一九六八年とマルクス主義   加藤周一論ノート(6)        北村隆志 はじめに  一九六八年、加藤周一は世界各国の学生青年運動のうねりに大きく揺り動かされた。この年に書かれた四つの文章を集めた『言葉と戦車』(一九六九年)を読むと、加藤周一の抑えきれない高揚が、時に独断とも思える言葉の選択に現れている。  たとえば「世なおし事はじめ」では、米国、西ドイツ、フランス、日本でわきおこった学生運動への驚きを隠さない。  「先進工業国では、学生運動がさかんになり難いと私は考えていた。それが天下の形勢に大きな影響を与えることはあるまい、と信ずべき理由がありあまるほどあるように思われた」「結論は、全くまちがっていた」「過激な学生運動は非政治化した大衆から孤立するだろうという判断もまちがっていた」と、自分の誤りの告白から始めている。  「それにしても私自身の場合を含めて、政治的・社会的な状況の分析と、分析から抽きだされた結論の、今年(一九六八年)はじめから春にかけてほど、たてつづけに誤っていたことは少ないだろう」と、各国の学生運動の大衆的広がり、特に米国の大統領予備選でのベトナム反戦候補への高い支持が予想外だったことを強調している。  さらに「学生と青年労働者が、高度に組織された大工業国を、根底からゆり動かしたことは、パリ・コムミューン以来、ほとんど一世紀にちかい西欧の歴史になかった」と書いている。一九六八年の大衆行動は一八七一年のパリ・コミューン以来の歴史的事件だというのである。  かつてパリ・コミューンを目撃したマルクスは、その背景と教訓を分析して『フランスにおける内乱』を書いた。加藤周一が一九六八年の激動の背景を分析し、その歴史的意義を強調した著書『言葉と戦車』は、加藤周一版『フランスにおける内乱』といえるのではないだろうか。  私がそう考えるのは、学生大衆たちの「社会変革」や「社会の構造を変革」の志向を、加藤が何より強調しているからである。例えば「世なおし事はじめ」は、米・独・日・仏の学生運動が「個別的な争点から出発しながら一般的な社会変革、または『世なおし』へ向う傾向の著しい」という共通の特徴に注目している。また「米国再訪」では、次のように書いた。  「米国社会における黒人大衆の疎外感の意識は、いつかまた、反体制の立場の自覚にも通じるであろう。南北戦争以来はじめて、米国社会の構造を変革するかもしれない力の一つとして、黒人の登場する可能性があらわれた。もちろん可能性は実現されないかもしれない。しかし可能性の出現は、それだけでも画期的なことである」  後年の著書『二〇世紀の自画像』(二〇〇五年)は、歴史家の成田龍一の質問に答えた公開講座の記録であるが、加藤周一は一九六八年のアメリカのヒッピーズとベトナム反戦運動について興味深いことを語っている。それまでの米国中産階級は「アメリカの制度はいいんだけれど、ベトナム戦争は『アクシデント、事故』だと考えていた」が、「学生の反戦運動のなかから、たぶんアメリカ史上初めて、あれは事故じゃない、社会の構造そのものに欠点があり、その欠点がベトナム戦争を生みだした、という指摘が出てきた。これはたいへん大きな違いです」と、その意義を語っている。  一九六八年に対する加藤の特別の位置づけは、「パリ・コムミューン以来」「南北戦争以来はじめて」「アメリカ史上初めて」など、破格の強調ぶりによく表れている。  二〇〇八年夏、八十八歳の加藤周一が「どうしても語り伝えたいことがある」と、NHKスタッフに語ったインタビューのテーマも一九六八年だった。このインタビューの四ヶ月後に加藤は胃がんで亡くなる。死の直前にあらためて一九六八年を語ろうとしたことからも、この年がいかに加藤にとって特別な年だったかがうかがえる。そのインタビューで加藤は現代についても「今度はもっと集まって大きく爆発するだろうと私は思います。なぜなら、その背景は変わっていないからです。背景の根本は不平等です」と語った(「加藤周一・一九六八年を語る」加藤周一『私にとっての二〇世紀』岩波現代文庫版、二〇〇九年)。  一九六八年はまた社会主義国が大きく揺れ動いた年であった。チェコスロバキアでは「プラハの春」の改革が進むかに見えたが、ソ連の軍事介入によってつぶされた。中国では嵐のような文化大革命が続いていた。加藤はそれぞれについて力のこもった文章を本書に収めている。  一九六八年を考えることは、社会主義を考えることに進んでいかざるを得ない。米国の学生運動について論じた「米国再訪」でも、マルクス主義が隠れたモチーフになっている。  加藤周一は一九六八年の世界に何を見出したのか。それを探ることは、そのまま加藤が思い描いた社会変革の可能性と、社会主義=特にその代表的思想であるマルクス主義を考えることにつながる。 1、単行本『言葉と戦車』  最初に『言葉と戦車』に収められた四つの文章を確認しておきたい。  ・「世なおし事はじめ」(『世界』一九六八年八月号初出)=米国のヒッピーズ(ヒッピーのことを加藤はこう呼ぶ)とベトナム反戦運動を中心に米独日仏の学生運動の高揚を論じた。  ・「言葉と戦車」(『世界』一九六八年十一月号初出)=社会主義国チェコスロバキアの自由化・民主化政策が「プラハの春」だった。それをつぶしたソ連の軍事介入と、チェコスロバキア国民の対峙を論じた。  ・「文化大革命聞書」(『中国』一九六九年二月号三月号初出)=中国の文化大革命の分析  ・「米国再訪」(『展望』一九六九年三月号初出)=米国の活発な黒人運動と学生運動を論じた。  さらに附録として「現代中国をめぐる素朴な疑問」(『展望』一九六六年二月号)も収めている。この文章は「北京の中国政府が膨張主義的(または侵略的)であると考えるべき根拠があるだろうか」と問いかけ、事実と道理を尽くして、「中国は侵略的」という俗論の誤りを批判したものである。一九六八年という本論の主題と直接かかわらないので、ここでは触れない。  一九六八年の加藤周一は、カナダのバンクーバーのブリティッシュ・コロンビア大学にいて、日本文学の古典研究に沈潜していた。日本の安保闘争直後の一九六〇年十月から始まったカナダ滞在は、夏期休暇ごとの帰国やウィーン滞在を挟みながら、八年目に入っていた。  加藤は六八年の五月に米国西海岸を訪ね、学生運動の勢いを直に見て「世なおし事はじめ」を書いた。夏、「プラハの春」で人々が浮き立っていたチェコスロバキアを訪ねた後、ザルツブルク音楽祭を見ていた。そのさなかの八月二十日夜、ソ連軍などワルシャワ条約機構五ヶ国軍のチェコスロバキア侵入が起き、加藤は急いでウィーンに取って返した。ウィーンのアパートで、テレビをつけると、そこにはソ連軍の目を盗んで秘密放送を行うチェコのテレビ局員の姿が映っていた。ソ連軍に侵略されたチェコの状況をドイツ語で必死に伝え、国際的な支援を求めていた。  加藤はチェコスロバキアの隣のウィーンにいて、秘密放送を見ながら情報を収集し、「言葉と戦車」を書いた。現場にたちあったからこその臨場感あふれる文章である。  中国で一九六六年から始まった文化大革命については、現地を直接訪ねることはできず、また海外で入手できる情報が少なく偏っていたために、加藤はずっと何も書いていなかった。しかし、文革の様相が外部にいてもおぼろにわかってきた段階で、初めて文革について書いたのが「文化大革命聞書」である。  十一月には米国を訪ねた。この時の訪問は、ニューヨーク郊外の裕福なユダヤ人医師の家であり、米国の中産階級の伝統的価値観と、若い世代の意識変化にふれた。その見聞を中心に「米国再訪」を書いた。  2、ソ連のプラハ侵攻  一九六八年の世界の動きのなかに加藤周一が見出したもの。その最大のものは、「社会変革」を求める民衆の潜在意識の表面化である。その担い手は社会の周辺的存在である学生であり、青年労働者であり、黒人であった。それは冒頭に書いたように、「世なおし事はじめ」と「米国再訪」によく現れている。  もう一つ、加藤が見出したのは、社会主義がその本来の理想を回復する道筋と、その困難である。  「言葉と戦車」で、加藤はソ連軍の介入前のチェコスロバキアをまわって、「プラハの春」の自由化を国民すべてが熱烈に歓迎している様子を見た。そして、ソ連軍介入後は、チェコスロバキア国民が一致団結して、ソ連軍に対し、街頭での議論や落書きや地下出版や秘密放送で抵抗した様子を、感動をもって書いている。「一九六八年の夏、小雨に濡れたプラハの街頭に相対していたのは、圧倒的で無力な戦車と、無力で圧倒的な言葉であった。その場で勝負のつくはずはなかった」  十九年後、東欧の社会主義政権崩壊時に、「プラハの春」の指導者のドウプチェクも名誉回復したので、長い目で見れば、「勝負」はソ連軍の戦車の負けで、プラハ市民の言葉が勝った。「言葉と戦車」を書いたとき、加藤周一も東欧諸国のソ連ばなれは遅かれ早かれ避けられないと考えていた。しかし、その場では軍事力の方が勝つ。  ソ連の一時的勝利は、大きな代償と引き換えだった。加藤は次のように書いた。    戦車は問題を解決しない。もし戦車に何かができるとすれば、問題を先へのばすということにすぎない。しかも戦車を導入することで直接にソ連が失うところは、世界の共産党の半分に対する指導力であった。間接に失うところは、おそらく国際共産主義運動の理想そのものであろう。(中略)  ソ連にとって悲劇的なことは、また全世界の左翼にとっても悲劇的なことである。もちろん各国の共産党は、将来いよいよモスクワから独立の道を歩もうとするであろう。しかし、そのことは、国際的な世界の全体のなかで、ソ連が代表的な社会主義国であるという事実を変えない。われわれがどれほど遠く共産主義から離れていても、共産主義が代表的な左翼運動であることに変りはない。そして左翼運動を含まずに、民主主義の進展は考えられないから、左翼運動に対する重大な打撃は、少くとも間接に、民主主義の全体への打撃にならざるをえないだろう。チェコスロヴァキア軍事介入の事を知ったサルトルは、ローマで記者会見して、「チェコスロヴァキア侵略反対」と言いまた「いたるところで反動がよろこぶだろう」ともいった。    「プラハの春」が掲げたもの、チェコスロバキア国民がこぞって歓迎したものは「民主主義的社会主義」だったと加藤は言う。それは、現存する「社会主義」が民主主義的でないことを含意するから、「社会主義こそ最も民主主義的な体制だ」という建前を掲げるソ連には受け入れられなかった。しかし、加藤周一もソ連型社会主義が東欧各国で(ソ連内部でもとは思っていなかったが)行き詰まり、国民の反感を買っているのを見聞して、「民主主義的社会主義」=社会主義に民族独立と政治的市民的経済的自由の要素を大胆に取り入れることが、社会主義の未来の可能性と考えていた。「言葉と戦車」のなかで経済的自由化=市場経済の導入については、明言していないが、チェコスロバキアで、ソ連型の量的ノルマを原理とした中央集権的計画経済が困難に陥っていたことを書いているので、当然念頭にあったであろう。  加藤周一は、「プラハの春」とパリの五月革命の青年学生とならべて、どちらも究極の目標は「民主主義的社会主義」であろうと書いた。  「一つの夢は過去ったが、人間は夢なしに生きることができない。必ずや同じ夢は再び青年たちと彼らと共にある人々を、日常の秩序のなかから、歴史の、あるいは叙事詩の舞台に抽きだすことであろう」  そう未来に夢を託しつつ、目下のソ連軍のチェコスロバキア占領に対しては「それを抹殺するどういう力も私にない」と無力感を覚え、「言葉と戦車」をボードレールの一句で締めくくった。  「さようなら、あまりに短かりしわれらが夏のきらめきよ」    3、見誤った文化大革命の性格  当時、中国の文化大革命をどう見るかは、世界中で大問題だった。加藤周一にとっても大きな問題だったが、不十分な情報からは発言しないというスタンスを守っていた。それは加藤が貫いていた変わらぬ姿勢であり、美術品ならば複製でなく、現物をみなければ決してそれについて書かなかったし、文学作品も難解な空海の漢文であれ、親鸞や道元の著述であれ、必ず原文を読んで論じていた。  「文化大革命聞書」は、一九六八年十一月に中国全土で革命委員会が成立し、劉少奇国家主席の党籍はく奪をもって、文化大革命がひと段落を迎えた機会に、その時点での意見をまとめたものである。それでも報道や伝聞に基づく「聞書」であり、さらに「私の聞書は臆説の域を出ないのである」と冒頭に断っている。多少の独断でも自信を持って語る流儀の加藤周一にしては珍しい書きぶりである。  そして、加藤周一が文化大革命の本質と見たものは、中国二千年の伝統に根付く根深い官僚主義を打破するための、「徹底した大衆の自発性の尊重」であった。  若い紅衛兵たちの「行きすぎ」も「単に上からの動員ではなく、下からの自発性の開放であったことには、ほとんど疑いの余地がない」と礼賛している。国家的統一を図るための「求心的」軸として毛沢東思想による「徹底したイデオロギー上の統一」を図る。同時に、大衆の自発的労働意欲、人民解放軍の戦意を高めるための「遠心的」方策として「徹底した大衆の自発性の尊重」を実行する。この「求心的」政策と「遠心的」政策の同時遂行が文化大革命だという。  大きな混乱と犠牲を伴ってまで、なぜ紅衛兵のような「下からの自発性の開放」が「造反有理」と合理化されるのか。その中国固有の理由として加藤周一は「漢代以後、二千年以上も、中国に発達した官僚制度」を克服しなければならないことを挙げている。社会主義建設において「反官僚主義」が他国では「考えられないほどの重みをもつだろうと想像される」という。  加藤の理解については、成田龍一も「現在の認識では、文化大革命は中国共産党内部の政治闘争の文脈から説明され、加藤の理解とは異なります」(『加藤周一を記憶する』二〇一五年)と首をかしげている。劉少奇ら党・国家指導部の打倒を図った毛沢東や、その呼びかけに応じた紅衛兵など文化大革命推進勢力に対し、彼らがみずから考えた以上の深い意図を想像して、好意的に論じているように思える。  しかも、加藤は晩年にも、こうした文革についての考えを変えなかった。毛沢東が奪権闘争に突き進んだのは、大躍進政策の失敗から実権を失った状態からの反撃だった。そのことも今ではわかっているのにである。  ロングインタビュー『過客問答』(二〇〇一年)で中国について「過去について言えば、やはり一番大きな謎は文化大革命です。」「誰がなぜ、いかなる目的をもってああいうことを始めたのかというところがいまだにどうもよくわからない」「悲惨な要素をはらみながらも、その文革を推進させた背景には、官僚主義がなければ進めないが、官僚主義をそのままにしていたのでは民主主義が徹底しないという事情があったと思いますね」と語っている。  加藤が文化大革命を肯定的にみようとするのは、紅衛兵は自発的なものだった見ているからだ。「西園寺(公一)さんはあの時北京の大学にいたんですが、彼は、学生の中から起ったと言っています。その解釈に従うと、毛沢東はある時期からその力を借りて、それを指導したんだということになる。確かに事の起りは毛沢東の命令一下ではなく、学生の中に自発的な動きがあったというふうに感じますね」  加藤はここで、下からの大衆行動に対するあこがれと、知識人のコンプレックスがないまぜになって、大衆の自発性幻想を引きずっているように思える。また、中国に対しては、かつての侵略国日本の国民として加藤周一は後ろめたい申し訳なさを抱えていた。そのために、中国に後年行くようになっても、南京にはなかなか行けなかったと語っている(『中国とつきあう法』)。また日中戦争を戦い抜き、中国革命を勝利に導いた毛沢東と中国共産党への尊敬は消えなかったと思う。現に「文化大革命聞書」の最後の注に「第三者の立場から『革命』を行うことはできない。私は『革命』(文化大革命=劉少奇打倒・北村注)に賛成することを躇う。しかし『革命』を前提とすれば、第三者の立場から、当事者の立場を批判することには、二度躇うのである」と書いている。  こうした中国と毛沢東批判へのためらいが、文化大革命については加藤の目を曇らせたように思える。    4、「文革」その後  その後、中国文化大革命については、加藤周一は初めて中国を訪問した一九七一年の夏の見聞をもとに、四つの文章を書いた。それらは関連する文章とともに『中国往還』(一九七二年)にまとめられている。  七一年の中国は文化大革命の後半期であった。男も女もみな人民服を着て、街には自転車があふれて自動車はほとんど見かけない。青年、知識人は農村に下放されていた。加藤たち日中文化交流協会の代表団は、どこに行っても林彪編『毛沢東語録』をかざして挨拶しなければならなかった。  そういう状態で見た加藤の中国見聞記は、「良い・悪い」の価値判断をできるだけ排して、即物的客観的描写を心がけている。  例えば経済生活について「著しい低収入と衣食住の途方もない低コストとの組合わせ」であり、「『かね』でできることはきわめてすくない。『かねさえあれば何でもできる』社会との対象は、実に印象的である」と書く。  あるいは個人より集団優先の行動について「態度も同じ、服装も全く同じ。ここには、原子化された個人の集合から成る社会ではなく、徹底的に個人を組みこんだ多くの集団が集まって作る一種独特の社会がある」と述べている。  ところで、加藤が当時見た「低収入と低生活コスト」の組み合わせの社会を、今日の中国の若い人はどう見ているか。私が五年前に北京を訪問した時、日本文学が専門の四十代の大学教授二人と話したことがある。私が「毛沢東時代を懐かしむ声も最近あるそうですね。格差が広がった今と違って、当時は平等だったと」と聞くと、二人ともとんでもないと言わんばかりに顔をしかめた。そして一言、「みんな貧乏だっただけです」と言っていた。彼らは毛沢東時代はほんの子供だったし、文革が始まったころに生まれたか生まれないかくらいである。だから社会的混乱をじかに体験してはいないが、毛沢東時代を肯定する気には一切なれないようだ。  一方で毛沢東に愛着を持つ人もいる。やはり私の体験だが、万里の長城へ一人で行ったとき、北京からのバスで隣の席になったのは、田舎から北京観光にやってきた青年だった。言葉は一切通じないものの、身振り手振りと筆談で意思疎通しながら、いっしょに万里の長城を登った。その彼が、ここで記念写真を撮ってくれと頼んだのが、毛沢東の詩碑の前だった。背丈を少し超えるほどの大きな碑だったが、民衆の中に毛沢東への敬愛がまだ息づいている、その一端に触れた気がした。  閑話休題。  話をもとに戻せば、文革後半期の加藤周一の中国観察の結論は、第一に、資本主義国とは好対照の「ほとんど一つの反世界」であるということ、第二に、自ら侵略に出ることはないが、「必要ならば、最後の一人まで侵略者に抵抗するだろう気配の(中略)巨大な一個の兵営である」ということだった。その物言いは、客観描写を越えて、多少アイロニーのようにも聞こえる。価値判断を避けようとしつつも、中国の貧しく画一的で軍事偏重の社会への違和感を抑えられなかったのではないだろうか。  『中国往還』は英訳もされた。加藤は「内外の書評は、著者が『文化大革命』の中国にあまりに批判的だというものと、あまりに好意的だというものに分れていた」(「『羊の歌』その後」、一九九七年初出)と言う。加藤としては、自分が一方に偏しなかった証明として、この中国見聞録の賛否両論の評価をたびたび語っている。  さて、『中国往還』で加藤周一は、今後の中国の行方を予想して次のように書いた。文化大革命の結果、中国では工業製品を大量生産する専門家・技術者が不足している。しかし、中国の独立と人民の福祉を実現するためには、技術的な面で先進国に追いつかなければならない。指導層のその努力、すなわち外国の技術の導入と、多数の専門技術者の養成は、「労働者農民の自発的な工夫・知識人の農村下放・『毛語録』絶対化などとの方向との間に、新たな矛盾を生みだすだろうと思われる」。加藤は「その結果がどうなるか。さしあたりそれを推量することはおそらくだれにもできない」と書いていた。  その後の文化大革命の終了とケ小平による改革開放路線への転換は、基本的に加藤の予想した方向と同じだったといえる。  その変化について加藤は「中国再訪」(『加藤周一著作集』第九巻初出、一九七九年)で「第一には、私の予想したとおり、何らかの形で官僚機構が再建された」「第二に、私の予想を超えて、『文革』は社会組織のあらゆる水準に個人的な対立を残したらしい」と書いている。文革は方向転換せざるを得なかったが、転換後も、その傷跡は長く残ったということだ。ただ、そこでも文革については、「反官僚主義を目標とし、青年層を主要な担い手とした運動であり、指導された自発的大衆運動という独特の性質を備えていたらしい」と述べ、「七一年の最初の中国訪問の後に考えたことと、基本的にちがわない」と書いている。こうして文革を毛沢東の奪権闘争とみなさない考えは、晩年まで変わらないことは前述したとおりである。    5、ソ連崩壊の原因  中国が社会主義的市場経済を掲げて急速な発展を遂げるのはまだ先の話である。一九六八年に社会主義国を代表していたのはソ連であり、ついで東ヨーロッパの国々だった。加藤周一もソ連・東欧諸国を中心に体制としての社会主義の行方を考えていた。  そこに起きたソ連のチェコスロバキア軍事介入事件である。ソ連は「おそらく国際共産主義運動の理想そのもの」を失うだろうと、加藤周一が「言葉と戦車」で書いたことはすでに触れた。  亡くなる直前のインタビュー「加藤周一・一九六八年を語る」(前出)では「プラハまでは私は社会主義に希望を持っていたわけですが、プラハ以後はいくらやっていても埒が明かないだろうと思いました」と語っている。しかし、加藤周一の発言を丁寧にたどると、ことはそれほど単純ではない。  例えば『世界』一九七四年八月号のイギリスの文芸評論家のジョージ・スタイナーとの対談では、社会主義の評価をめぐって口論になった。  スタイナーは「社会主義は完全に時代遅れ」「イデオロギー的葛藤ないし状況という概念は、すでに甚だしく時代遅れ」と繰り返した。これに対し加藤は「私は、社会主義が全く時代おくれだ、というあなたの考えに、全く反対です。それどころか、社会主義にかんするかぎり、西欧世界の外で、アジアでも、アフリカでも、社会主義という言葉はまさに死語の反対でしょう……」と反論している。加藤はフランス社会党の伸長(その後、ミッテラン政権の誕生につながる)、ベトナム反戦運動後のアメリカでの「『イデオロギー』の問題が復活」などを挙げている。  対談はかなり激しいやりとりになり、「聴取不能」「スタイナー氏が卓を叩く音」「同時に激しく言い合いになり」などと何度も書かれている。もはや言い争いである。『世界』もよく載せたものだ。  「プラハの春」から六年後にも、加藤周一が社会主義に未来の可能性を託していた事が分かる。  さらに一九八七年には西ドイツの映画「ローザ・ルクセンブルク」を入り口に社会主義について語った。ドイツ共産党の創始者であるローザが「強調してやまなかったのは、労働者大衆の『自発性』という概念であった」し、現実のソ連でそれが実現していないことを彼女は批判した。「彼女が甦って来るのは、彼女自身の言葉によれば大衆の『自発性』という観念が、今世紀の社会の現実が含む基本的な問題をよびさまし、深くそれに係るから」だと加藤は語っている。(「夕陽妄語」朝日新聞九月十七日付)  この時、ソ連ではゴルバチョフ政権が「ペレストロイカ」を進めていた。加藤はこの社会主義国での改革の成功如何は、大衆の「自発性」をひき出せるかどうかにかかっていると見ていたのだろう。翌八八年五月二十四日付の「夕陽妄語」ではペレストロイカ中のモスクワでの見聞を語って、「そこでおこっているのは、おそらく一政権の政策問題などではなく、今世紀の終わりに、ソ連社会主義が、今日よりもはるかに有力な世界史の主役として、あらわれ得るかどうかという壮大な実験である」と、社会主義体制刷新への期待を書いた。  しかし、改革の努力はとん挫し、一九八九年の東欧諸国の社会主義体制崩壊に続いて、九一年にはソ連共産党自体が解体してしまう。  加藤は東欧のソ連離れは予想していたが、ソ連崩壊は予想していなかったと繰り返し語っている。  ではなぜソ連の社会主義体制は崩壊したのか。  加藤周一はソ連には二つの「重大な弱点」があったという。以下『私にとっての二〇世紀』(二〇〇〇年)から要約する。  一つは、「大衆における労働意欲の低下」の問題だ。弱者保護のために「労働者の競争原理」(=市場原理)を抑えることにより、「あまり働かなくてもクビにならない」「それで労働意欲が低下する」。これはソ連だけの問題でなく、「スウェーデンでさえ起こる」。「中国でもやはり競争原理の導入の必要が生じてくる。現に改革開放政策以降、そうしているわけです」。  もう一つは、「中央集権的な官僚国家」の問題である。ソ連型社会主義は「マルクスがそういっているわけではないけれど徹底的に中央集権的」であり、経済運営を指導する官僚機構が肥大化する。「悪循環が生じて、大衆の自発性がない状況の下では、中央が計画して強制するしかない」。ノルマによる強制が強まり「ますます中央集権になる」。加藤が中国の文化大革命を、この大衆の自発性の喚起と中央集権的官僚制の打開の試みと見たのは、社会主義国の最大の課題がそこにあると思っていたからだった。「中央集権制そのものの弱点と大衆における労働意欲の低下に伴う非効率。その二つが重なってソ連は崩壊した」と、加藤周一は語っている。  ただ、加藤は「マルクス主義だからそうなったとは簡単にいえない」と注釈することを忘れない。「スターリン型でない社会主義」として、国レベルではゴルバチョフ政権のペレストロイカ、チェコスロバキアの「プラハの春」をあげている。地方レベルではインドのケララ州政府やイタリアのボローニアをあげている。どちらも長い共産党与党の自治体である。ボローニアは井上ひさしも注目して、『ボローニャ紀行』を書いた。  さらに鶴見俊輔との対談集『二〇世紀から』(二〇〇一年)では、「『純粋社会主義』が『資本主義的経済プラス社会主義的要素』との対決に負けたということで、今後、もし『純粋資本主義』対『市場経済プラス社会主義』との対決ということになれば、後者の結びつけ方のうまいほうが勝つと思います」と語っている。「つまりソ連の崩壊が証明したのは、純粋社会主義で行き、市場経済を無視すれば経済は破綻するということで、そこから学ぶべき教訓は、両方の要素が必要で、『純粋』というのは社会主義であれ市場経済であれ破綻するということです」。ここでも、破たんしたのは「中央集権的なソ連型経済」であって、「『社会主義』を『ソーシャル・デモクラシー』という広い意味で使えば、いまヨーロッパの主要国はイギリスの労働党まで含めればぜんぶ社会主義政党が政権を担っている」と述べている。  ブックレット『世界の五〇年と日本の進路』(一九九九年)でも、同趣旨の社会主義論を語っている。    6、マルクス主義との出会い  社会主義というと、古代キリスト教的社会主義から北欧型の社会民主主義まで、幅広い概念である。そのなかでマルクス主義は十九世紀以降の代表的社会主義思想であり、政治社会から学問芸術まで多大な影響を与えた。  加藤周一を読んでいると、マルクス主義的方法を随所に感じる。実際にマルクス主義について加藤周一はどう考えていたのだろうか。加藤自身の言葉から探ってみたい。  まず、加藤がマルクスに出合ったのは、一九三六年に入学した旧制高校時代である。    第一高等学校の寮に入ってからは、マルクスを読み、このような大勢非順応主義を知的に組織する方法のあることを知った。いくさは、すでに中国大陸ではじまっていて、真珠湾はすぐ曲り角まで来ていた。私が係りあいをもつことのできる左翼運動は、身辺のどこにも見えなかった。しかしマルクスの方法は、いくさという現象を理解するために大いに役立った。(「読書の思い出」読書新聞一九六四年十月二日―二十三日号)    同じ趣旨のことは、『「戦争と知識人」を読む』(一九九九年)でも述べている。高校時代に読んだ文献として『ドイツ・イデオロギー』『経済学批判』、レーニンの『帝国主義論』などをあげて、「マルクス主義は偉大ですよ。そういう思想的理論的な武器がないと、戦争という現実の全体を理論的に把握することはむずかしい」と端的に語っている。  評論家の江藤文夫の質問に答えた『過客問答』(かもがわ出版、二〇〇一年)では、戦争中にマルクス主義を学んで強い影響を受けたことを、さらに詳しく語っている。    マルクス主義の本はかなり広く読みましたから、戦時下にもその洗礼は受けています。(中略)そして不思議といえば不思議なんですが、私が非常に親しい関係を戦時下に続けていて、影響を受けたということになると、マルクス主義者がいないんです。しかし、マルクス主義の影響は非常に強かった。本で知ったマルクス主義と、一種の個人主義、リベラリズムの渡辺(一夫、フランス文学者=北村注)さんと、マルクス主義者ではないけれども、マルクス主義と関係が深かった社会科学者としての川島(武宜、法社会学者=同)さんのものの考え方、見方、その三つの影響が私にはあると思います。  マルクス主義の本は、改造文庫にしても岩波文庫の白帯にしても、伏字がやたらに多くて、翻訳もあまりよくないから、何を言ってるのか、なかなかわからない ドイツ語では読む能力が不足していたので、たくさんの本をどんどん読むというわけにはいかない 私は日本語訳で読んでいました。 (中略)マルクス主義文献と日本の戦争宣伝では、小学校と大学の違いのようで、真面目に勝負にも何にもならない。植民地獲得のための帝国主義反対の確信は、マルクス主義を機械的には適用しない人たち、渡辺さんとか、川島さんとか、そういう人たちとの接触を通じてますます強められました。  これは、加藤自身がマルクス主義との関わりについて最も詳しく述べたものである。  編集者の鷲巣力は『「加藤周一」という生き方』(二〇一二年)で、この談話をひいて、次のように書いている。  加藤の証言を裏づけるように、加藤の書庫にはかなりのマルクス主義文献が所蔵され、よく読んだ形跡が明らかに見える。それらはマルクス主義批判のために読んだのではなく、マルクス主義によって世界を変革するためではなかったろうが、世界を解釈するために読んだのである。  戦後になっても、マルクス主義への関心は失われなかった。内田義彦の主宰する『資本論』研究会に木下順二とともに加わっていた。    7、敗戦直後は影響が明らか  戦後、加藤が『資本論』研究会に加わっていたのは一九四八年ごろである。ほかに瓜生忠夫、野間宏、森有正もいた。  終戦後数年間の加藤周一はマルクス主義にただ関心を持っていただけではない。第一点として述べた戦争中のマルクス主義との接触に次いで、第二に述べれば、敗戦後五年間の渡欧前の加藤の文章には、マルクス主義の強い影響が明らかである。  例えば「リアリズムと小説」(一九四七年)では「確かに、解釈よりは改造が目的である現実は、解釈の後に改造ではなく、解釈と共に改造であり、認識と共に行為の場である他はない」と書いている。マルクスの「哲学者たちは、世界をいろいろに解釈してきただけである。しかし、肝心なことは、それを変えることである」という「フォイエルバッハに関するテーゼ」からの借用である。  このテーゼは、加藤の戦後デビュー作『1946 文学的考察』(一九四七年)の冒頭「新しき星菫派に就いて」にも見える。「我々は、今や、安全な哲学が哲学でないことを知っている。(中略)『ドイツ・イデオロギー』の著者が云ったように、『解釈するのではなく、改造する』ことを目的とするものが思想であることを知っている」。  「解釈でなく改造」という言葉は当時の加藤のお気に入りで、他にもたびたび現れる。  『1946 文学的考察』の別のエッセーではこうも言っている。「『共産党宣言』を読まず、『万葉集』に就いてかなりの理解を示しながら、彼等自身の生活を支えている土地問題に関し、何等の合理的見解を発表し得ないと云う惨めな状態」「プラトンやガリレオやカール・マルクスの天才に学ぼうとしないのは、民を愚昧にする封建的専制政治の陰謀に、己の魂を売り渡す所業とでも申す他ない」(「我々も亦、我々のマンドリンを持っている」)  さらに同書では「人民のために語り、人民と共に進み、人民の中で戦う以外に、道はないのだ」(「知識人の任務」)と書いた。  作家も「行動」こそ重要だということは他でも何度も繰り返している。  前出の「リアリズムと小説」ではスタンダールの『赤と黒』について「私の現実は、行為のなかに、意志のなかに、所詮何を欲するかと云うことのなかにしかあり得ない」と論じた。「観想的立場を放棄し、行為のために思索することによってのみ、人間精神は時代を超える」(「逃避的文学を去れ」一九四六年)とも書いた。  またサルトルの『自由への道』を論じて、この小説が「市民階級の原理を否定し」「心理分析の手法を否定」したとして、「彼の哲学は、行動的であり、未来に向っている」と、何よりもサルトルの実践的姿勢を評価している。  こうした当時の加藤周一の変革をめざす実践重視の姿勢には、終戦直後の高揚した時代の雰囲気とともに、マルクス主義の影響が如実である。後に自分の立場を「高みの見物」(一九五四年)と自嘲し、その後も旅行者的観察者に徹することが多かったのとは、大きく違う。    8、二〇世紀思想の二つの軸の一つ  第三に、加藤周一は、マルクス主義の提出する思想問題を、「二〇世紀精神の二つの主題」の一方の軸と考えていた。  一つの軸は、カトリックが代表する「形而上学的超歴史的人間」という軸である。もう一つの軸は、人間は社会と歴史に拘束された存在だという「社会的歴史的人間の必要」という軸である。加藤は、「自由意志」を論じた形而上哲学者と、反戦に殉じたフランスの社会主義者の名を冠して「ベルグソン・ジョレス問題」と呼んだ。  これについては本連載の第二回で詳論した。付け加えておけば、この問題は加藤周一の戦争体験と直結していただろう。  戦争中、加藤は「社会的歴史的人間」としては、望まない死をいつ押し付けられるかわからなかった。現に、加藤の親友だった中西哲吉は戦死した。理不尽な友の死について加藤は生涯、たびたび語っていた。  もう一つ「超歴史的人間」という側面も、加藤は戦争中に強く実感することがあっただろう。太平洋戦争がはじまり、周囲の自然も街も来年はもう見られないかもしれないと思うと、なにもかもがかけがえなく、光り輝いて見えたと、繰り返し語っている。「たとえ私の生涯にそれ以外の何もないとしても、この美しい時間のあるかぎり、ただそのためにだけでも生きてゆきたい」(「美しい時間」一九七九年、『小さな花』所収)と感じる瞬間である。ゲーテがファウストの死の間際に「時よ止まれ、世界は今美しい」と語らせたのと同じ感覚だ。この体験が、加藤の超歴史的人間という考えの土台となったと思う。  加藤が二〇世紀の中心問題と考えた「ベルグソン・ジョレス問題」は、サルトルが生涯を通じて取り組んだ問題と一致する。加藤はその問題を「ヘーゲル的・マルクス的普遍主義的歴史主義」対「キルケゴール的一回性・特殊性・個別性」の対立と語ったことがある(『加藤周一最終講義』所収の二〇〇〇年一月立命館大学での講義)。その故に、加藤はサルトルを今世紀最大の哲学者の一人と評価し、敬愛してやまなかった。そのことも連載第二回ですでに触れたとおりである。  ただ、こうして書いていると、「ベルグソン・ジョレス問題」と、「ヘーゲル・マルクス対キルケゴール問題」は共通点とともにずれもある。どちらも歴史主義と実存主義の対決ということができるが、それだけではない。「ベルグソン・ジョレス問題」は「人間の自由と歴史的必然」という側面が強い。一方、「ヘーゲル・マルクス対キルケゴール問題」は「歴史発展の普遍性と人生の個別性」という側面が強い。  加藤周一はサルトルがこの問題に正面から取り組んだ著作として『方法の問題』を挙げている。三章構成のその本の第一章はずばり「マルクス主義と実存主義」である。サルトルはさらに続く『弁証法的理性批判』で、「必然性としての自由と自由としての必然性との等価性」という問題を考察している。(ここでは詳論しきれないので、後日の課題としたい)  いずれにしても加藤周一がサルトルと同様に、二〇世紀の中心問題の二つの軸の一つに、マルクス主義歴史観を据えていたことは間違いない。    9、文学・芸術論への不満  第四に、加藤周一は歴史観・社会観としてのマルクス主義を高く評価する一方、マルクス主義の文学・芸術論については不満をもっていた。  加藤がマルクス主義芸術論を正面から論じたことはほとんどない。私の見た限り、ほとんど唯一といえるのが、「芸術の本質と創造の方法」(東京大学学生新聞一九五七年二月十一日号)という短い評論である。  ここで加藤はマルクス主義文学・芸術論の二つの問題を指摘している。  「第一に、マルクシズムは革命思想であり、従って革命の目的のために文学・芸術を大衆啓蒙の道具として使うという問題がおこる」  「第二に、マルクシズムは歴史思想であり、そのことから歴史上のある社会の現実を、そのものとして歴史的見通しの下に描き出せば、それだけで意味を生じるという考えが生れ易い」  この二つを批判して、第一点については「芸術は自己目的であって、手段ではない。啓蒙宣伝に役立って不都合ということはないが役立つことが芸術の本質ではないだろう」と指摘している。第二点については「芸術は創造だということである。人の顔、または社会をあるがままに写しとって、おのずから意味を生じるというわけにはゆかない。写しとって意味を生じることはむろんあり、それはたとえば科学的または歴史的意味であろうが、芸術的意味ではあるまい」と指摘している。  加藤は至極当然のことを言っているようだが、プロレタリア文学の流れを引く民主主義文学運動にとっては耳の痛い指摘である。  例えば、第一点について、戦前の「評価の科学性」論争のなかで宮本顕治は「我々が評価するとは、芸術作品が、読者に与える感動力によって、読者をたかめるかどうか――すなわち、社会の必然的発展の行程に沿うべき感性的認識を与えるかどうかの測定である」と述べている。政治革新と社会進歩の方向へ読者の認識を促すかどうかが評価の基準だというのである。ぶっちゃけていえば、政治革新と社会進歩に役立つかどうかとなる。  一九八一年の『宮本顕治文芸評論選集』の「あとがき」でもこの考えは「基本的には正しい見地」と再確認している。  「政治の優位性」というのも基本的に同じ意味である。これは評判の悪い言葉だが、実践的には多くの場合貫かれてきた原則である。しかも、往往にして「政治=共産党の優位性」というふうにゆがめられる場合が多々あったという苦い歴史がある。  第二点については、「民主主義文学とは、要約していえば、さまざまな対象を社会の民主的発展の方向をめざしてリアルにえがく文学である」という日本民主主義文学同盟第九回大会(一九八一年)の文言を示せば、加藤周一の言葉は耳が痛いという意味がわかるだろう。作家の右遠俊郎も「民主文学の書き手は創作意識が弱い」と言ったことがある。    10、マルクス主義文学史の貧困  加藤は晩年、「私がマルクス主義者にならなかった一つの理由は、文学をやっていましたから、文学の立場からいうと、マルクス主義者が書いた文学史は受けとれなかったのです」(『加藤周一最終講義』四四頁、二〇〇六年佛教大学での講演)と話している。  「文学はマルクス主義で言えば上部構造ですね。下部構造が上部構造に強い影響を与えるという考え方に私は賛成するのですが、しかし〈決定〉という言葉を文字通り単純に考えて、すべての文学は社会主義をめざす進歩的文学とそうでない反動的文学に分かれるという話は、ちょっとばかばかしくてまじめに相手にできなかったな。そうすると共産党員にはなれなかったのです(笑い)」  下部構造が上部構造を規定するというのは、マルクスが『経済学批判』「序言」で定式化した唯物史観の基本テーゼである。マルクスは「人間の意識がその存在を規定するのではなく、逆に、人間の社会的存在がその意識を規定する」と書いた。この通常「規定する」と訳されるドイツ語「bestimmen」は「決定する」という意味でもある。  「規定・決定」を機械的にとるべきでないとは、エンゲルスが晩年若い社会主義者たちに繰り返したことで、誤解を解くのはそれほど難しいことではない。  ただ、加藤がここで言っている眼目はテーゼの解釈ではなく、「マルクス主義者が書いた文学史」のことなのである。具体的には「V・フリーチェの世界文学史」をあげている。加藤はフリーチェが「ゲーテが進歩的要素をもっていたか、反動的要素をもっていたかを心配している」ことにあきれて、「ゲーテはなぜ面白いか」という核心の問題を忘れた不毛な議論だと批判している。  フリーチェはソ連の文学理論家で、『欧州文学発達史』が一九三〇年に日本でも翻訳出版され、当時流行していた。本書に影響を受けて、明治・大正の露伴、鏡花、左千夫、長塚節、潤一郎などの浪漫的作家をすべて、反動ブルジョアジーを支持する御用文学者と切って捨てるような本(その名も『史的唯物論より観たる近代日本文学史』)もあらわれていた。加藤はこうした文学史に到底我慢ならなかったのである。  『過客問答』でも加藤は次のように話している。「徹底的に教条主義的なマルクス主義の文学者、たとえばフリーチェの文学史というのは、まあ、ヨーロッパ文学史ですが、ゲオルク・ブランデスの引き写しです。ただその作者の階級的出身などを調べて、これは果して反動的だとか進歩的だとかを決める。(中略)ゲーテが何故大文学者なのかということは、彼が反動的か進歩的かということからは出てこない。大文学者であったとする理由はブランデスからの借り物です。ゲーテの場合は天下の常識だけれど、それを自分で考えたんじゃない。ブランデスには自分の判断があって、他人から借りたのではありません」  これは、マルクス主義のせいではなく、教条主義のせいである。そうはいっても、ほかにマルクス主義文学史がないのだから仕方がない。かつてのソ連の文学研究者がドストエフスキーは進歩的か反動的かでまじめに悩んだように、フリーチェの議論がすべて誤りともいえない。  このように、加藤周一はマルクス主義文学理論や、マルクス主義に立つ文学史家の著作を物足りなく思っていた。例えばマルクスよりサルトルの文学理論の方が優れていると言ったこともある。  「サルトル私見」(一九八四年)で、サルトルの『文学とは何か』について「特定の状況のもとにおかれた具体的な読者という考え方は『階級』と『上部構造』との関係を論じるマルクス主義の理論よりも、『文学』という微妙で複雑な現象を分析するためには、はるかに洗練された知的道具である」と書いている。    11、民族的文化の伝統の強調  もう一つ、前述の加藤周一の論文「芸術の本質と創造の方法」で注目すべき点がある。マルクス主義は民族や国の違いを超えて普遍的な歴史の発展法則を主張する。そのため「文学・芸術についても、国によって異なる文化の伝統より、文学・芸術の発展段階に応じた普遍的な方法を強調する傾向が生れる」という指摘である。だから加藤は「歴史と文学、いわんや芸術はちがう。たとえ歴史が生産力の発展という普遍的な基準によって理解されるとしても、文学・芸術の発展を考えるときには、民族的な文化の伝統に力点をおく必要がある」と強調している。  加藤がいうように、世界の普遍性を強調して民族ごとの異なる伝統を過小にみる傾向は、マルクス主義の「誤解」として生まれやすい。  私も大学でマルクス主義を学び始めたばかりのころは、「国民性」という言葉はマルクス主義と反すると考えていた。日本で自民党政権が続く理由を、日本の「国民性」から説明する議論などを聞くと、日本の「後進性」を「国民性」と言って、ごまかしているだけではないか、というように。しかし、マルクスも「ニューヨーク・トリビューン」紙への寄稿で、スペイン革命の背景を論じて、スペイン人の気質や歴史的体験について書いていた。私はそれを読んで、マルクスも国民性を認めていたのだと、目からうろこが落ちた経験がある。  「文学・芸術の発展を考えるときには、民族的な文化の伝統に力点をおく必要がある」という言葉は、加藤自身が文学史・芸術史に取り組むうえでの導きの糸でもあった。  とくに『日本文学史序説』は、「日本文学の特徴について」の章から始まる。中国文学、ヨーロッパ文学と異なる日本文学の特徴を論じるところから始めている。その日本文学の「伝統」が『記紀』『万葉集』の時代から現代まで、どう持続し、変化していったかが全体を貫く問題意識になっている。  同時に『日本文学史序説』は、貴族から武士へ、そして町人へという、その時代の文学の担い手を明らかにして階級的観点が貫かれている。また地方の人々や農民の言葉にも、今日に伝わる限りで、最大限目配りしており、被支配者の視点を意識的に盛り込んでいる。多少乱暴に言えば、唯物史観に立った立派なマルクス主義文学史だと私は思う。もちろん教条主義とは無縁で、既成の評価や権威に一切頼っていない。すべて実際の作品を読んだうえで、自らの評価判断のみに依拠した、独創的な仕事である。  『日本文学史序説』がいかにマルクス主義を駆使しているかについては、丸山眞男が『加藤周一著作集』第五巻月報で述べたことが一番参考になる。    第二の比較のポイントとしては一種の「イデオロギー批判」を一方は思想史の、他方は文学史の方法に導入した、ということがいえると思います。イデオロギー批判というのは、立ち入るとややこしい議論になりますが、要するに思想家や作家の作品を、「内側から」その構造に光をあてて思想或は文学としての価値を論ずるやり方にとどまらないで、「外側から」つまりその時代なり社会なりの直面した問題状況とか、階級的利害とかとの関連にお いて考察する方法です。これは御承知のように、日本ではマルクス主義によって確立された方法ですから、マルクス主義をくぐっている加藤(周一・北村注、以下同じ)君の場合と、少なくともマルクス主義を本格的に学んだことのない津田(左右吉)さんの場合(『文学に現われたる我が国民思想の研究』)とでは、具体的な現われ方も、また密度もちがって来るのは当然です。(中略)  さきほど加藤君がマルクス主義の方法をくぐった、といいましたが、 それは文字通り「くぐった」のです。というのは、イデオロギー批判に基づく日本思想史にしても日本文学史にしても、戦前のマルクス主義の高潮期に、思想史でいえば唯研の永田広志ら、また文学史でいえば近藤忠義とか岩上順一とかいう人たちによってすでに試みられ、そのプラス面と同時にそのマイナス面や限界も十分明らかになったうえで、それをふまえて加藤君が取り入れているからです。ですから、これは当然といえば当然のことですが、作品と時代とのかかわり、社会的制約性を指摘するのと同時に、いつも時代と社会とをこえた普遍的な意味を提示するのを忘れてはいません。  このように丸山眞男は、『日本文学史序説』が、マルクス主義によるイデオロギー批判の方法を、岩上順一らの先人の成功と失敗にも学びながら、縦横に駆使していることを見抜いている。  ちなみに丸山のこの文章では、ゲオルク・ブランデスの『一九世紀文学における主要思潮』に触れている。前に加藤が、フリーチェが引き写したと言ったネタ本である。丸山によると、デンマークの文学者のブランデスのこの大作は、今読んでも面白い大変な名著だそうだ。早くに英仏独語他に訳され、日本でも一九四〇年に全訳が全十巻で出ている。ちなみに津田左右吉は本書に刺激されて『文学に現われたる我が国民思想の研究』を書いたことが明らかになっている。加藤はブランデスも、また津田左右吉も読んだうえで、『日本文学史序説』に取り組んだことは確かだ。    12、イデオロギー批判としての文学史  加藤周一の文学史・芸術史の具体例を二、三あげてみよう。  例えば『日本文学史序説』の平安朝文学の記述である。(引用は平凡社『加藤周一著作集』四、五巻から)  平安文学の傑作は、下級貴族の、特に女性の書いたものに多いことを指摘し、「その理由を想像することは、困難ではない」と次のように書く。    下級貴族は、宮廷生活を観察するためには充分にその対象に近く、そこでの権力闘争にまきこまれないためには対象から充分に離れていた。地方官として地方へ赴いたときには、宮廷外の社会との接触の機会も多かったはずである。宮廷の女たち(女房)についていえば、経済的配慮、政治的野心、半公用語としての中国語の教養の必要の、いずれからも自由であって、彼らの私的な感情生活を母国語で表現するのに、甚だ好都合な立場にあった。平安時代の文学は必ずしも「女房文学」ではない。しかしこの時代の京都においてほど、女が一時代の文学の重要な部分を担ったことは、おそらく古今東西にその例が少いだろう。(「日本文学の特徴について」上巻二〇頁)    また日本文学の社会的背景の一つとして、文学者の集団への組み込まれ度の高いことを挙げ、その例に『枕草子』をあげた。    社会に――その社会が小さくても、大きくても――よく組みこまれた作家は、その社会の価値体系を、批判することはできないし、批判を通じて超越することはできない。しかしあたえられた価値を前提としながら、感覚をとぎすまし、表現を洗煉することはできる。清少納言は、平安時代の宮廷社会をいかなる意味でも超越せず、ただその内部の瑣末な現象についてだけ語ったが、その語り口は見事であった。『枕草子』の伝統は、今日に到るまで日本文学の特徴の一つである。そしてこのような日本文学の特徴は、当然、日本社会の構造一般の特徴を、そのまま反映しているのである。(同、上巻二八頁)    さらに平安文学を論じた第三章「『源氏物語』と『今昔物語』の時代」では、最初に政治社会背景を明らかにしている。九世紀から十二世紀末まで大陸との交渉がほとんどなく、長い「第一の鎖国時代」に入ったこと、さらに「時代の権力機構」は摂関政治から院政へ移ったが、本質的な違いはなかったこと。「経済的にみれば」この時代の特徴は「荘園」にあったこと。安定した藤原氏の権力のもとで、貴族社会は「その成員の組みこまれの度合において、またその排他性において、日本史上まさに画期的なもの」となったこと。これらの経済的社会的土台を踏まえて貴族文学を論じる。(第三章、上巻一七五〜一七七頁)  さらに加藤は「過当なる宮廷の浪費と頻繁なる辺陲の戎事(蝦夷征伐・北村注)とは、挙げて貧弱なる農民の負担する所」(原勝郎から加藤が引用)であったことを忘れない。そして、地方の大衆のなかには「実際的な知性と盛んな生活力があって、その実際的な現世主義、此岸的な世界観の構造は、『今昔物語』(本朝部世俗)に蒐められた多くの挿話にも、実に鮮やかにあらわれている」と書いている。(同、上巻一七八頁)  そして『源氏物語』に先行した長編『うつほ物語』二〇巻にかなりの紙数を割く。なぜならこの作品が『源氏物語』と『今昔物語』をつなぐカギだからである。    このような『うつほ物語』の二面性は、この作品を単純に『源氏物語』の前段階とみなすことを許さないだろう。たしかに『うつほ物語』は、長編小説の形式、閉鎖的な宮廷社会という舞台、一種の理想主義――音楽の藝術至上主義(源氏は笛の名手である)や人物の美的な理想化を、『源氏物語』のために準備した。しかしその宮廷外社会へ向って開かれた一面、また外来の観念体系の影響から自由な、容赦なく鋭い現実生活の観察という他面は、後の『今昔物語』において徹底させられるはずのものであった。一方には、「日本化」された外来思想の枠組を用いながら、土着の感受性を、極端に閉鎖的な環境のなかで洗煉した文学があり(『源氏物語』のこと・北村注)他方には、土着の世界観を背景とし、実生活上の知恵を、同時代の大衆とのつながりを通して徹底させた文学がある(『今昔物語』・同)。平安時代が『源氏物語』と『今昔物語』の時代であったとすれば、室町時代は能と狂言の時代になるだろう。その源にあった大きな記念碑の一つが、『うつほ物語』であり、その二面性こそは、まさに、時代の文化の社会的(貴族知識人と大衆)また思想的(外来思想と土着世界観)な二面性の内化に他ならない。(同、上巻二一三〜二一四頁)    ここから、加藤が平安時代を「『源氏物語』と『今昔物語』の時代」とした意味が見えてくる。『今昔物語』は鎌倉時代初めの成立なので、普通は鎌倉文学に加えるのだが、『源氏物語』と並べることで見えてくるものがある。それは民衆性・大衆性である。文学史を支配層だけの歴史としない、加藤周一の民主的思想による工夫である。「人口の九〇%を除外した文学史はまずいでしょう。そこで『今昔』と『源氏』が並ぶのです」(『二〇世紀の自画像』)といったこともある。  ちなみに加藤は、『日本文学史序説』の近代の章では「世代」概念を導入し、同じ感性を持つ同世代の、異なる類型の文学者を組み合わせて論じていく。幸田露伴と泉鏡花、鈴木大拙と柳田國男など。これはチボーデの『フランス文学史』から学んだものだ。『源氏物語』と『今昔物語』の対比論も、広い目で見れば、その応用だろう。  それはさておき、ここまで足固めすれば、『源氏物語』について多言を要さずに済む。  『うつほ物語』から『源氏物語』の「その発展の方向は、第一に、日常生活中心主義へ、第二に、感覚的な洗練へ向うものであった。しかもそこに『かげろふ日記』の内省的な心理主義がつけ加えられたのである」  主語の省略といった文体の特徴も「作者・読者・登場人物が、極度に閉鎖的な小社会に完全に組みこまれていた条件のもとにおいてのみ、成立し、日本語による表現の可能性の一つを――しかし決してその全部ではない、おそらく極限まで追求したものである」  思想的背景については「小説が日常生活の細部の描写に徹底したのは、土着世界観の此岸性の直接の表現である。長い話に一種の起承転結を具えたのは、仏教的世界観の包括的秩序の反映だろう。その意味で、『源氏物語』は「日本化」された仏教が生み出した作品であった」としている。  加藤はこのように自身のイデオロギー批判の方法を文学史に具体化した。つまり、時代の経済的土台、政治的状況、作者の社会的位置が、当時の文学を具体的にどう規定したか。個別の作品については、大陸文化と民族的文化的伝統の持続と変化の様相(国際性と土着性)、先行する文学的伝統の継承の具体的現れ(歴史的発展)を丁寧に論じた。  そのうえで、『源氏物語』が時代を超えて読者に訴える普遍性のありかを提示している。「私見によれば、それは、時の流れの現実感、すべての人間の活動と喜怒哀楽を相対化せずにはおかないところの時間の実在感、あるいは人生の一回性という人間の条件の感情的表現であった」「小説的手段を動員し、駆使して、紫式部は、時間というものの密度を表現することに成功した。『源氏物語』がわれわれに掲示する人間の時間とは、運命にあらず、無常にあらず、時の流れという日常的で同時に根本的な人間の条件である。その表現、または啓示のために、たしかに大長編小説は必要であった」  「人生の一回性」や「根本的な人間の条件」という言葉からは、先に見た二十世紀の根本問題たる「ベルグソン・ジョレス問題」の、形而上的普遍的問題軸が浮かび上がってくる。そういう点では、加藤周一は、ただのディレッタントではなく自分の問題として『源氏物語』にむきあっている。そうすることによって、人間存在の歴史的普遍的な二つの軸の交わりの問題が、平安朝の『源氏物語』から現代までつながって見えてきたのである。    13、本居宣長の全体的理解  平安文学について長くなってしまった。もう一つ、江戸時代の国学者・本居宣長を加藤周一がどう論じたか簡単にみておきたい。  加藤周一は「宣長の思想のなかには容易に折合いをつけ難い点がある。たとえば、その一つは「遺書」であり、もう一つは実証的で精密な古典学者と狂信的で粗い日本至上主義者との共存である」(「文藝時評一九七七」)という。一九八八年の「夕陽妄語」三月二十二日付でも同じ「宣長問題」に触れ、「私は拙著『日本文学史序説』において、その問題に触れ、ひとつの解釈を示したが、それには今までのところ賛成もなく、批判もない」と書いている。  第一の「遺書」問題は、イデオロギー批判の方法と関係しないので後にする。第二の実証主義と狂信主義の共存が何故可能だったかについての加藤の解釈を紹介したい。  加藤は、宣長が町医者だったことにその学問的情熱の源泉を見る。「その信念、従ってまたその学問の独創性は、彼が彼以前の学者とは異り、町医者として同時代の大衆と共有した意識の深層に発していた」(『日本文学史序説』下巻、一七四頁。初出一九七八年)。  宣長は伊勢国松坂(現在三重県松阪市)の町医者で、専門は小児科であった。  「武家社会の外で広範な患家に接し、彼らの習慣と心理に通じ、まさに彼らの「まことの心のおく」まで見抜くことは、職業上の必要でもあったにちがいない」「宣長はその経験を知的に対象化して、仏教的彼岸ではなく、日本人の世界観の此岸性に注目し、儒教的善悪ではなく、土着の文化的伝統の調和を探求したのである」と加藤は言う。小児科の町医者として宣長が接した民衆は、武家で主流だった儒教的世界観とも、仏教的世界観ともちがう此岸的現世的世界観の持ち主だった。それを知ったことが宣長の学問の出発点であり、結論でもあったというのだ。  加藤周一の父も売れない町医者だったことが連想される。その父の事や加藤自身も四十歳近くまで医者として働いた経験が宣長論のここには生きている気がする。  また宣長の狂信的日本至上主義は、武士でもなく、かと言って素朴な町人にもなれなかった、彼の社会的疎外感から生まれたものだと加藤はいう。  「没落した武家の次男は、武士でもなく、町人でもなく、自分自身を日本人として定義する他はなかった。おそらく宣長の民族主義(または日本至上主義)は、そこに発する」。自分の居場所(帰属集団)を見出せない個人が「「イデオロギー」の水準では、抽象的な上級集団(日本民族)と自己を同定し、生活の水準では、自己の周囲に仲間を集めて新しい小集団を作り、その仲間意識を強調する傾向は、宣長の例に限らない」という。  たしかに宣長だけではないし、戦前の「皇国臣民」の呼号だけでもない。高度成長期の農村から都会へ若年労働力が大移動した時代に、彼らを組織して急成長したのは、プロレタリアート階級の前衛である日本共産党と、新興宗教勢力の創価学会だった。それぞれがイデオロギー的上級集団を掲げるとともに、身近な小集団の仲間意識を強調したことは言うまでもない。ヨーロッパの移民の子弟たちが、イスラム原理主義の過激派にひかれるのも似ているところがあるかもしれない。  もう一つの「遺書」問題とは、宣長が儒教・仏教を激しく攻撃し、日本伝統の「神ながらの道」を称揚していながら、遺書では仏式の葬式と、神道式の葬式を別々の寺に指定して両方行うように書き残したことである。しかも宣長は晩年、仏教経典の写経をしていたらしい。仏教を排撃した宣長がなぜ。加藤は「私は死について仏・神のいずれの説明にも宣長が確信をもっていなかったのではないかと想像する。しかし確信はない」(「文藝時評一九七七」と書いている。  私はこれを読んで、加藤が死の直前にカトリックの洗礼を受けたこととダブる気がした。加藤もまた「死についていずれの説明にも確信をもっていなかった」のではないか、だから宣長の気持をそう推測したのではないかとふと考えた。   14、マルクス主義の優位性のありか  以上見てきたように、加藤周一はマルクス主義の文学・芸術論に弱点を感じていた。マルクス主義に立つ文学史に、ろくなものがなかったことも事実である。  一方で、社会分析の道具としてのマルクス主義は、生涯、高く評価し続けた。  加藤周一の言葉をいくつか紹介しよう。  先に紹介した「米国再訪」(一九六九年)では、ガルブレイスの『新産業国家』のアメリカ資本主義分析を詳しく紹介している。その現状分析を高く評価した上で、マルクス主義と比較して「構造変革の理論を提供しない」と、次のように批判した。  このような見方は、経済の下部構造から出発して、政治とイデオロギーの上部構造を説明しているという点で、マルクス主義の見方に似ている。殊に軍国アメリカの成立の説明は、帝国主義理論に似ているともいえるだろう。しかしそれが構造変革の理論を提供しないという点では、全くマルクス主義とはちがう。(もちろん、古典的なマルクス主義が、そのまま、今日の米国社会の変革の理論として、役立つか、どうかは、別の問題である)    そして「ガルブレイス理論は、その説明が水際だっていればいるほど、現状の全体をぬきさしならぬ必然として説明する。したがってその一部分を変革することはむずかしいという印象を蔽うことはできない」とも書いた。  このように加藤は、経済の土台から、政治とイデオロギーの上部構造を説明し、それが変革の理論にもなっているマルクス主義の方法を高く評価していた。  ただ、加藤は「理論は眼の前の現実に『応用』しないと生きてこない」(『「戦争と知識人」を読む』(一九九九年、二五九頁)と、強調した。実際のところ、マルクス主義を現実に応用するのが、つねにマルクス主義者とは限らない。非マルクス主義者が、マルクス主義的方法をうまく応用して現実を鋭く解明する場合もある。  例えばサルトルである。  一九五六年十一月のハンガリー事件に際して、フランス共産党をはじめ世界の共産党がソ連の軍事介入を支持したのに対し、サルトルはソ連を批判し、「スターリンの亡霊」という長文の論評を書いた。(日本共産党も当時、ソ連を支持したが、三十年後にソ連の介入は誤りだったと態度を改めた)  サルトルは「スターリンの亡霊」で、ハンガリー事件からさかのぼって、ソ連の抑圧的なスターリン体制がなぜ生まれたのかを、解明しようとした。(以下、加藤周一の「サルトル私見」(一九八四年)から、要点を紹介する)  その第一は「社会主義社会の建設という長期的利益」と「労働階級の直接の利益」との対立である。ソ連は資本主義がまだ未成熟な遅れた段階から社会主義建設を始めた。そこで、「社会主義社会の建設という長期的利益」のために重化学工業化を優先した。そのことは消費財生産部門への投資が後回しになることを意味し、日常生活に必要な物資が不足し、「労働階級の直接の利益」を損なうことになった。  第二は「工場労働者と農民の利益の対立」である。労働者の生活向上のためには食糧(=農産物)は安い方がいいが、農民にとっては、高い方がいい。その矛盾の解決のため、農民から農産物を強制的に徴発するようになり、農民の党への不信を高め、ますます強制に頼らざるを得なくなった。  こうした国内の二重の抵抗によって、「ソ連共産党は、一方では「粛清」を繰り返すことによって官僚機構を掌握しようとし、他方では指導者たちの一体化をもとめた」。そして粛清と極端な個人崇拝のスターリニスムが生まれた。  加藤は「このようなスターリニスムの分析は、当時において、まさに画期的であった」という。なぜなら各国共産党も含めて「マルクス主義的分析の欠如」によって、スターリン個人の「「誤り」と一国社会主義との構造的関係は明らかにされていなかった」からである。  「サルトルの議論の特徴は、上部構造と下部構造との関係のなかで問題を捉え、その意味でマルクス主義的な分析を徹底させて、スターリニスムを社会主義の必然ではなく、特定の状況におかれた社会主義の必然として理解したことである」  加藤周一はサルトルによるマルクス主義の「応用」を、高く評価しているのである。 15、「マルクス主義は常識になった」  加藤周一は一九七七年の朝日新聞「文芸時評」でも「流行していないのはマルクス主義、しかしそれに代り得るというどういう哲学もあらわれていない」と書いた。  『過客問答』(二〇〇〇年)でも同じことを述べている。    (一九六八年の世界の学生運動の高揚から・北村注)その後三〇年、今ではドイツでも、日本でも、マルクス主義が流行っていません。日本の学生は、マルクスの本の題名ぐらいは知っている、とはとても言えないでしょう。しかし世の中の出来事を全体として一括理解するためには、何らかの知的枠組みが必要です。マルクスを忘れてその代りを見つけることは、今のところ難しいようですね。(一〇五頁)    加藤周一が戦時下の高校生時代にマルクス主義に出会ってから半世紀後、一九八九年にはベルリンの壁が崩れ、東欧の社会主義政権が次々倒れた。一九九一年にはソ連が解体した。加藤は「東ヨーロッパがソ連の支配から離脱するだろうとは予想していた。(中略)しかしソ連の崩壊は、全く予想することができませんでした」(前出『私にとっての二〇世紀』文庫版一四〇頁)と語っている。  ソ連崩壊後、マルクス主義もソ連と運命を共にしたかのように、すっかり時代遅れと見る向きがますます広がった。その時に、加藤周一は敢然とマルクス主義を擁護した。それが「夕陽妄語」(朝日新聞一九九一年十二月十六日付、単行本『夕陽妄語V』所収)である。加藤がマルクス主義について書いた最もまとまった文章である。  「今日ソ連、東欧のみならず資本主義諸国でも盛んな、マルクス主義、さらには社会主義が死んだという大合唱は、議論としてまことに粗雑である」  「彼(マルクス)にとっての社会主義社会は、目標であって、分析と叙述の対象ではない。ソ連社会は、その後のマルクス主義者が考えだした理論にもとづいて作られたのである。人がいわなかったことについて人を批判することはできない」  このように粗雑なマルクス主義否定論をいなしたうえで、次のように書いた。    マルクスが 強調したのは社会の経済的構造と、当該社会の政治・文化現象との密接な関連であり、その関連の全体が、社会的現実の統一的理解の内容にほかならないということである。 そのことは今日も通用する、 ――というよりも、今では誰にとっても常識的なことではなかろうか。そのかぎりで、マルクス主義は死んだのではなく、常識になったのである。  現実の統一的理解は、個別的観察(または経験)の「全体化」である。理論的水準でいえば、資本主義社会は変わったが、マルクス以後今日の高度工業化社会の、その第三世界との関係も含めての、諸現象の「全体化」の理論はまだあらわれていない。マルクスに代わる「全体化」の理論があらわれないかぎり、 マルクス主義が死んたという命題は、空虚なものにすぎない。  もしあらためて今日の現実を全体として叙述する理論があらわれるとすれば、それはマルクス主義が単純化して描いた構造を緻密に再構成するという形でなされるのかもしれない。しかしそれがいつになるのかは、わからない。個別的な知識の蓄積の時期と、総合的な枠組みの組み替えの時期とは、学問、あるいは思想の領域で、しばしば交代してあらわれるように思われる。    このコラムを新聞掲載当時に読んだ人は多いと思う。私も読んで、非常に感動した。「マルクス主義は死んだのではなく、常識になった」というフレーズはとくに鮮烈だった。  ちなみに、同様のフレーズを加藤周一は三十数年前にも書いている。イギリスの人道主義作家フォースターを論じた「E・Mフォースターとヒューマニズム」(一九五九年、『現代ヨーロッパの精神』所収)のなかだ。戦後、「単なるヒューマニズム」はもう古い、「ヨーロッパ的個人主義」は亡んだという議論に対して、ヒューマニズムは「常識化し、広く深く根を張り、今なお相継いでおこる新思潮の基盤となっている」と書いている。それから三十余年、加藤周一からみればマルクス主義もヒューマニズム並みに常識になったのである。  死の直前、加藤周一はマルクス主義についても語った。インタビュー「加藤周一・1968年を語る」(前出、『私にとっての二〇世紀』岩波現代文庫版所収)の最後である。  「マルクスの偉大なところは、景気じゃなくて、生産の構造、経済運転の構造によってその時の政治的権力から文化的権力さえも裏から支えられていると言った」  「今の日本の中でも将来閉塞感っていうものはあると思うんですね。だけど表現の方法を見出してないし、ちょっと仕方がないみたいになっている面が大きいと思うんです」  「戦う前に、何だかわからないものと戦うわけにいかないから、何が相手なのか、敵なのかを理解することが大事」  「この社会というのは変わらなきゃいけない。どう変わるのかは、誰にも分らないんだろうけど、しかし、とにかく変わる必要があるんですね」  加藤周一の最後の言葉。それは「この社会というのは変わらなきゃいけない」だった。その変革の理論として、いまだマルクス主義に代わるものはあらわれていない。 31