久間象山である。開国の必然を見通しながら、明治維新を見ることがなく死んでいった世代である。  一八三〇年生まれの世代が維新を実行した世代である。吉田松陰、坂本龍馬、橋本佐内などはあるいは刑死し、あるいは暗殺されてやはり維新前に倒れた。西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允らは明治新政府の高官となった。また在野にあって言論でたたかった福沢諭吉、中江兆民も同じ世代である。  後は短く述べるにとどめる。一八六八年生まれの世代は、坪内逍遥、森?外から夏目漱石まで。初めての近代文学者を輩出した世代である。一八八五年生まれの世代は志賀直哉、石川啄木など、二〇歳前後で日露戦争を体験し、近代日本の矛盾と行き詰まりを感じ始める。一九〇〇年生まれの世代は宮本百合子、中野重治、小林秀雄など、マルクス主義の洗礼を受けた世代である。その次の一九二〇−三〇年生まれの世代は、加藤周一、鶴見俊輔、大江健三郎など戦後知識人の世代となる。  このようにみると、日本の近代文学の流れが、世代論でよく整理できることがわかる。加藤周一はこうした世代論の観点をティボーデの『フランス文学史』から取り入れたと語っている。  他にも丸山眞男の「古層」論と加藤周一の土着世界観の比較検討など触れられなかった問題は多い。いつか機会があれば論じてみたい。  また、日本の文学・思想にマルクス主義が与えた影響についても加藤は強い問題意識をもって書いている。マルクス主義が日本にどう根付き、どう根付かなかったのか。あるいはどのように「日本化」したのか。加藤の評価を分析するとともに、鶴見俊輔や、日本のマルクス主義者自身の評価も比較検討しながら、ぜひ考えてみたい問題だ。しかし、それはすでに「加藤周一論ノート」の範囲を超えるだろう。他日を期したい。   1 富永仲基について加藤周一は一九六五年に『三題噺』の一つとして「仲基後語」を書き、六七年に「徳川時代の偶像破壊者」という題で英文の論文を書いている。九八年には戯曲『富永仲基異聞 消えた版木』まで書いた。ほとんど世に知られていないこの思想家を加藤は偏愛した。 2 『日本文学』一九五七年九月号掲載の討論の該当箇所は次のとおり。 「加藤周一 私伺いたいことは、第一は西尾先生のお話で、無常感が詠観的な無常感といわれましたが、中世文学の世界が成立する「方丈記」と「徒然草」の無常感ですけれども、もし中世の世界観をたずねるならば、無常感は観というわけで、詠嘆的なものだからそういうものよりも、親鸞とか道元のほうに、つまり統一的な世界観を探したほうがいいのじゃないか……。もし世界観という言葉を世界とか人間の統一的な理解という意味に解釈すれば、その出発点のような感覚は「方丈記 」や「徒然草」に現われているでしょうけれども 、もっと論理的な形で、狹い意味での世界観、 人間観というものがこまかく出ておるのは 、親鸞や道元の場合じゃないかと思います。(略)  西尾 いまのお尋ねの人間観とか世界観とかいうようなもので、中世に最も徹底したものといえば、私も先ほどお話があった通り、親鸞とか道元、――というよりは、親鸞の「教行信証」から「歎異抄」への発展、それから道元の――これは私はどれというほど読んでいないのですが、たしかに「正法眼蔵」の中にはそれがある。それらのものをわれわれが文学として考えることができるときがくれば、 私は当然中世文学の研究というものは道元を極点とするものと考えているので、いまお尋ねがあった点は、「私もそう思います」というほかはございません。  ただ、われわれが国学者以来、日本の文学−−国学者は「文学」とはいわなかったけれども、とにかく文学というものから仏教家のものを除き、それから漢学的影響にできるだけ眼をつぶりたいという伝統が、明治以後の国文学者にもやっぱりちゃんと尾を引いている。こういうものとの関係もあって、おっしゃることは御尤もと思いますが、中世文学の中に道元をちゃんとすえ込む用意がいまはまだできていないのじゃないか……。しかし、これからはそれがだんだんとできるのじゃないかと思います。」 3 加藤周一は文学の範囲を広くとった方がいいという考えを以前から持っていた。最も早いのでは、『文学とは何か』(角川新書、一九五〇年)で、次のように書いていた。  「フランスの文学史がパスカルを扱ふから、日本の文学史も文学を広く考へたらよからうといふのではなく、フランスの文学史でさへもパスカルを強調するのだから、まして日本の明治文学史は小説家の集団を分類することなどは省略しても政論家中江兆民、宗教家内村鑑三、美術史家岡倉天心に頁を割いて割きすぎることはなからうといひたい。(略)何が美しいかといふこと、何が人間的であるかといふこと、その明治時代における最も深い解決の一つは、美術史家天心においてみられたが、小説家紅葉においてはみられなかったものです。それでも、小説家である紅葉に千万言を費し、小説家でない天心に一行もふれない文学史は、文化史的見也からいつて意味がないばかりでなく、文学といふものの本質からいつて、文学的見地からも意味がないか、あつても少い」 4 同書で加藤周一は、一九五七年の日本文学協会第一二回大会に歴史家の石母田正も呼ばれて、日本文学研究者は歴史研究の成果を知らなすぎると「爆弾発言をした」と語っている。しかし当時の記録では石母田正は参加していない。これも記憶違いである。『日本文学』誌のシンポジウムの討論記録をみると、歴史家の松島栄一がフロアーから発言している。報告者の一人が「家父長的奴隷制」が中世を規定したと言ったのに対する批判だが、「爆弾発言」ではない。松島が石母田正の名前にも触れているので、そのための記憶違いと思われる。  5 没後、公開された加藤周一の「青春ノート」には、一九三九年一月、一高在学中に記した「マルキシズム」という短文がある。「戦争が始まって無数のマルキストが転向した。(略)自ら転向の所以を説くものの言葉をきけば、とにかくみっともない光景である」として、次のように書いている。  「マルキシズムが日本のインテリを捉えたのは、日本には哲学的伝統がなかったからである。マルキシズムが日本のインテリから離れたのは、日本には論理的伝統がなかったからである。形而上学なぞはどこを探しても見当たらぬのに“ああ形而上学よ”と云って見た所で仕方がない。体験のない言葉で論理をくみたてて見た所で、腹が減ってくれば馬鹿馬鹿しくなるのが当り前である」(鷲巣力・半田侑子編『加藤周一 青春ノート』人文書院、二〇一九年)。ここにすでに日本人の世界観の非形而上学的、非論理的性格に対する着目がある。 6 日本文化の特徴が非超越的・現世的な点にあるという、加藤の最も早い指摘は「藤原定家−『拾遺愚草』の象徴主義」(一九四八年)にある。「歴史と人生との無常は、相対的な否定的契機であるが、絶対的な否定的契機ではない。否定は、超越的立場からなされたのではないからである。その意味では、最後まで、他のあらゆる歌人と同じように、定家も又、自然的、現世的、感覚的芸術家であった」と書いている。(拙稿第四回参照) --------------- ------------------------------------------------------------ --------------- ------------------------------------------------------------ 20