情勢と人生の曲り角で……昭和三十年代から 加藤周一論ノート(5)  前回は加藤周一の日本文化論の発展をたどって一九七〇年代に至ったが、一九五〇−六〇年代の加藤について、多くの問題を置き去りにしてしまった。ここで時計の針を巻き戻して、一九五五年、フランス留学からの帰国前後に戻りたい。いわば一九五五―六四年(昭和三十年代)の落穂ひろいである。    1、脱西欧礼賛と反植民地主義  帰国前年、加藤周一は「今の日本文学が、古い伝統からはなれて西洋を手本にしていることが、大へん奇妙に見える」、「殊に手本が単に西洋の手本でなく、“今の”西洋の手本であるとき、見当が大分狂っていると思われる」と書いた(「西洋見物の途中で考えた日本文学」『文学』一九五四年一月号1)。その最大の理由は「社会的にみれば西洋、正確にいって西ヨーロッパの現在の情勢が極端な行きづまりに当面していること」と「殊にヨーロッパ以外の場所で、西ヨーロッパの演じている役割は時代後れのひどいもので、おそらくこれから先きもそれ以外の役割を演じることはむずかしいだろうと思われる。そしてそのことは文化にも反映している」(同前)からである。日本の文学は西洋を手本にするのでなく、日本の伝統と日本の現実から出発すべきだと、加藤は論じた。  ここには留学前とは一八〇度異なる、加藤の西ヨーロッパ観の大きな変化が表れている。  加藤周一は、中国文学者の竹内好と帰国直後に対談し、自分の考えの変わったことを認めている。貴重な記録なので、少し長いが、ハイライト部分を引用する。  竹内 (「新古今集」を手本に・注、以下同)歴史をさかのぼるか、それでなきゃ、(西欧を手本に)距離で向うに遠く離れてしまうか、遠くの方に理想的なものを考えていられたものがそうでなくて、現在あるがままのものを出発点にするというお考えになったわけですね。(略)  加藤 出かける前から、実はそういうふうに変りつつあったわけでしてね。戦争後に私がフランスのことを書いた時のような考えに基かないで、フランスに出発したわけですよ。前に感じていたことがでたらめではないかという考えで出発した。果してでたらめであるということを確信したということです。(略)  こういうと話が簡単になりすぎますが、遠いものはよく見える、人の畠はきれいに見えますからね。行って見ちゃった方がいい。み方にもよるけれども。  加藤周一の変化は明白だろう。その後の加藤がフランス文学をまったく論じなくなった理由も、フランス文学を理想とする考えをすっかり変えたからに違いない。西欧礼賛から脱皮し、日本もヨーロッパも相対的にみる視点を確立したことで、国際的知識人・加藤周一が誕生したのである。  加藤が「殊にヨーロッパ以外の場所で、西ヨーロッパの演じている役割は時代後れのひどいもの」と書いたのは、西ヨーロッパ諸国―殊に英仏―の植民地維持政策を指している。アジア・アフリカ地域に対するヨーロッパの支配と不公正を目の当たりにした加藤は、植民地主義に対する厳しい批判をいだくようになった。  加藤の反植民地主義を一番よく示しているのが、帰国後数年の間に発表した五つの短編小説である。いずれもフランスや香港を舞台にした、西洋見物の手土産としての創作だが、その中の二つが反植民地主義をテーマにしている。  なかでも「人道の英雄」(『文藝』一九五五年九月号)は、アフリカで人道援助家として名声を得たシュバイツアーの、植民地主義者としての偽善を暴いた秀作である。北欧出身の若い女性看護師が、アフリカの博士の診療所に飛び込んだが、思い描いていた理想とは異なる現実に、苦しみ敗れる姿を描いている。  加藤は『続羊の歌』で、この看護師のモデルを回想し、「植民地帝国主義こそは偽善の体系であり、個別的な善意を、その体系から引き離すことが、体系そのものに挑まずにどうして可能であろうか」と書いている。  もう一つ、「大使館附武官」(『群像』一九五六年十月号)も面白い。パリで偶然知り合った中東の小さいS国大使館のY少佐とのつきあいを書いたものだ。Y少佐は非欧米国の日本に親近感を持ち、「中東に『冷たい戦争』はない」「あるのは植民地主義と、それをいつかは打倒するだろうアラブの民族主義的団結だけである」という。彼の端的な言葉からは、植民地主義への憎悪が火を噴いている。「西欧の使う油の四分の三は、アラブの土地からわれわれの土地から出ているのです。われわれが望みさえすれば、彼らの息の根をとめることもできる」というセリフは、後年のOPECの石油戦略を予言したかのようだ。  しばらく後、S国の内閣改造のニュースで、新閣僚にY少佐の名を見つけた「私」は、どんな人だったか聞かれて「あれは愛国の志士ですよ」と答える。小品ながら、知力と行動力にあふれた民族独立の闘士の姿が印象的な作品だ。  作中、スイスの国際会議を傍聴した主人公の目を通して、「自由とか民主主義とか抽象的な美辞麗句をならべている」だけの西欧諸国の代表と、「具体的な例をあげて、西欧の植民地政策を攻撃し、国連をこき下ろし」ているアジア諸国の代表の、正義と活力がどちらにあるかのくっきりとした対比も描かれている。  単行本にも『著作集』『自選集』にも未収録だが、埋もれさせておくには惜しい作品だ。  フランスで宗主国民と植民地民族の対立をまじかに見て、加藤周一は民族独立の流れを、もうとどめることのできない世界史の本流と理解していた。加藤は小論「今後に来るもの」(『知性』一九五六年一月号)で、世界の民族独立運動を論じて「世界は、思いがけぬ事件に富んでいるが、思いがけぬ方向へ動くことはない」と喝破している。   2、加藤周一の「理想ばなれ」の型  加藤の西欧憧憬の起源は、戦時中の狂信的な国粋主義への反発にあった。「私は『日本的なもの』にうんざりし、『西洋的なもの』を理想化するようになった。その頃の私は西洋を見たこともなかったから、西洋を理想化することは容易であった」(『羊の歌』「古き良き日の想い出」)。  一方、同じ『羊の歌』には「すべての成人には幻滅がある」という言葉もある。西洋の現実を知って、かつての西洋の理想化が「でたらめである」と知ったことは、加藤周一にとって、一つの理想の喪失であり、幻滅だった。  五〇年代半ばは、日本の民主的な平和国家建設の理想が、大きな壁にぶつかった時代だった。鶴見俊輔は「今日の思想」(一九五四年)で、個人史の成長パターンを、戦後の日本社会の変化にあてはめた。「どんな人も、生活習慣の面では、乳ばなれを通って大人になる。そして思想習慣の面では、理想ばなれを通って大人になる」。一方、「一九五四年現在、日本の思想は、二度目の理想はなれの年齢にさしかかって来ている」。  第一の理想ばなれは、敗戦による狂信的国粋主義の挫折であり、第二の理想ばなれは、平和憲法の下での再軍備と自衛隊の創設だった。わかりやすくいえば、第一の理想ばなれは、戦中の狂信的国粋主義から戦後の西洋一辺倒の近代主義へ。第二の理想ばなれは、再軍備と一体となった自主憲法制定論に代表される日本主義の台頭へ。  こうした国粋主義と近代化主義の間を、振り子のように行ったり来たりし続けてきたことを、加藤周一も「雑種文化」論で批判していた。また鶴見より一回り若いフランス文学者の西川長夫も『日本回帰・再論』(二〇〇八年、人文書院)そのほかで、近代日本が「欧化と回帰」の反復運動を繰り返していることを明らかにしてきた。それは、奈良時代の大化の改新以来繰り返されてきた、外国文化の摂取と伝統文化への集中という大きなの振り子運動の、近代的パターンだとしている。  鶴見は、人間の乳ばなれ・理想ばなれのように、社会として不可避の理想ばなれを、どう乗り越えるかの方策を考えているのだが、ここでは触れない。ここで触れたいのは、鶴見が示した個人史における理想ばなれのカタログであり、それを参考に、加藤周一はどういう型としてとらえられるかである。  鶴見のあげた型の例。  「指導者型」=理想ばなれしても、しない前と同じように、人前でしゃべっている人、政治家に多い。  「破滅型」=理想ばなれしたことで、一生がめちゃくちゃになったように思って身を持ちくずす、太宰治。  「苦労人型」=「若い時には自分も理想があったが、世の中理屈通りにはいかない」と言って若い者をいじめる壮年。など。  思い当たるところがいろいろあるし、実に面白い分類ではないだろうか。  詳しい説明は省くが、ほかに「ぐらぐら型」「仙人型(趣味に走る)」「児雷也型(実力行動に走る)」「バタフライ型(蝶々夫人、チェーホフの『可愛い女』)」「閉門型(家に閉じこもった口うるさい主婦)」をあげている。しかし、加藤周一の型は見当たらないようだ。  そう思っていたら、加藤周一自身がヒントになるエッセーを書いていた。題して「素晴しい国」(『文学界』一九六二年九月号)。  加藤は外国暮らしが長くなって、日本の流行歌に疎くなり、たまに帰国するたびに新しい歌を知って驚くようになった。「それはまず『お富さん』ではじまり、その次には『バナナ・ボート』で、今度は『上を向いて歩こう』であった」。順に一九五四年、五六年、六一年のヒット曲である。今ならユーチューブで世界のどこにいても、流行歌をチェックできるのだろうが、日本に帰国しなければわからなかったおかげで、加藤は意外な発見ができた。昔はよかった。  加藤の「分析」が面白いので、少し長いが引用したい。    ふり返ってみれば、そこには実に堂々たるまさに弁証法的な歌の発展の跡をたどることができる。「お富さん」は歌舞伎の材料に歌謡曲の節をつけていた。これは全く「伝統的」であり、「内発的」であり、「日本的」なものである。まずそういうものが「テーゼ」としてあり、その「アンティテーゼ」として「バナナ・ボート」があらわれる。これは「外来文化」であり、「外発的文化」であり、「西洋的」――といって若干の不都合があるとすれば、少なくとも「米国的」――なものであろう。ところが「上を向いて歩こう」となると、歌詞には歌謡曲的「伝統」の涙が利いている。他方節回しと歌い方は「外来」のジャズ風である。純日本式の「お富さん」と純西洋式「バナナ・ボート」の対立は、「上を向いて歩こう」において止揚され、「ジン・テーゼ」となっている。    これを読んで、私は加藤周一の西洋離れと雑種文化論の提唱は、「上を向いて歩こう」とそっくりだと驚いた。@純日本式→A西洋式→B伝統と外来の「止揚」の流行歌の変遷は、@戦争中の国粋主義→A敗戦後の西洋一辺倒→B「雑種文化」論=「第二の理想ばなれ」にそっくりそのまま当てはまることがお分かりだろう。  そこで加藤周一の理想ばなれの型を、「上を向いて歩こう」型と名付けたい。ぴったりではないだろうか。私もこれに見習いたいし、多くの人に薦めたい理想ばなれ=幻滅の対処法である。表向きの明るさだけでなく、その陰には「涙がこぼれないように」という、切ない喪失感を含んでもいる。  この歌は日本でのヒットの後、「スキヤキ」という題名でイギリス、アメリカでも大ヒットした。しかも英語で歌ったのではなく、日本語のままレコード発売したのである。アメリカで全米ヒットチャート1位を記録したアジアの歌は、後にも先にもこれだけである。  加藤周一も世界に通用する仕事を目指し、欧米からも日本を代表する知識人とみられていた。なかでも『日本文学史序説』は7カ国後に翻訳されて、世界中の日本文学を学ぶ人の基本書になっている。その意味でも、「上を向いて歩こう」型、あるいは「すきやきソング」型はなかなかぴったりのネーミングではないだろうか。   3、周辺社会主義国への旅  一九五八年十月にアジア・アフリカ作家会議が、中央アジアのソ連邦ウズベク共和国の首都タシケントで開かれたとき、加藤周一は国際準備委員会の一員として二カ月をタシケントで過ごした。加藤がその機会に社会主義の道を進んだ低開発国の現状を知ろうと考えたのは、資本主義の先進国の植民地主義と比較したいという理由も強かったと思う。資本主義先進国の植民地主義に対して、社会主義は低開発国に何をもたらすのか。それを知るためにはウズベク共和国一国では不足だと考えた加藤は、会議後にユーゴスラビアのクロアチアと、インドのケララ州(共産党主導の地方政権ができていた)にも滞在し、三カ国の見聞をもとに『ウズベック・クロアチア・ケララ紀行』(一九五九年、岩波新書)を書き上げた。  インドから空路、砂漠地帯の上を飛んでいくと、忽然と近代都市のタシケントが表れた――その感動を加藤は率直に書いている。ロシア革命前は荒れ地だった場所に、社会主義政権が工業都市を築き、急速な工業化を成し遂げた。革命から四十年、とくに戦争中からの十五年で石炭石油、電力、鉄鋼などの鉱工業生産が十倍から百倍ものびた統計を加藤は引く。これらが農業生産、消費財生産を犠牲にしたものであることにふれつつ、フルシチョフ時代になって、消費財生産が豊かになり始めたという現地の人々の証言を紹介している。衛生と教育における大きな達成、少数民族尊重の政治も強調している。いいことばかりではなく、集団農場コルホーズよりわずかの私有農地の方が農産物の品質がいいとか、海外情報入手の不自由、工業建設のための労働力調達の問題など、現地での見聞をできる限り生の形で伝えている。現地が官民挙げて、よそ向きの顔を見せたことを割り引いても、加藤が「あとがき」で書いたように「社会主義国の経済的発展は、もはや不可逆的な歴史的過程」であり、「『自由化』という言葉で要約される社会主義諸国内部の過程も、その限度まで押し進められるだろう」ということは、この本から納得される。その経済的発展が遠からず停滞に陥り、「自由化」の末に社会主義崩壊に至ることまでは予見できなかったとしても。  ソ連崩壊後の現在読むと、もっとえぐってほしかったと不満を感じるのは仕方のないことだ。社会主義時代の外国人のソ連・東欧見聞録(宮本百合子の『道標』も含め)に付きまとう限界だ。そういう不満はありつつも、本書は当時の証言として役にたつ部分が大きいし、何より加藤の問題意識と、旅行者としてはギリギリの実態理解の努力がうかがえる。クロアチアの章ではセルビアとの歴史的な「不幸な対立」にふれており、ユーゴスラビア解体後の内戦の理解に役立つ。  読みながら不意に、そういえば私も社会主義の辺境国を訪ねたことがあったことを思い出した。八〇年代の学生時代、ブルガリアのソフィアで世界学生連盟の大会があり、全学連代表として参加したのだ。数年前に完成したという、ガラスと鉄骨でできた当時最先端の文化会館が会場だった。空港から会場に行き、あとはホテルと往復しながら四、五日過ごした。トローリーバスが走るのんびりした首都で、ホテルのエレベーターはガチャガチャとうるさく、スピードも遅かった。もちろん言葉もよく通じないし、端々に武骨なところが目に付いたが、料理は貧乏学生にはぜいたくなほどで、何の不満も感じなかった。  考えてみれば加藤周一と似たような体験をしていたなあとふと思い出したわけである。一番覚えているのは、世話係のブルガリアの学生が「明治ブルガリアヨーグルト」を知っていて、「ブルガリア特産の乳酸菌で作っているものだ」と自慢していたことだ。街にレーニン像があったかどうかも覚えていない。私ももう少し問題意識をもっていれば、もっと気の利いたことが書けたのにと思うと残念だ。 4、インド社会の断絶はいまも  同書でインド南端の西海岸のケララ州について書いた最後に、加藤はインドの知識人には「深刻な断絶が二つある」と書いている。英語でヨーロッパ風の教育を受けた知識人たちは、過去のアジャンタやエローラの石窟やヒンズー文化に興味がない。知識人は「時間的に過去の文化と断絶し、空間的にはその巨大な大衆と分裂している」。日本の知識人と似ているようだが、「その程度は、まるでちがう」と。  ここで私はインドにも行ったことがあるのを思い出した。私立高校に就職した一年目、国語科を中心とした教員有志の団体旅行で、デリーからアジャンタ・エローラやタージ・マハルをまわり、ムンバイに抜ける一週間ほどの旅だった。  たしかニューデリーだったと思うが、旅行参加者の知り合いのインド女性がホテルに尋ねてきて、彼女からインド社会の深刻な分裂の話を聞いた。まず宗教ごとに、特にイスラム教徒とヒンズー教徒の間で分裂し、さらにヒンズー教徒の中ではカーストごとに全く交流がない。英語の教育を受けられるのはバラモンとその下のクシャトリアまで。私たちについた日本語の達者な男性ガイドはクシャトリアだと彼女は言っていた。名前でどのカーストかわかると聞いて、その逃げられない差別に驚いた。  そして彼女が「コミュニストだけは、カーストの違いを超えて付き合っています」と言うのをきいて、共産主義の進歩性がインドでもいかんなく発揮されていることに心打たれた。社会の分裂の解決はいまもインドの喫緊の課題だろうが、共産主義はいまどういう役割を果たしているだろうか。  加藤周一が注目した知識人と大衆の分断に戻ると、両者を隔てる大きな溝は英語である。英語のできる知識人は安定した仕事とそこそこの給与が見込まれ、それ以外の大衆は、その下働きにとろまるか、失業にあえぐ。では英語が話せる人の比率はいまどれくらいなのか。「インド応用経済研究所(NCAER)の研究者らが二〇一三年にまとめたインドの高等教育に関する報告などによると、英語を流暢に話せるのは四%ほど。『一定レベル話せて意思疎通できる』とまで定義を広げると、その数は二〇%ほどとみられるという」。元朝日新聞ニューデリー支局長の貫洞欣寛氏の「インドの今を読む3」(白水社ホームページ、二〇一七年十一月)からの引用だ。インドというと最近は、英語力やIT業界での活躍の話を聞くが、そんな可能性を持つのは、最初から人口の四%に限られる。しかし十三億の人口の四%は、実数では約五千万人と巨大なグループなのだ。  貫洞氏は続けて次のように書いている。「インドでは、英語が話せなければ政官財界のエリートになることも、高給取りになることも難しい。(略)地元言語だけで豊かに暮らせる社会をつくるのか。公教育を改善して英語シフトを強めるのか。発展と大国化をめざすインドの、大きな課題である」  多くの深い断絶を抱えた巨大な国だけに、豊かで公正な社会の実現は、日本よりはるかに難しい。そういう国があるとじかに知ったことは、加藤周一の視野をまた大きく広げたに違いない。   5、政治の季節と戦後史の曲り角  五〇年代後半から六〇年の安保闘争に至る時期、加藤周一はその生涯を通して政治に対して最も活発に発言した。  この時期に編んだ評論集を見るとよくわかる。『政治と文学』(一九五七年、中央公論社)は、題名の通り、文化・文学論と政論の二本柱である。『二つの極の間で』(一九六〇年、弘文堂)のタイトルは、五八年秋の警職法改正反対闘争と六〇年五・六月の新安保条約批准反対闘争の「戦後日本の大衆運動の画期的なたかまりの間で、というほどの意味」だとまえがきに書いている。  当時の政論の中で、加藤周一は戦後十五年を超えた国内情勢の変化を分析し、それにふさわしく進歩的知識人は日本の民主化戦略を再考すべきだと語っている。  「進歩的ということについて」(『文学界』一九五六年九月号)では、「敗戦直後には、社会の欠陥の指摘が読者を鼓舞する意味に働き、その後、およそ朝鮮戦争前後から、同じ言葉が劣等感を刺激するという面に強く働きだした」という。敗戦直後には、日本の民主化という目標に向けて国民が動いていたが、いまやそれが行き詰まったもとで、同じ日本の「後れ」の指摘が逆効果になりだしたというのだ。「進歩的言論が進歩の障害となっている超国家主義・国粋主義を叩くために、西洋のよさと日本のわるさを、(略)強調するとすれば」「超国家主義思想の根本を絶つ代りにむしろその根本を養って」しまうという。なぜならば、「超国家主義的思想そのものが劣等感の裏返しである」からだ。  では、どうするのか。加藤の結論ははっきりしないが、社会の「近代化」とともに文学の「近代化」という、「目標そのものが自明であるのか、あらためて検討すべきときが文学の世界にも来ているように思う」という。国粋主義と近代化主義という両翼の純潔化の誤りを説いた「雑種文化」論と接続する提言である。  「曲り角に来た日本」(『キング』一九五七年八月号)では、国には「理想主義が必要だ」としつつ、ではどういう理想=目標を掲げるかは急がない方がいいという。性急な理想、民主主義は外来思想としてしか移植できず、「将来にいくらか期待することができるとすれば、それは国民的伝統と民主主義とを適合しない二つの要素としてではなく、適合する要素として考えることのできる考え方を見出したときである」からだ。そのために日本的なものの中に民主主義的なものを見出すとともに、日本のすべてを民主主義化するのではなく、「民主主義と係りのない人間活動の多くの領域においては、祖先の偉業を継承する」という「謙虚にして現実的な方策へ移るべきときが、来ている」と。  これらはいずれも、自らも含めた進歩勢力に、自己点検を促すものだった。「雑種文化」論の政治への応用だと言え、加藤の「雑種文化」論の思い付きが、意外と適用範囲の広いものだったことが分かる。  この提案が共産党を含む進歩勢力に本当に広く受け止められて、そこで戦略を立てなおしていたら、戦後の言説空間は大きく変わっただろう。小熊英二が『民主と愛国』で詳しく跡付けたように、実際には戦後左翼勢力が二つながらに掲げていた「民主」と「愛国」が分裂し、「愛国」は、保守勢力の看板になってしまった。  安倍政権による憲法改正を根底で支えている保守勢力の情念は、連合国軍総司令部(GHQ)によるおしつけへの反発である。「長い歴史と固有の文化」(自民党憲法改正草案)を持ち、「日本らしい日本の姿」(同党の二〇一〇年綱領)を示す憲法を自分たちの手でつくる――というものだ。  加藤周一は「国民的伝統と民主主義」の「適合する要素」を見つけ出すまで、日本の将来の目標を慌てて決めるなと提言した。そこには意外にも息の長い意味合いがこもっていた。  また加藤周一は毎日新聞夕刊で毎月の論壇時評(「今月の論調」)を、五六年六月から六〇年八月まで担当した(前節で紹介した外遊時は休載)。前記の二つの大衆闘争に挟まれた時期が、日本にとってだけでなく、加藤にとっても政治の季節だった所以である。  この論壇時評を、マイクロフィルムからすべてコピーして読み通して見たのだが、苦労した割にあまり面白くなかった。いわば、加藤周一ならではの発想や肉付けがなく、進歩的文化人の平均値なのである。目立つ特徴は、国内の新聞雑誌だけでなく、欧米の新聞記事もよく目配りしているくらいだろうか。  毎月の総合雑誌を素材にするという、論壇時評の定型を律義に守っているために、論壇の雰囲気は分るが、個々の論考の要点と感想が断片的に並んで終わっている。   ただし、当時の加藤の仕事全体のなかで見れば、別の論文でもっと展開されるモチーフの初発の芽生えをあれこれ見出すことはできる。例えば前出の「曲り角に来た日本」の、日本に目標がないという問題も、その一年前の「今月の論調」で石川達三や桑原武夫の発言にふれて、「しめくくり(目標・注)の必要だけを強調するのは官製の、または外国製の、すでに用意されているしめくくりのために道をひらくことにもなりかねない」(一九五六年七月十八日付)と注文している。しかし、これだけでは加藤の問題意識は伝わってこない。通して見ても論壇時評それ自体で問題が深められるものはほとんどない。  『続羊の歌』で加藤は、六〇年安保闘争に係っての自分の言動を振り返って反省している。「政治的意見の理由づけを綿密にしようとすれば、文書がながくなるばかりでなく、常に必ずしも、粗雑なたとえ話のように、おもしろおかしいというわけにはゆかない。そういう文章の読者は少い。しかし話をあまりに簡略化すれば、議論の不正確になることを避け難い。政治的な意見を世間に向って有効に提出するためには、意見を同じくする人々の間に、適当な分業が必要であろう。私は、私に適当な役割を見出さなければなるまい、とそのときに思った」。  加藤が「私に適当な役割」として、その後に見出したのが、文学・芸術、とくに古典と絡めて現代政治を語る方法ではなかったろうか。一九七五年の「言葉と人間」から、亡くなるまで続いた朝日新聞の毎月のコラム「山中人陂b」「夕陽妄語」がそれである。これら三十年を超えるジャンル横断的な縦横無尽の加藤周一節こそ、『日本文学史序説』と『日本 その心とかたち』の達成を踏まえ、ついに到達した「見出された地平」だったと思う。   6、人生の曲り角をまがって  一九六〇年六月、改定安保条約が批准され、岸信介首相が退陣して池田勇人政権が成立すると、日本の戦後史もひとつの曲り角をまがった。熱い政治の季節は終わり、高度経済成長という新しいステージに入っていった。  このころ、加藤周一も一つの人生の転機を迎えていた。 「その頃の私は、道がようやく曲り角にさしかかっているということを感じていないわけではなかった。多くのもの事の間に一種の関連がみえはじめ、そのことが自分自身の立場の自覚とつながり、どこにいてもしたがって何をしていても、自分が自分自身で変りがないと思うようになりはじめていた。仕事らしい仕事をするとすれば、これからだという気がした」(『続羊の歌』「死別」)  八月、学生時代からの友人だったドイツ文学者の原田義人が病気で亡くなった。安保闘争の盛り上がりが潮を引き、原田も逝った後、加藤周一はカナダ大西洋岸のバンクーバーにあるブリティッシュ・コロンビア大学の客員教授に就任して、海を渡った。  東京の喧騒を離れ、日本の文学、思想の古典研究に時間をかけることが大きな目的であった。幸いブリティッシュ・コロンビア大学には、自殺したハーバート・ノーマンの遺した日本語文献をはじめ、充実した日本関係の蔵書があり、日本文学・思想の研究には条件が整っていた。  バンクーバー暮らしを始めて最初にまとめた評論集『海辺の町にて』(一九六四年、文芸春秋)には、政治論はない。日本の芸術と文化の歴史、近代思想史についての文章と、アメリカ紀行文で構成されている。  加藤周一の「政治の季節」の終わりは、新しい「蓄積と旅の季節」の始まりだった。 7、蓄積と旅の季節の始まり  十年に及ぶバンクーバー時代は、加藤周一にとって、日本の古典を体系的に研究した「蓄積の時代」(加藤周一『過客問答』)であり、フランス留学の「第二の出発」に次ぐ「第三の出発」(鷲巣力『加藤周一を読む』)であった。  同時に、バンクーバーの後、ベルリンに移り、七六年に帰国するまで十六年間も海外暮らしを続けることになる。この間、初めてアメリカについて書き、北米、メキシコ、インド、ソ連、ヨーロッパの見聞を『加藤周一世界漫遊記』(一九六四年、毎日新聞社)にまとめた。こうして海外の紀行文が加藤の仕事の一つの柱になっていく。一九七一年には中国を初訪問し、その後七〇年代の加藤の海外への関心は主に中国にむけられることになった。  七六年の帰国後も、一年の半分を日本で、半分を海外で売らす生活が続いた。いわば一九六〇年は加藤にとって、世界を回る新たな旅の季節の始まりでもあった。その後の習い性ともなった海外暮らしは、加藤が「観察者」として自己の立ち位置を定めたことと一体の関係にあった。  海外に暮らしたこととと観察者たらんとしたことと、どちらが先でどちらが後か、それは分らないけれども、大学の教員の口など与えられた条件と、加藤の意志の両者が合致した結果であろう。  いま「加藤が『観察者』として自己の立ち位置を定めた」と書いたけれど、加藤自身がみずからをそう規定づけたかどうかはいま確証がない。でも、状況証拠で跡付けることならできる。  フランス留学の末期に「高みの見物について」(『文学』一九五四年五月号)で、戦争中も留学中も自分は社会に対して責任も影響力もなく、高みの見物だったと自省した。そして「もし私と社会との関係が、本来“解釈することが目的でなく、改造することが目的だ”という原則にたっているとすれば、高みの見物ではこまる」と、これまでの枠を破る姿勢を示していた。日本への帰国はその宣言の実行でもあった。  しかし『羊の歌』(一九六八年)では、「観察者」こそ私自身の本来の姿だという自覚が表明されている。子ども時代、「世界は変えられるためではなく、まさに解釈されるためにのみ、そこにあった」(同「病身」)。戦時中も「私はそもそものはじめから、生きていたのではなく、眺めていたのだ。私自身はいくさが大日本帝国の正体を暴露したと考えていたが、いくさが暴露したのは実は私自身であったかもしれない」(同「ある晴れた日に」)と書いた。  敗戦後から六〇年安保までの時期は、「解釈ではなく、改造が目的」と、マルクスの言葉をたびたび加藤は著作に引用していた。しかし、バンクーバーへ移って以降、戦後日本の当面の大きな政治的社会的変化が望めないこともはっきりしたこともあり、加藤周一は「観察」こそがみずからの定位置と見定め、そこに戻ったのである。もちろん、それは社会的政治的発言を控えることを意味しない。引き続き、日本と世界の動きに対する自分の意見を発表し続けた。それでも、それは自分の解釈の提示であって、何らかの現実的変革のための提案ではなかったと思う。  そして判断を正確にするためには、権力に近い中心部より、対象と距離の取れる周辺部にいた方がいいと考えていた。  日本を離れて、日本について考えることは観察と判断を正確にするうえで好都合だった。またバンクーバーもベルリンも世界政治の中心のワシントンやモスクワから見て周辺部だった。しかもそこにすら定住はせず、つねに心は旅行者であり続けたことも、特定の土地にいかなる責任も有しないという点で、観察を正確にするものだった。    8、傍観者であるのをやめるとき  ここで一つ問題がある。はたして対象と距離を持った責任のない判断は、本当に当事者の判断より正確といえるだろうか。非当事者の判断は責任がない分、無力で役に立たない、「役にたたぬそのことは、判断の正確さの条件になっている」と加藤はいう。しかし、マルクス主義で認識の真理性を担保するものは何より実践である。「プティングがおいしいかまずいかは、食べてみればわかる」。マルクスによれば、実際に問題解決に取り組んでいる当事者の判断の方が、様々な失敗や試行錯誤の結果、真理に近づくという考えである。  果してどちらが正しいか。私はいまは結論が出ない。  ただ、一つだけ加藤周一は「高みの見物」の例外を語っている。一九五五年から五八年まで、三井鉱山本社の医務室に勤務した時に直面した労使紛争である。「九州の炭鉱では、客観的判断がほとんど不可能な状況に出会った」「(労働者たちの)彼らの言い分はすべて正しい、と私はそのときに思った。傍観者としての判断は、常に可能ではない。故に傍観者であるのをやめるときがなければならない……」。(『羊の歌』「外からみた日本」)。  加藤は「世の中の『強き者』を好まない」と言い「私自身がいくらか特権的な階級に属し」ていると考えていた。民主主義とは「強きを挫き、弱気を援く」だとも言った(以上、「私の立場さしあたり」朝日新聞一九七二年一月十七日―二十一日付初出)。そうした倫理的立場から、三井三池の労働者の全面支持を表明したものだ。  加藤には、九州の炭鉱を舞台にした長編小説『神幸祭』(講談社、一九五九年)がある。労務側の事務長と労働組合の若いリーダーの二人を主人公に、労使の対立状況を描いたものだ。ただ、なかなか煮え切らないじれったい小説で、問題の根源は何か、労使のどちらに正義があるかがくっきりと見えてこない。  この問題はあまりこれ以上展開する材料がないのだが、労働者たちの「彼らの言い分はすべて正しい」という加藤周一の一つの証言として記録しておきたい。   9、イギリスと加藤周一  『加藤周一世界漫遊記』(一九六四年)のなかでは、最後の「英国と私自身」の章が異色であり、抜群に面白い。ほかの章が異国の街を訪ねての見聞記なのに、この章はイギリスに影響を受けた人々の思い出を語る回想記なのである。父のこと、海軍中将だった伯父、東大仏文科でラテン語を学んだ神田盾夫、イギリスで出会った海外からの移民たち、ロナルド・ドーアをはじめ忘れがたい六人のイギリス人たち。  伯父や神田盾夫の話は、同じ話が自伝『羊の歌』(一九六八年)でも語られる。こうした類似点から見て、「英国と私自身」を書いたことは『羊の歌』執筆のきっかけになったのではないだろうか。イギリスといえば伝記の伝統が強いから、そのことも考えたかもしれない。海老坂武氏は『羊の歌』について、サルトルの自伝『言葉』(一九六四年)を読んだことが執筆の動機だったと推測している(『加藤周一』岩波新書、二〇一三年)。祖父の話から始まる冒頭が酷似しているからだ。もし加藤が「英国と私自身」を書いたときに、自伝執筆を考え始めていたなら、サルトル『言葉』を読む以前になるのだが、どうだろうか。  それはさておき、加藤周一のイギリス文化から受けた影響を考えてみたい。加藤は若くしてヴァレリーを知って、フランス文学に深く傾倒したし、フランスに留学して中世の教会建築にふれて美術・建築に開眼した。フランス語を含めフランス文化から大きな影響を受けて人格形成したことは間違いない。それと同時に、このフランス文学を中和するような形でイギリス文化からも大きな影響を受けたことを『羊の歌』で語っている。それは特に政治についての考え方であった。  加藤が留学していた当時、フランスのカミュが『反抗的人間』を著して、人間の自由と反抗の問題、自由をめざす共産党の組織と社会正義との関係を突き詰めて考察した。「反抗の組織そのものが個人の自由を圧しつぶすだろう」という悲観的なものだった。「私はそういうことを自分の問題として考えていたので、ある週刊誌上で、(イギリス)労働党のクロスマン氏の書評を読んだときに、ほとんど一種の衝撃を感じた」「クロスマン氏は(略)何を思い詰めて、こうも悲劇的なのか、わけがわからぬ、と書いていた」と言う(同「偽善」)。  絶対的な道義的価値から出発して、権力政治の現実との折り合いを問う観念論的フランス流ではなく、相対的価値を政治的現実の力関係の中でどう実現するかを問う経験論的イギリス流で考えること。「そういう考え方はその後の私の政治問題に対する態度を決定した」「(民主的主張が実現しなくても)『政治に幻滅する』ということも決してなかった」と続けている。  このイギリス流柔軟さを加藤が発揮したのが、一九五六年のハンガリー事件の時だった。ソ連軍のハンガリー侵入に対し、社会主義国も権力政治の同じ穴のムジナにすぎなかったと社会主義への幻滅が広がった。加藤はそうした、オール・オア・ナッシングの議論は無意味だとして「考えて意味があるのは、どの程度まで正義人道がものをいうか、どの程度まで権力政治がものをいうか、という程度の問題に過ぎない」といましめた。そして、「正義人道が国際社会に意味をもたないということにはならない」と、ソ連の蛮行で傷つけられた国際正義を、現実の政治問題の中で救ったのである(「権力政治と社会正義」『知性』一九五七年一月号)。先に見たカミュ・クロスマン論争の見事な応用だと言える。加藤は原則を踏まえたうえで、こうした適切な応用をよく見せるところに真骨頂があった。  加藤周一がイギリスから学んだ政治の見方は、最近のメディアでも注目されている。  朝日新聞二〇一七年十月一日付の「天声人語」は、安倍晋三首相の大義なき解散、民主党のなりふり構わぬ解体・希望の党への合流のありさまに、加藤周一の「政治家に期待できる最高の美徳はおそらく『偽善』だろう」という言葉を引いて「せめて偽善がほしい。そう願うのは、ぜいたくなのだろうか」と 嘆いた。  政治についてのこの考えを加藤周一が最初に書いたのは、『加藤周一世界漫遊記』の「英国と私自身」の一節のなかだ。加藤は「偽善的英国」という世間の評判を引きながら、「少なくとも国際政治に関するかぎり、偽善とは望み得る最高の美徳である」とし、「偽善は『善』を善としてみとめるから成り立つもの」であて、正義も道理もない権力政治よりよほどましだと書いた。まさにイギリス流政治観から学んだ見方である。  さらに加藤は『言葉と人間』(朝日新聞社、一九七七年)の連載でもこの考えを繰り返し、先の「天声人語」はそこから引用した。   10、簡潔で鮮やかな定義こそ魅力  加藤周一の文章を読んでいると、「なるほど」とうなりたくなるような、事柄の絶妙な特徴づけに出合うことが多い。それが加藤周一の文体の魅力である。前節で引いた「政治家に期待できる最高の美徳はおそらく『偽善』だろう」もその一つだ。字数が少なく覚えやすい簡潔さと、その簡潔な言葉に込められた思考の量と質の高さ、その結果の、複雑な現象の本質を取り出す鮮やかさが、こうした加藤話法の魅力である。加藤周一の死後も、その言葉がよくジャーナリズムで引かれる理由もそこにある。  例えば、次の文章などは加藤周一流の定義が生まれる問題意識の一端を教えてくれる。  「私はかねて、古典劇と現代劇とを、観客との関係において、区別し、定義するために、一家の説を抱いていた。――というと大げさになるが、観客の種類によって著しく(または根本的に)効果の違う芝居は現代劇であり、どういう種類の観客に対しても原則として同じ様に訴える芝居は古典劇である、という定義を考えていた」(「芝居についての芝居」『図書』一九六九年七月号)  このようにして様々な定義を加藤は残してくれた。私自身も以前、新聞のコラムで「演劇は主人公のなかにわれわれ自身をみいだすためにみる、映画は主人公のなかにわれわれ自身を失うためにみる」という加藤周一の定義を借用したことがある。「サルトルと映画」(『文学界』一九五〇年三月号)からの引用だが、少し文章を変えてある。  もとの文章は若書きのせいか、後年の簡潔さには届いていない。「舞台を見る場合と映写幕を見る場合とでは、同じみるということの意味がちがう。一方では、主人公のなかにわれわれ自身をみいだすためにみるが他方では、主人公のなかにわれわれ自信を失うために見る。劇は、観客が各自の自我を保存しつつ積極的に参加すべき世界であるが、映画は、観客が各自の自我を失ってひきずりこまれる世界である」。私流に定義しなおせば、「映画は我を忘れさせ、演劇は我を振り返らせる」ということだ。新鮮な視角から映画と演劇の違いをスパッと線引きして見せた。  亡くなった高畑勲がアニメについて、観客を主人公に同化させて我を忘れさせる「思い入れ」型が大勢であることに批判的だったのと同じ観点である。高畑は、観客を映画の中に巻き込むのではなく、「能動的な気持ちを引き出す作品でありたい」というのが持論で、日常を忘れさせる「思い入れ」型の「閉じたファンタジー世界」より、「現実と作品世界のあいだで自由に風が吹き通う」ような「思いやり」型の作品をつくりたいと語っていた。  ほかにも、「科学と芸術のちがうところは、他人がその経験によって得た知識を、科学者はそのまま使うことができるが、芸術家には使えないということである」という加藤周一の言葉もある(「芸術家の個性」『人間の研究6 人間と芸術』有斐閣、一九六〇年)。科学について説明はいらないと思うが、芸術については作品の良しあしについての知識(他人の評価)は役にたたず、見る人それぞれが芸術鑑賞の経験を繰り返す必要があるという意味だ。出典を思い出せないので記憶からの引用だが、後年「芸術とは最小の労力で最大の効果をめざすもの」と定義したこともある。  このようにみてきてわかるように、対句的発想・表現が生きていることも加藤周一の定義の切れ味をいっそうよくしている。  また、紀行文でもその切れ味はさえる。  北米に暮らして加藤は、「米国は巨大な島国」と特徴づけた。モンロー主義の縄張り主義、「親米」か「反米」で色分けする自己中心的な外国観、建国以来革命の経験がなく一つの価値しか知らない現状維持の気分。それらが、「巨大な島国」という根拠である。  米国は個人主義の国という通説に加藤はくみしない。米国は個人を社会に同化させる力が強く、組織重視の国であり「米国には日本に似た面がある」と書いた(以上、「あめりか・一九六二」『エコノミスト』一九六二年一月二十三日号―二月十三日号)  小気味よい裁断には、独断の危うさも付きまとう。加藤にもその危険性はあり、多くの但し書きを捨象したところに、加藤の簡潔な定義の切れ味があることも忘れてはいけない。ただ、多くの枝葉や例外を切り落として、本質的なるものに近づこうとする努力が、文章を書く上では必要であることを加藤の文章から学ぶことができる。その努力の結果、加藤はかなりの程度まで本質に近づくことが多かったと思う。  もう一つ、書き加えておけば、物事の矛盾した側面の統一的理解も加藤周一が目指したことだった。  例えば「日本人の外国観」(『思想』一九六二年八月号)では、日本人が外国のことを何でも知ろうと門戸を広げようとする一方で、刺身や俳句や微妙な敬語の使い方など「日本は外国人にはわかるまい」と門戸を閉ざそうとする両極端の傾向は、ただ一つの「孤立の事実」から理解することを示した。「孤立を破ろうとする傾向」が前者であり、「孤立を正当化しようとする傾向」が後者だと論じた。同じ主題を扱った「日本人の世界観」(『近代日本思想史講座』第八巻、筑摩書房、一九六一年)では、角度を変えて、一方での日本の特殊性への固執と、他方での海外への関心の高さを「外部に『対して』自己を主張する面と、外部『から』影響を受ける面」の、「『対して』と『から』の二重構造」と分析し、明治の開国から十五年戦争までの日本人の対外姿勢をあとづけた。  また「マス・コミと世論」((『中央公論』一九五九年七月増刊初出)では、皇太子結婚をめぐるマスメディアの過熱報道と、二〇代の無関心の多さを、タテマエと・本音からすっきりわかりやすく論じている。「戦争中は天皇を神聖だと思っていた」人が、戦後は「今はそう思いません」と一八〇度変わったように見える不思議も、戦争中から本音では天皇をそれほど神聖とは思っていなかったからだと解いて見せた。  タテマエをB、本音をCとして、戦争中は両者が極端なまでに離れた。「B・Cの開きの拡大は、社会を堕落させ、精神において腐敗させる。戦後に悪徳が栄えたのは、戦前の権威が失われたからではない。すでに実質的には失われていた権威の、公然と失われるのがあまりにも遅すぎたからだ」。小気味よい指摘だ。    11、加藤周一が求めた文学の理想  最後に、加藤周一が文学に求めたものは何だったのか、六〇年代までの評論からうかがえる文学評価の三つの基準を紹介しておきたい。  ■記録ではなく創造  第一に文学とは思想を具現化するという意味での創造行為であり、現実の反映や記録ではないという文学観である。そうした考えはフランス留学前から繰り返し述べていた。  「文学のうしろに寝てゐられないことについて」(『文藝』文芸時評、一九四九年十月号)では、「文学に本質的な問題」は「一言で要約すれば、思想の問題であろう」と書いている。「思想とは、多くの事実の背後に一つの現実をみる精神の能力であり、事実を個々の事実ではなく連関する全体として眺める立場であり、小説に即していえば、記録から創作を区別する決定的な要素である。文学は時代をつくるもので、時代を反映するものではない。人生の原型をつくるもので、人生を模倣するものではない」と断言した。近代日本文学の私小説を典型とする「時代の消極的な反映」ではなく、ヨーロッパ近代文学を典型とする「時代の積極的な創造者」を求めた。結論として「小説家の仕事は、新しい人間の姿を、当代の社会にむかって示すこと」と指摘した。  また別の機会に「文章がおもしろいのは、それが文学だからであり、文学が文学であるのは、それが現実された思想だからである。読者は文学を読むので、小説を読むのではあるまい」(「極光のかげに」書評『全国出版新聞』一九五〇年十二月一日号)と書いたのも、同じ意味である。  この高揚した調子は、戦後の民主化の希望に満ちた時期に書かれたことも割り引く必要があるが、文学は記録ではなく創造だという考えは三十年後も変わっていない。『日本文学史序説』の終章「戦後の状況」(一九八〇年初出)の最後をみればわかる。  そこでは、井上ひさしが「大衆娯楽の形式を、自由自在な言葉の軽業を通じて、社会状況の批判の道具に転用し」たこと、大江健三郎が「空想的な物語または生活様式を通じて、体制を支える価値の体系に、彼ははっきりした拒否の意思を示」したことを指摘して、こう締めくくった。「時代の条件は、――あるいは一世代の現実は、その受容や描写よりも、それを批判し、拒否し、乗り超えようとする表現の裡に、またその表現の裡にのみ、ぬきさしならぬ究極の性質を、あらわすのである」。これが『序説』全体の最後の言葉である。文学の理想は記録や描写ではなく、批判と創造にこそあるという考えが示されている。  ■自己を忘れるのでなく再発見する  第二に、文学とは読者に自己と自己を取り巻く現実を深く考えさせるものだと考えていた。「文学作品をよむということは、その作品のなかに自己の問題をみつけるということである」「娯楽として小説をよむ場合には、全く逆で、自己を忘れることが目的である」と述べている(「文芸批評の問題」『思想』一九五一年五月号)。これは先に見た映画と対比した演劇についての考えと同じである。  『文学とは何か』(一九五〇年)では、「労働し生きてゆく現実とちぐはぐなものからはなにも生れるはずがありません」「われわれに必要なのは我々の現実と、それを表現し高めてゆくために、たとえば京都の庭をつくった人間の精神と同じように自由な精神とだけです」と、現実と自由な精神が優れた文学を生む父と母だと書いています。  ■宮本百合子『道標』について  こうした観点から、加藤周一が高く評価したのが宮本百合子、とくに長編『道標』であった。  「東京タイムズ」一九五〇年十二月七日付文芸時評では、「大衆の関心」を文学が失わないためには「日本国民の生活にかかわりあることがらが、もっと広く、もっと深く、もっと多くの文学作品に表現されなければならないだろう」として、連載完結したばかりの『道標』を取り上げた。  「ここには、日本帝国のボウチョウの時代に、そのなかで、一人の若い女が、家庭や社会と戦いながら、どのようにして彼女自身の道を社会主義へ向ってきりひらいていったかということが語られている。女主人公の出会った問題で、今日、形を変え、あるいは形を変えないで、日本の女が至るところで出会っていない問題はない。『道標』の構成や文学的内容についてくわしくは論じえないが、問題の提出とその綿密で大じかけな展開とからだけでも、これをもって、日本の戦後文学の代表的作品とすることはできよう」  翌年、宮本百合子が急逝した際にも、『人間』一九五一年三月号の文芸時評欄で「今、戦後の日本文学を顧るとき、そこから『播州平野』と『二つの庭』と、またその作者が死の直前に完結した『道標』とをひき去れば、のこるものが甚だ少い」「戦後の日本を世界のなかにおいてみるとき、日本人として描くべきものを正面から描いたといえる作家が、宮本百合子の他に何人あったろうか」と、その死を悼んだ。一九五〇年春に新聞か雑誌のアンケートで、日本の小説のノーベル賞候補として『道標』が一位で、『細雪』より多かったことも紹介している。「戦後、時とともに日本の小説の世界は、われわれの生きている社会から遠ざかった。人は、自己を再発見するために文学を読むが、自己を忘れるために、雑誌の小説を読んでいる。(略)そういう時代に、宮本百合子はわれわれに残された数の少い文学者の一人であった」と書いている。  『道標』は、宮本百合子のソ連・西欧訪問の体験をもとにした長編で、出てくる人物はほぼすべてモデルを確定できるほど、現実にのっとった作品である。「私小説的」といわれることも多いくらいだ。それを、「文学は記録ではなく創造」が持論の加藤周一が高く評価するのは、一見、矛盾した態度ともとれる。しかし、加藤は『道標』を単なる体験の記録、私小説的な作品とはみなかった。  加藤周一は「『道標』――正確には『二つの庭』や『播州平野』を含めて、宮本百合子の小説は、戦後の日本の代表的な小説である。代表的なという意味は、一九四五年以来五年間の日本の歩みに本質的な問題が、そこにあらわれているという意味だ。問題は、むろん日本における民主主義の成長、もう少し詳しくいえば、天皇制権力の弱まりと家族制度の崩壊の過程の進行、それに伴う日本の人民の力の増大である」と書いた(「『道標』について」『Books』十四、一九五一年四月)。  その体験に即した書き方については、「描き方は単純であったかもしれない。しかしそのことよりも、彼女の小説には、我々の真に問題とする問題があること、またその問題を描くだけの普遍的な精神の生きていることが重要であろう」(同)と弁護した。  加藤は『道標』を作者の思想が込められた、未来志向の創造的作品と評価したのだ。そう考えれば、加藤の文学観と『道標』評価はなにも矛盾しない。  加藤は一九五一年、宮本百合子全集刊行に際して「宮本百合子は一人の思想家であった」「宮本百合子において思想の肉体化してゆく過程は、なにも共産主義にかぎらず、日本で思想の問題を考えるすべての人に甚だ教訓的なのである」(関西学院新聞一九五一年十一月十五日号)と書いた。宮本百合子の思想性をなによりも評価し、小説もその思想の体得と実践の表現として評価していた。  ファンタジーやSFなど空想的な物語であっても、そこにわれわれの現実を仮託して描いたものを指して、「広い意味」でのリアリズムと呼ぶことがある。加藤周一の文学観は、表面的な現実描写、現実の記録を退け、その奥にある現実を描けという意味で、「深い意味」でのリアリズムといえる。  ■近代日本文学の二つの系統  第三に、加藤周一は「近代日本文学の伝統には、大きくみて、二つの系統がある」とみていた。一つは、花袋、藤村、白鳥らの自然主義の作家たちである。みな地方出身で、内村鑑三やキリスト教の影響を受け、「人生いかに生くべきか」を自分の問題としていた。この流れは大正時代の白樺派に続いている。もう一つは、鴎外、漱石の系統を継ぐ作家たちである。荷風、潤一郎、龍之介、石川淳、中野重治、堀辰雄らに続いており、彼らの問題は「二つの文化の対決」であった(以上、『加藤周一著作集』第六巻「あとがき」、一九七八年)。「二つの文化の対決」とは東洋対西洋、もっと限定すれば日本対西欧のことである。  そして、この二つの系統のうち自然主義派を嫌い、鴎外系統の作家を好んだ。この点での加藤の好みは文筆家としてデビューした時から変わらず、きわめてはっきりしていた。非妥協的であったとさえいえる。  加藤は自然主義の作家に対して@「江戸文化の余沢の及ばなかった田舎」の出身で「文化の歴史的な持続の意識は、彼らにおいて甚だ薄かった」A「したがってまた彼らの文学的資産は『個性』のほかになく」、「文学の値うちは極端に主観化され」「『告白』と悪文の時代をつくった」と手厳しい(「物と人間と社会」『世界』一九六〇年六月号―翌年一月号)。自然主義文学が発達させた「私小説」については、哲学の欠如、日常生活の観察の細かさ、一種の抒情的雰囲気を醸し出すという点で「これほど伝統的なものはない」とも揶揄している(「私文学論」『群像』一九五五年十月号)。たしかどこかで「日本の私小説は、平安以来の日記文学の伝統の隠れた復活だ」ということも言っていた。自然主義作家たちは、文化の伝統に自覚的ではなかったが、無意識のうちに強い日本の伝統に縛られていたということになろうか。  ただ、「人生いかに生くべきか」という主題を加藤が低く見たわけではないことは、一言付け加えておかなければならない。自然主義作家についてではないが、戦後すぐの数年間(中間小説が流行るより前)に純文学の読者が一気に拡大したのは、人々が「虚脱感」と「解放感」のなかで、「人生いかに生くべきか」を考え、そのヒントを文学に求めたからだと書いている(「今日の文学の問題」(『角川教養講座』一九五七年)。しかし、その質問が「大部分の作家において中心問題ではなかった」し、「それを中心問題とした一部の作家も、問題を十分に深めるには到らなかった」。そのため「読者が幻滅し」「文学の読者の減少」し、「中間小説の流行る」ようになったと残念がっている。文学が「人生いかに生くべきか」の問いに向き合うべきだし、その問いを考えない小説は文学ではない(中間小説に過ぎない)と加藤が考えていたことがわかる。  ■鴎外への偏愛、宮本百合子再論  もう一方の「二つの文化の対決」派の方にひかれると加藤自身書いている。なかでもこの文学系統の起源に位置する鴎外に大きな関心を持ち、鴎外論を短いものだがいくつも書いている。加藤が作家論で、それほど何度も取り上げた作家は鴎外の他にはいない。同じ系統の作家でも、漱石については、『明暗』論の「漱石に於ける現実」(一九四八年)の一つしかないのとは対照的である。鴎外に対する偏愛がうかがえる。  鴎外が西欧文化を、自らを変えるほど深く摂取できたのは、幼少時に漢文の素読の訓練を受けるなど、和漢の伝統文化に深く親しんでいたからだったと、加藤は繰り返し論じている。また。鴎外が西欧の言語に学んで日本語を発展させたことを高く評価した。「鴎外の最大の文学的功績の一つは、日本文の論理的な表現能力をおおいに開発し、大いに前進させたということである」2。その代表は晩年の史伝三部作である。そして他者を通じて自己を語った「抽斎、蘭軒、霞亭の伝記において、鴎外は近代日本文学の最高の成果にいたることができた」と評価した。(「鴎外と『史伝』の意味」『朝日ジャーナル』一九六三年五月五日号)  最後に、加藤周一は宮本百合子を二つの系統の文学者のどちらに位置づけていたかを補足しておきたい。先に見た『著作集』第六巻「あとがき」では、両大戦間のマルクス主義作家を、「人生いかに生くべきか」の系統に位置づけ、小林多喜二、宮本百合子、高見順の名を挙げている。そうすると、加藤は宮本百合子を自然主義の主観的文学の作家たちの流れにおいたことになる。  しかし一九五〇年の評論「宮本百合子と民主主義文学論」では、宮本百合子を、西欧の合理的思考を自らの骨肉として生きた作家として高く評価している。漱石や荷風が問題にした「ヨーロッパ的なものと日本的なものとの対立、矛盾、煩悶」を、「彼女自身、自らの課題として、自覚的に捉えている」という。彼女のヨーロッパ精神=「ヒューマニスティックな合理的な精神」は、鴎外のように大衆から孤立したものでなく「生活の連帯性を通じて下からも支持されている」。だから、日本における合理的精神と民主主義の徹底という歴史的課題にとって、宮本百合子の存在は大きな意味をもつと期待している。  加藤は一九五〇年前後には、宮本百合子を「二つの文化の対決」派の期待の星と位置づけ、後年になって、「人生いかに生くべきか」派に位置づけなおしたのだろうか。しかし、こうしてみると、宮本百合子は二つの系統の作家の両方の流れ、両方の主題を引きうけているようにも見えてくる。加藤がどう考えたのかを確定しきれないが、問題の所在はここに示した通りである。今後も読者と一緒に考えていけたらと思う。  注  1 この文章は連載3で、加藤の「日本の再発見」という文脈でもとりあげた。再びこの文章に戻るのは、加藤の西欧批判に注目したいからである。  2 加藤は「総じて応分の簡潔で正確な一面は、鴎外の漢語を混えた和文に、おそらく可能な限り摂取されていると私は考える。その意味では、鴎外以後、敢えて附け加えるものが、あまり残ってはいないかもしれない」とも書いた。(「外国文学のうけとり方と戦後」『文学』一九六〇年五、七月号)     3