日本文化論の形成と発展 加藤周一論ノート(4) 北村隆志  はじめに  「日本という謎の国」という加藤周一の面白い文章がある。一九六二年に『世界』八月号に載ったものだ。当面する時事問題から離れて、心の赴くままに書いたような調子が、かえって加藤周一の普段の問題意識を鮮明にしている。単行本には収録されなかったが、平凡社の『加藤周一著作集』第八巻(一九七九年)に収められている。  冒頭は「外から見た日本は、今でもまだ謎の国である」とはじまる。当時、加藤はカナダのブリティッシュコロンビア大学の客員教授としてバンクーバーにいた。  まず、対米開戦の謎。日本が真珠湾攻撃をした一九四一年十二月は、ナチスドイツがモスクワ攻略に失敗した後であった。「もし日本の指導者たちが、そのことを四一年の末に知らなかったとすれば、不思議である。しかし知っていて、挫折の見透しの濃くなってきたナチの側に立ち、アメリカをいくさにひき入れる冒険に踏みきったとすれば、それもまた不思議である。太平洋戦争は、日本の謎と共にはじまったのだ。」  しかし、戦争中は「特攻機」「玉砕」「撃ちてしやまむ」と、「一億火の玉」だった国民が、ある日突然、無条件降伏を受け入れて急変する。「史上稀にみる狂信的で超国家主義的な国民は、一夜にして史上稀にみる穏やかで従順で平和愛好的な国民となった。(中略)いくさは、謎と共にはじまり、謎と共に終ったようである」。  この戦争と日本人の謎の次に、外交・内政の謎をあげる。  ・世界最初の被爆国の政府が核実験停止に事実上反対し、米軍の日本への核持ち込みを黙認している謎  ・六〇年安保闘争の「史上未曽有の大衆運動の直後に、同じ国民の三分の二が、(中略)批准を強行した自民党の候補者に投票した」謎  ・さらに「重大な国民の感情がそこ(総選挙)にほとんど全く反映されないということになると、日本国においてそもそも議会制民主主義の機能する可能性があるのだろうか」という謎  続いて文化の謎  ・外来語が国内で氾濫するのに、国際会議で日本人が外国語を使わない謎  ・世界中の文学を翻訳しつつ、私小説という日本の小説形式には外国の影響を受けていない謎  ・外国人には親切で日本文化を外に知らせるのも熱心なのに、内心では日本文化は外国人には絶対わからないと信じている謎  結論として加藤は書いている  要するに、日本国民が、聡明で活気にみち、勤勉な国民ということをみてとるのには、誰にも困難がない。しかしそういう国民にとっての基本的な価値がどういうものか、ということになると、誰にもわからない。この国の全体がどこへ向って進み、この国民が何を目標として生きているのか。これが外からみた日本という謎の根底にあるものである。    ここで加藤周一は、海外の人にとってだけでなく、自分にとっての日本の謎を数え上げ、自分の問題意識の根本を明らかにしている。矛盾ばかりが目に付く日本国民にとって、その矛盾を貫く「基本的な価値」は何か。これが加藤周一の日本文化論のテーマである。  一九五五年に三年半のフランス留学から帰った加藤はその答えを求めて、日本の文化・政治・社会を幅広く論じていく。その探求は、七〇年代の『日本文学史序説』、八〇年代の『日本そのこころと形』、二〇〇七年の『日本文化における時間と空間』という三つの主著に結実していくことになる。  これらの文学論、美術論、時間空間論には、きわめて豊かなディテールが盛り込まれている。古今東西の実例に裏付けられた、意外な発見や大胆な特徴づけの一つ一つこそこれらの著作を読む喜びである。しかし、そうした細部をいちいち挙げることは、加藤の文章をなぞることにしかならないので、ここでは断念するしかない。  日本文化の「基本的価値」に対する認識を、加藤周一がどのように発展させていったのか。本稿ではその基本線をたどってみたい。    ●超越的世界観・超越的な彼岸思想  加藤周一の日本文化への関心は、一九五五年の雑種文化論の後、明らかに方向が変化する。雑種の中にもなお残る「日本的なもの」とは何か、日本精神に固有の特徴・傾向とは何か、に関心が向いていく。つまり、日本文化が古くは中国文化との「雑種」であり、明治以降は西洋文化との「雑種」だということは、中国、西洋に完全に「同化」しきらなかったわけだ。「同化」しきらない中での、雑種の「混血」ぶりよりも、雑種の中になお流れる日本精神のDNAの解明に加藤周一は向かっていった。  加藤周一が、自ら考える「日本的なもの」の核心を(おそらく初めて)定式化したのは、「果して「断絶」はあるか」(『体系日本文学講座7 日本文学』青木書店、一九五六年九月初出)である。  加藤はまず「明治以前と以後の文学(または漠然と文化)が断絶していて、そこに一貫した伝統を考えることができない」という通説に疑義を示す。中国を明治以前の、西洋を明治以降の、それぞれの日本文化の本店とみなしたとしても「支店の側にもいくらか独立性があるとすれば、本店の断絶すなわち支店の断絶とはいえない。断絶の説はその根拠を失うだろう」と説く。そして次のように問題提起する。    いわゆる「断絶」の問題を検討するには、まず「日本的なもの」の検討からはじめなければならない。私はまずそれを文学芸術について検討し、そのつぎに文学芸術の背後に考えられる意識一般について検討するだろう。(中略)少なくとも従来の通念としてのいわゆる「日本的なもの」が必ずしもほんとうに日本的なものを代表しているのではないという事実だけははっきりさせたいと思う。(「果して「断絶」はあるか」)  加藤周一はまず真っ先に、日本文化の特色は「わび、さび、もののあわれ」だという通説を退ける。これは国中の床の間にあふれた、粗製乱造の掛軸をもとにした俗説にすぎない。雪舟の代表作は「セザンヌの風景画の分析的な面の構成を思わせ」「わび、さび」ではない。「鎌倉初期の木彫は、その後、彫刻による個性の写実的表現という点で、未曽有の水準に達した」。光琳の「その豊饒、その豪華、その純粋に感覚的よろこびのあふれてくるところにこそ、「日本」を感じる」と。それらに「わび、さび、もののあわれ」はない。そうではなく、写実性と装飾性、感覚的な美の見事さこそ、「日本的なもの」だと加藤は書く。  また『万葉集』以来の詩歌や『源氏物語』『今昔物語』に共通する日本文学の特徴を次のように言う。「想像力よりも経験の文学」「怪異の世界よりは日常的世界に執する」「形而上学的であるよりも感覚的な文学であって、人生哲学の深さよりは視覚的描写の生彩と自然感の洗練に勝るもの」。  「写実性」「感覚性」「日常性」「経験性」の根底にある意識構造は何か。「結論は要するに仏教渡来以前の原始宗教的世界には、超越的な彼岸思想がなかった。仏教、儒教、および西洋文化の影響も、その点においては、日本人の意識をけっきょく変革しなかったということに尽きる」。つまりここで加藤周一が見出した「日本的なもの」の核心は、「超越的な彼岸思想がなかった」ことである。  そうして加藤は、戦前の共産主義者の転向も、戦後の戦争賛美者の民主主義への転向も、生活上の理由で信条を変えたもので、「総じて日常生活を信条や理論が超越しないという、日本の意識の深く長い歴史的背景を、われわれはそこにもう一度見出さないわけにゆかない」という。  この認識は「雑種的日本文化の希望」(一九五五年)に書いた日本的世界観の特徴の定式を引き継いでいる。「一種の感覚主義、感覚的・日常的・経験的世界がそのまま現実であり、唯一の存在であって、その世界を超えたどういう種類の存在もみとめないという世界観」という特徴づけだった。そこでは「もし今、日本の芸術家にとって、西洋の精神的風土と接触することに意味があるとすれば、西洋の、少くとも西ヨーロッパ大陸での、プラトニックな意識の構造(超越的な彼岸思想を持った世界観・北村注)との接触という点にしかない」と書いて、日本が西洋から学ぶべき核心が、その超越的世界観の意識構造にあることを示唆していた。  ●日本の民主主義の行方にとって  ここで、加藤の問題意識として三点を補足しておきたい。  問題意識の第一に、超越的世界観をもたない日本的意識構造は、日本の民主主義の未来にとって重大な意味を持つと加藤は考えていた。民主主義の前提である「個人主義と平等」は、キリスト教という「人格的で同時に超越的な一神教」から生まれたものだからである。  「近代日本の文明史的位置」(『中央公論』一九五七年三月号初出)で、加藤は「個人の尊厳と平等の原則の上に考えられる社会制度は、このような(超越的世界観を持たない・北村注)歴史的背景と精神的構造を前提とするとき、どのように発展するか」「それが日本の、またおそらく中国の最大の問題である」と論じた。日本に個人主義と平等思想が弱いことは当然民主主義の発展にとってマイナスになる。一方で、一神教にはない日本の寛容の精神はプラスになりうる。「寛容と不寛容との区別のない一種の経験主義を通じて、「より高い生活程度」ではなく、「より幸福な生活」を実現する道があるかもしれない」と加藤は書いた。  雑種文化論が民主主義論とセットであることの焦点は、超越的世界観がない日本社会で「西洋の手本よりはある意味でましな」民主主義を作れるかどうかにあったのである。  ●知識人の戦争協力の内面  問題意識の第二に、日本人の意識構造に超越的世界観がないことが、大多数の知識人の戦争協力の内面的理由だと加藤は考えていた。  その問題を加藤は「戦争と知識人」(『近代日本思想史講座4 知識人の生成と役割』筑摩書房、一九五九年九月初出)で明らかにしている。そこでは高見順の『敗戦日記』や中野好夫の発言などをもとに、戦争に協力・追従した知識人の意識を検討した。結論として「思想上の戦争反対が貫かれなかったのは(中略)天皇・民族・国家をひとまとめにした「日本」を超えるどんな価値概念も真理概念もなかったからだ」「実生活と離れた思想は、実生活に対し、超越的な価値概念も、真理概念も、つくりだすにいたらなかった。それこそ知識人の戦争協力という事実の内側の構造であった」と書いている。「日本」を超える価値を信じきれなかった大きな理由として「その思想またはイデオロギーの外来性」もあげている。  「戦争と知識人」の最後では、戦争に反対しきれなかった大きな原因は「日本の知識人の精神構造の伝統的な型であって、その型をあきらかにするためには、昔にさかのぼらなければならない。昔とは『古事記』の昔である」と、古の日本文化に立ち返って、日本の「神ながらの道」の精神構造を解明することを、今後の課題として宣言している。その探求、つまり日本の伝統的意識構造を日本文学の歴史のなかから明らかにすることが、加藤周一の大きな宿題となる。これは『日本文学史序説』(一九七三年―八〇年)で果たされることになる。  ただ気になるのは、「超越的な彼岸思想」の代表であるキリスト教と戦争の、日本における関係である。「戦争と知識人」で加藤は、キリスト教の各宗派・団体は戦争に協力したが、「組織の外」つまり無教会派のなかに、戦争反対を貫いた少数のキリスト教徒の知識人がいたことを指摘している。矢内原忠雄と南原繁の二人の例をあげ、なかでも矢内原は「日本の理想を生かすために、一先ずこの国を葬って下さい」とまで講演したという。  しかしこうした一部の個人をのぞき、キリスト教も集団になると「日本」に屈してしまった。後に出てくる日本の「集団主義」を超えることは、キリスト教にも難しかった。  加藤周一は「宮本(顕治・百合子)夫妻に代表される共産主義者は、その立場を、獄中・または獄外において、命がけで貫いた」と、志操堅固なマルクス主義者がいたこともきちんと評価している。逆にマルクス主義者の「転向」には全然触れていない。知識人の戦争責任というと、共産主義者の「転向」をまず議論の入り口とする論者が多い中で、この論文の際立った特徴だともいえる。おそらく加藤は、共産主義者の「転向」も全体の知識人の戦争協力の一部と大きくとらえて、そこだけを論じることに意味を見出さなかったのであろう。それよりも、反戦を「命がけで貫いた」人が、共産主義者の中にいたことの方が重要だと考えたのだ。    ●その後の日本文化論の出発点  問題意識の第三に、日本の土着思想における超越的世界観の不在という認識は、加藤周一の日本文化論の出発点に過ぎないということである。この認識を最初の礎石として、加藤周一は生涯かけて日本文化論の伽藍を築きあげていく。  壮大な伽藍を支えるには、礎石がひとつだけでは足りない。加藤は後に、中国や西洋とは異なる、日本の精神構造の基本特徴として、この最初の礎石の他に二つの礎石を置くことになる。「(競争的)集団主義」「現在主義」の二つである。  例えば丸山眞男らとの共著『日本文化のかくれた形(かた)』(岩波書店、一九八四年)では「競争的な集団主義」「現世主義」「現在主義」を、日本人の意識構造の三つの基本特徴とあげている。  加藤が編集長をつとめた『平凡社大百科事典』(一九八五年)の「日本」の項目では、「社会・文化の特質」(加藤執筆)として、「現世主義」「現在主義」「集団主義」「競争原理」の四つを説いている。第一の基本特徴の「現世主義」について、ここでは「この世界観の現世主義は、超越的価値の不在と離れ難く結びついている」とした。「日本の文化に特徴的なのは、そういう青年(太平洋で戦死した青年・北村注)にとって国家を批判する原理、そういう会社員にとって会社を超える価値が、原則として存在しなかったということである」と続く。現在でいえば、日本で過労死が後を立たず、欧米ではほとんど見られないという違いにも、世界観のなかの超越的価値の有無が関係していることになる。  「集団主義」「現在主義」の加藤の所論については後述する。その前に、もう少し「超越的世界観の不在」=「現世主義」の由来と展開についてふれたいことがある。(ただし、以下は少々専門的でマニアックなので、急ぐ人は飛ばして「●『集団主義』へのシフト」に進んでください)    ●超越的世界観の不在説の起源  まず、加藤周一の日本文化論の最初の礎石となる「超越的な彼岸思想=超越的価値の不在」の認識は、いつどこから来たのだろうか。実はこうした認識は、すでに早くから加藤周一にあった。最も早くそれを書いたのは「藤原定家―『拾遺愚草』の象徴主義」(『文藝』一九四八年一月号初出)である。    歴史と人生との無常は、相対的な否定的契機であるが、絶対的な否定的契機ではない。否定は、超越的立場からなされたのではないからである。その意味では、最後まで、他のあらゆる歌人と同じように、定家も又、自然的、現世的、感覚的芸術家であった。彼の立場は、純粋に美学的であり、それ以下でも、それ以上でもない。(中略)  『拾遺愚草』の象徴主義には限界がある。なぜなら、定家の無常の相対的である如く、彼の自然も又相対的であり、超越的な根拠によってその存在を保証されない精神も遂に相対的であることを免れないからである。(中略)  定家に於ける超越的立場の欠如は、彼の無常から、美的立場を、そして美的立場のみをひき出したが、(中略)二つの宇宙の本質類比 analogia entis が無限に展開される可能性は全くなかった。日本の抒情詩に比類なく深い彼の象徴主義的世界観も、真に普遍的なものではない。真に普遍的であるためには、単に美学的ではなく、同時に形而上学的な思考がなければならぬ。(傍点北村)    若書きの難渋な言い回しではある。しかしよく読めば、鎌倉時代初めの歌人・藤原定家における「超越的立場」の不在、定家もまた「自然的、現世的、感覚的」な日本精神の枠の中の芸術家であったことを指摘している。そして、定家が「超越的な根拠(世界観、価値)」を持たないために、相対主義にとどまって現実批判に至らないこと、そして真に普遍的なものを生み出すためには、「形而上学的な思考(超越的彼岸的な思考)」が必要だという日本文化批判が読み取れる。  最後の、文化が「真に普遍的であるために」は「形而上学的な思考」が必要だというのは、この後も変わらない加藤の持論である。先にふれた「雑種的日本文化の希望」をはじめ、加藤周一が生涯の課題としたテーマをここで早くも予告している。    ●カトリック神学の影響  では、加藤周一が生涯こだわった「超越的な根拠(価値)」という発想がどこからきたかといえば、カトリック神学であることは間違いない。具体的にはフランスのジャック・マリタンの「自然神学」である。マリタンは二十世紀の新トミズムの代表者であり、中世スコラ哲学のトマス・アクイナスの思想を再興した。  加藤はマリタンの思想を学生時代に吉満義彦の倫理学の講義で学んだ。吉満はフランスに留学してマリタンに師事したカトリック思想家である。吉満についての学生時代の思い出は『羊の歌』に次のように書いている。「私は吉満義彦著作集を読み、(吉満の師である・北村注)岩下壮一著作集を読み、カトリック神学に関心をもつようになった」「その理路整然とした合理主義的体系は、それ自身ほとんど美しかった」「私はカトリシスムに一種の《プラトニック・ラヴ》を抱いていたのかもしれない」。  ちなみに、「藤原定家―『拾遺愚草』の象徴主義」の先の引用の最後近く「本質類比 analogia entis」とあるのはトマス・アクイナスの重要概念である。神(超越的存在)と物質的現実は、直接にではなく、類比(アナロジー)によってつながっているとする。この「本質類比」の考えによって、現実から超越した神の絶対性と、理性による現実を通した神の認識可能性を両立させた。ここからもマリタンの新トミズムの影響は明らかである。  さらに、この定家論の最後には「一文明の崩壊に当り、精神の秩序を再建するためには、「拾遺愚草」の美意識を以ては足りず、例えば「神国論」の超越的権威が必要である」とある。『神国論』とは、古代ローマ帝国末期に、ラテン教父アウグスティヌスが書いたキリスト教護教論と異教批判である。  岩下壮一は「神国論そのものが、異教的信仰によってはもはや支持し得られなくなった帝国の前途に対する希望を、キリスト教の信仰によって立てなおし、人心の萎靡を防ぎ、国運挽回を策した大文字であった」(『アウグスチヌス 神の国』(一九三五年)と書いている。  敗戦直後の定家論の最後に、ローマ滅亡期の『神国論』にふれたのは、戦後の新日本建設にあたって、超越的価値を持った思想こそ必要だと加藤が考えたことを示している。  ちなみに海老坂武は『加藤周一』(岩波新書、二〇一三年)で、戦後初期の加藤周一のフランス文学の読解には「カトリック神学の影響がきわめて強い」と指摘した。実はフランス文学論だけではなく、カトリック神学は加藤の日本文学の読解にも影響していた。  このように加藤周一は日本における超越的世界観の欠如に早くに着目していた。そして「西洋見物」から帰ってきた五〇年代後半に、この認識を、日本の伝統的意識構造の第一の特徴として明確に据えなおしたのである。    ●鎌倉仏教の発見  しかし加藤周一は日本の「超越的世界観の不在」を確認して終わりにはしなかった。日本の歴史のなかに、この伝統を覆して見事に超越的思想を確立した例を探ってついに発見する。それは十三世紀の鎌倉仏教、とくに法然・親鸞の浄土宗・浄土真宗であった。  いま「発見した」と書いたのは、加藤周一の文章を年代を追って読んできての実感である。加藤が自分の探索の過程を証言しているわけではない。しかし、以前はなかった鎌倉仏教への言及が、ある時を境に頻繁に出てくるようになる。  最初に鎌倉仏教にふれるのは「日本的なものの概念について」(『知性』一九五七年八月号初出)である。そこでは次のように、親鸞『歎異抄』、道元『正法眼蔵隋聞記』の日本文学にしめる意味に触れていた。    日本の過去をその全体において眺めるならば、もののあわれ以下の国学的概念は、日本の文学・芸術にとってなんら普遍的なものでなく、その限られた一部にしか妥当しないということが明らかになる。(中略)たとえば『方丈記』の代りに『歎異抄(たんにしょう)』をとり、『徒然草』の代りに『正法眼蔵隋聞記(しょうほうがんぞうずいもんき)』をとれば、事情は忽ち一変する。日本文学に哲学がない、倫理的感情の深さがない、総じて、人間学の深い展開がないという伝説は、そこで忽ち崩れるだろう。    ここでの鎌倉仏教への言及はここだけである。興味深いのは、加藤自身が以前は日本文学には“哲学がない”と、言っていたことである。  例えばデビュー作『1946 文学的考察』では「もののあわれは(中略)同時に、我々の先祖に於ける、形而上学の論理と、宗教的感情との欠如を語る」(「我々も亦、我々のマンドリンを持っている」傍点北村)と書いていた。ほかに『現代フランス文学論』の「序 現代フランス文学の問題」(一九四八年六月初出)でも「我々の文学のなかには、合理的精神がなかった。幾何学に於てなすところ極めて少かった国民の美意識は、理性的秩序への嗜好をほとんど含まない」と断じていた。  つまり、『歎異抄』と『正法眼蔵隋聞記』の意義に気づいて「事情は忽ち一変」したのは加藤周一自身であった。加藤の終戦直後の文章だけでなく、フランスから帰国後の文章でも、日本文化を論じるに際して、鎌倉仏教を理由に「超越的世界感の不在」に留保をつけた例はそれまで見られない。一九五七年半ばに何らかの発見があったようだ。  さらに「文学の概念と中世的人間」(『文学』一九五八年三月号初出)で、親鸞と道元を初めて本格的に論じた。親鸞の他力本願の徹底は「少なくとも事「往生」に係るかぎり、すべての人間の基本的平等が原則として確立される他はない」。道元についても、人からどう見られるかを善悪の基準とする考えを根本から否定し「倫理的な意味での善悪の社会的基準が根本から覆されている」「価値の基準の内面化は道元においてもっとも徹底していた」と書いた。  ここまでくれば、親鸞、道元の思想が、生活の都合を超えた「超越的な彼岸思想」にまで到達したとみなすまであと一歩である。  『東京日記』(『週刊朝日』一九六〇年一月―七月連載)のなかの「余は如何にして基督信徒とならざりしか」(六月二十六日号)では「仏教史の全体からひきだされる結論は、宗教を媒介とする超越的な世界観に、日本の精神がおどろくべき一貫性をもって抵抗してきたということである」と指摘した。仏教史の中でも鎌倉仏教、とくに「浄土宗の歴史的な意味」こそ問題の焦点であり、「浄土宗の成立には、ほとんどあらゆる点で(キリスト教の・北村注)一六世紀宗教改革との相似を追求できる」と踏み込んだ。  「浄土宗の歴史的な意味」をついに鮮明にしたのは、小冊子『親鸞』(新潮社、一九六〇年七月)である。    法然と親鸞は、仏教のみならず一般に日本の思想そのものを、革命的に転回したのである。多分彼らにおいて、日本の精神は、はじめて、決定的に、超越的な彼岸思想に徹底した。(中略)  一三世紀に日本思想史は、はじめて仏教的彼岸性を通して、超越的思想を生んだともいえるのである。(中略)  仏教はそのとき遂に日本人の世界観の構造を根底から変えたのであろうか。もちろん変えた。しかし後年危機が去って、社会秩序が安定し、末法観に切迫した時代的背景が失われたとき――殊に江戸時代の鎖国と平和のなかでも――、その変化が元へ戻らぬようには、変えなかったのである。    法然、親鸞の浄土宗(と浄土真宗)は、日本で初めて生まれた超越的な彼岸思想であった。そうした日本史上に特異な思想が、なぜこの時代に生まれたのか。貴族支配の古代国家から武家封建制への大きな時代の転換期であったこと、平家の台頭から、源平の争い、源氏の血統の途絶まで目前の激しい栄枯盛衰、戦乱と飢饉・疫病がつづいたこと、そのなかでの社会不安と歴史意識の発生を加藤は指摘している。  また、親鸞は「一般に支配するものの側にではなく、支配される者の側に立った」として、「京都に対しては関東、貴族に対しては武士、領家地頭名主に対しては農民大衆の本質的な平等を意味するものでなければならなかった」と、加藤は親鸞の思想の民衆性と平等主義を重視している。  しかし、それは日本古来の世俗的世界観を変えるまでは至らず、時代が下がるとともに、その日本の伝統的な意識構造のなかに埋もれてしまったということになる。  鎌倉仏教の意義の発見によって、加藤の日本文化への言い方は明らかに変化する。日本文化に形而上学的思弁の不在が目立つとしても、それがすべてではないと、留保条件を付けるようになる。七〇年代以降の日本文化論では、日本にも合理的伝統があったことを強調するように変わっている。  例えば「さらば川端康成」(「毎日新聞」一九七二年九月十二日―十三日付初出)。川端康成の感覚的な美の世界は「日本的」であるが、「「日本的」なものが「川端的」であったのではない」とこう述べた。  「鎌倉時代の仏家や江戸時代の儒家は、それぞれ外来の観念体系との対決を通じて、あるいは、日常的な社会秩序を超える絶対者をもとめ、あるいは、日常生活の特殊性を包括する世界秩序の普遍性をもとめた。「日本的な」文化とは、(感覚的美の世界だけでなく、鎌倉仏教などを含めた・北村注)その全体をいう」    ●法然・親鸞の評価をめぐって  ところで、加藤周一がこのように入れ込んだ鎌倉仏教、とくに法然・親鸞の浄土宗・浄土真宗についての評価は妥当なものなのだろうか。  海老坂武も「加藤は、法然、親鸞、道元、日蓮らの鎌倉仏教を、それ以前の仏教とはっきり区別し、その相違を「超越思想」という言葉で説明しているが、これは妥当なのか」「私の知見では解きがたいものなので、識者に御教示いただければ幸いである」(『加藤周一』)と書いている。  もちろん、私もこの疑問に答える資格はないのだが、最近読んだ本の中に、この疑問にズバリ答えてくれるものがあった。阿満利麿『日本精神史』(筑摩書房、二〇一七年)である。著者はNHKディレクター出身の明治大学名誉教授で、専門は日本仏教史・日本宗教論である。NHKでは宗教関係の教養番組を多く作っていたらしい。  本書では、次のように、法然の浄土宗を、超越的価値を持った日本初の「普遍宗教」と強調している。    ところで、法然の普遍的仏教は、六世紀に仏教が日本に伝来してから七百年近くの歳月をかけて生まれたものである。それは、日本人の手になるはじめての「普遍宗教」といってよい。(中略)法然にいたって、出家・在家の区別なく、すべての人々の救済を実現する救済原理が鮮明に説かれるにいたった。しかも、その救済原理は、国家をふくめてすべての世俗的価値から超越する。それは、まさしく人類史上まれにみる「普遍宗教」の成立といっても過言ではない。    そして、「現代の日本の知識人の間には、日本に「普遍宗教」が成立していたことを認める人は、きわめて少ない」が、「日本にも「普遍宗教」が存在したことを多くの人に知ってもらいたい、(中略)その存続が百年に満たなかった、という事実を紹介したい」という。「つまり、日本史上はじめて成立した「普遍宗教」が、早々に国家権力や「自然宗教」と妥協して変質してしまい、今にいたっている」と書いている。  そして「この問題をはっきりさせることなくして、本書が問題にしている「事大主義」の克服も、「主体的精神」の確立も、解決の方向さえ見出せないであろう」と述べ、日本での「普遍的宗教」成立が、日本人の「主体的精神」の確立に直結する問題だと強調している。  阿満氏の議論は、加藤周一の問題意識そのままと言っていい。鎌倉仏教、とくに法然・親鸞の浄土宗の特別の意義についての認識は加藤一人のものではないことが分かる。  ちなみに、阿満氏は法然を重視し、加藤は親鸞を重視しているから違うと思う人もいるだろう。実は最近、「高校の倫理の教科書は、法然の教えを「徹底」「発展」させたなどの表現で、親鸞を説明してきた。だが、この記述では法然は親鸞より劣ると誤解を与えかねないとして、教科書の表記を見直す動きが相次いでいる」という記事が「朝日新聞」三月十七日付文化欄に載っていた。「法然と親鸞は論の組み立て方が違うだけで、同じものを目指した。オリジナリティーは法然にあり、親鸞は法然の議論をすっきり整理した。人間の平等を説いたことが共通する」と、二人の共通点の方が大事だという京都学園大の平(たいら)雅行教授(中世仏教史)のコメントも紹介していた。  国家を超え、人間の平等を徹底した「超越的思想」を唱えた点で、法然と親鸞は一致していたとみてよさそうである。    ●鎌倉仏教の関心のきっかけ  それにしても加藤は、法然・親鸞などの鎌倉仏教についてどこからヒントを得たのだろうか。鷲巣力は「親鸞については、敗戦直後から鎌倉時代への関心深く、早くから加藤にとっての研究主題になっていた」(『加藤周一を読む』岩波書店、二〇一一年。p106)と指摘している。  私は、ここでもカトリック思想家の吉満義彦からヒントを得たのではないかと考える。少なくともヒントの一つだったろうと思う。  吉満義彦は結核のため一九四五年十月に四十一歳で亡くなった。一九八四年に『吉満義彦全集』全五巻が講談社から刊行された時、加藤は第五巻に解説「吉満義彦覚書―『詩と愛と実存』をめぐって」(『加藤周一自選集』第七巻収録)を書いた。そこで加藤は、一九四〇年に刊行された吉満の著書『詩と愛と実存』を刊行当時に読んで、「軍国日本の狂信的な国家主義が頂点に達しようとしていたとき」に「ほとんど救いのようにみえた」と書いている。「いくさの後にも、折にふれて、私は吉満義彦を読み返したことがある」ともいう。  その『詩と愛と実存』のなかで、吉満は「過去一千年余の日本精神文化における仏教のなした意味を聖徳太子や弘法大師、その他鎌倉時代前後の日本精神史上に永久に輝く幾多の偉大な宗教的天才の例についてここに思いあわせてみても」(「マリタン先生への手紙」)と、日本でのキリスト教の可能性とかかわって鎌倉仏教にふれているのである。  超越的世界観の重要性を加藤に実感させた一人である吉満が、鎌倉仏教をこのように評価していたことは、若い加藤の注意を引いたはずだ。  実は鎌倉仏教に注目した日本のキリスト者は吉満義彦が最初ではない。無教会派プロテスタントであった内村鑑三も注目していた。『代表的日本人』で、そこで取り上げた五人(西郷隆盛、二宮尊徳、中江藤樹、日蓮、上杉鷹山)とともに、法然、親鸞をはじめとした鎌倉仏教の宗祖たちによって、日本のキリスト教定着の土壌が準備されてきたと書いている。  加藤は内村鑑三からも示唆を得たかもしれない。いずれにしても、加藤の学識教養の幅広さには驚嘆するしかない。  ●「集団主義」へのシフト  加藤周一の日本文化論の探求が、「超越的な彼岸思想がなかった」という日本の土着世界観の第一の基本特徴の確認から始まったことを見てきた。「戦争と知識人」で加藤周一は「思想上の戦争反対が貫かれなかったのは(中略)天皇・民族・国家をひとまとめにした「日本」を超えるどんな価値概念も真理概念もなかったからだ」と結論して、日本文化における超越的な価値の不在が、侵略戦争になしくずしに協力していった日本の知識人の思想的背景であると書いた。  ところが、四十年後に市民読書会で語った『「戦争と知識人」を読む』(一九九九年)では、驚いたことに、加藤のこの言いぶりはかなり変わっている。  最初に「超越的契機の欠如」という自説を再確認した後、次のように述べる。  「この超越的契機に関しては、その後も大変興味をもったので、この「戦争と知識人」の後にも追求して、いくつかの論文でも分析しましたし、また、いまでも関心を持っています。それは日本の集団主義と個人の関係のなかで、超越的契機がどう機能するかということです」。以下、大は日本から、小は家族、会社などの「集団」と「思想」の関係を中心に話がすすむ。  「個人が集団にくみこまれればくみこまれるほど、自分の思想にもとづいて行動することは困難になる。(中略)「思想」が弱いということと、集団へのくみこまれは関連していると思う」  「私はこの日本の個人の集団へのくみこまれを、日本の社会的特徴とみて、「集団主義」ということばを軸に、のちに論じました。たとえば『日本文化のかくれた形』(木下順二、丸山眞男、武田清子との共著、岩波書店、八四年)などがそれです。そこでは、強調点が「集団」のくみこまれに移行していますが、しかし、思想的なレヴェルからみれば、集団からの超越的契機が弱いということで、同じ現象を別の面からみたということです」  以上の発言では「超越的価値の不在」から「集団主義」へ強調点が変わっている。「超越的契機が弱い」ことと「集団へのくみこまれ」は、同じ現象の裏表だというのである。  ここであげられた『日本文化のかくれた形』で、加藤は日本文化の基本特徴として、「競争的な集団主義」「現世主義」「現在主義」の三つをあげている。第一に「集団主義」をあげ、つづいて超越的な彼岸思想がないことを「現世主義」としてあげている。  このように最初の「超越的な彼岸思想の不在」は「現世主義」という表現で整理され、この思想問題と裏表の関係として「集団主義」を強調したところに、加藤周一の日本文化論の第二段階があったと思われる。  ここで加藤自身の言葉をみよう。日本の文化構造への関心の変遷を、最晩年の著書『日本文化における時間と空間』(岩波書店、二〇〇七年)の「あとがき」で次のように書いている。    一九五〇年代前半に、私はパリで暮らしていた。そして西欧の文化の基礎的な部分が日本のそれとは対称的に異なるのを感じ、帰国してから日本の近代文化の生々しい「雑種性」を指摘するとともに、その積極的な意味を強調した。  一九六〇年代にはカナダの大学に職を得て、日本文学史を講じ、文学をとおして、日本精神史(または思想史)の本質的な特徴を見きわめようとした。その私なりの成果が『日本文学史序説』(筑摩書房)である。外来思想と土着思想を二つのベクトルと考え、外来思想の「日本化」をベクトル合成の結果とする。土着思想の基本には「此岸性」と「集団指向性」を考えた。  一九七〇―八〇年代にはしきりに職場を変えて、私は日本・中国・メキシコと北米および西欧各地に放浪した。放浪にはある程度の生活の不安定を伴ったが、愉しみはそれよりもはるかに大きかった。その愉しみの一つが、文化的環境がちがえば異なる時間や空間の概念を経験し、観察することができるということである。(中略)私は、早く/遅く進む時間、一直線的に一方向へ向う有限/無限の時間、循環するまたは循環しない時間の、どの時間概念が日本文化を特徴づけているか、どういう時間の意識が日本的文化環境の中に生きているのか、次第に強い興味をもつようになった。    ちなみに此岸(しがん)とは、彼岸の対義語で、現世のことである。  加藤はここで七〇―八〇年代に文化による時間の違いに興味をもったという。これが「現在主義」という日本文化の三つ目の基本特徴の定式化に向かうことになる(後述)。  加藤が六〇年代に深めたという「集団主義」について代表的な論考は、なにより大著『日本文学史序説』(一九七三年―八〇年)の冒頭「日本文学の特徴について」である。  そこで日本文学の「社会的背景」として、第一に都市、みやこを中心とする「求心的傾向」、第二に、「文学的階層が時代と共に変ってきた」(貴族・僧侶から武家、町人、都市中産階級へ)こと、そして「最後に日本文学史のもう一つの社会学的特徴は、作家がその属する集団によく組みこまれていたということであり、その集団が外部に対して閉鎖的な傾向をもっていたということである」と指摘している。  つづいて「世界観的背景」として、仏教渡来以前の日本の土着的世界観として「非超越的な世界観」を強調している。「日本人の世界観の歴史的な変遷は、多くの外来思想の浸透によってよりも、むしろ土着の世界観の執拗な持続と、そのために繰り返された外来の体系の「日本化」によって特徴づけられる」と総括している。  ちなみに「芸術家と社会」(『潮』一九六五年八月号初出)という文章もあるが、これは日本の平安から現代までの各時代のなかで、芸術家が社会によく組み込まれた時代と、疎外された時代とを腑分けして論じたもので、日本で芸術家の社会へのくみこまれが強かったかどうかはふれていない。日本の歴史で芸術家がよく社会に組み込まれた典型は藤原時代と徳川時代、疎外された典型は鎌倉時代と明治以降の現代としている。  とくに鎌倉時代について次の指摘に注目したい。*(  )内は北村注   鎌倉時代は、芸術家が社会から疎外された時代である。その結果生みだされたのが、歴史的意識(慈円『愚管抄』)と芸術的伝統の自覚、芸術のための芸術という考え(藤原定家)、芸術家の退居隠棲の理想(『方丈記』など)、新興の仏教とむすびついた超越的芸術(『地獄草紙』『病草紙』など)である。そのどれ一つをとってみても、十二世紀中葉までの平安時代には全くみとめることができない。(中略)鋭く超越的な性格をもってあらわれた新興の鎌倉仏教は、禅宗も含めて、その後世俗化の一途をたどり、あらわれようとした超越的芸術は、その後永久に消え去って、二度と日本の歴史のなかには甦らない。  ●遅咲きの「現在主義」説  『日本文学史序説』の冒頭で、「集団主義」と「非超越的な世界観」が日本文学史を貫く特徴と指摘しているのは見た。しかし、この「日本文学の特徴について」では「現在主義」については何も触れていない。加藤は八〇年代以降の日本文化論では「集団主義」「現世主義」「現在主義」を三つの基本特徴として繰り返し挙げているのに、七〇年代の『日本文学史序説』では、日本文学の基本的特徴として「現在主義」はあげていないのである。  ここで、加藤周一のいう「現在主義」とはどのようなものか見ておこう。百科事典項目として書いた「日本」(一九八五年六月初出)では「現世主義は、また現在主義である。現世すなわち日常的現実は、現に目の前にあるものの世界である。過去はもはやなく、未来はまだない。(中略)時間の流れのなかで、真に現実的であり、真に重要なのは現在だ」と書いている。  日本の現在主義のあらわれとして、加藤は次のような例を挙げる。  連歌で附句の前後だけを取り出し、それ以前の句もそれ以後の句も全く関係ないというあり方、「過去は水に流す」「明日は明日の風が吹く」という態度、全体の構造を重視せず、部分や場面の感覚的洗練を追求する邦楽、歌舞伎など。そして「現在主義の実際的な一面は、個人的な水準での「その日暮し」の楽天主義ばかりでなく、外交政策の特徴さえも、少くともある程度まで説明するのである」。  さらに晩年の『日本文化における時間と空間』では、時間の「現在中心主義」と、空間と共同体の「共同体集団主義」を合わせて「「今=ここ」文化」と表現している。  さきに引用した同書の「あとがき」にあったように、加藤が「どういう時間の意識が日本的文化環境の中に生きているのか」に興味をもつようになったのは七〇―八〇年代だという。『日本文学史序説』は七三年から『朝日ジャーナル』で連載が始まったが、準備は主に六〇年代だった。したがって、ここではまだ「現在主義」という考えははっきり打ち出されなかったのだと思われる。  六〇年代には加藤周一がまだ「現在主義」という認識に至っていなかったことを示す文献は他にもある。「日本の美学」(『世界』一九六七年十一月号初出)である。この評論では日本の美の典型の一つとして、「源氏物語絵巻」を論じている。のちに『日本文化のかくれた形』で、「現在主義」を語ったときに、「このような時間の概念をよく反映している」ものとしてあげたのが絵巻物である。しかし、「日本の美学」で「源氏物語絵巻」(と「信貴山縁起」にも少し)ふれたときに、その「現在」と「ここ」を切り取るという、「今=ここ」文化を代表する絵巻の特徴については何も触れていない。ただ「源氏物語絵巻」の部分の描写と空間処理の見事さをあげて、「細密画と抽象絵画を結び合せて『源氏物語絵巻』ほどの統一と調和に達した例は、恐らく中国にも少い。ヨーロッパの美術史にもほとんどなかろう」と評価しているだけである。    ●「現在主義」のきざし  一方、六〇年代に加藤の関心が日本文化の「時間」に近づいた瞬間もあった。それはくしくも同じ絵巻を論じた「『源氏物語絵巻』について」(東京新聞一九六五年一月四−五日初出)の最後である。絵巻ではなく、「源氏物語」について語ったところで、「過去が現在に重なり、現在が未来を含む「時間」の流れそのもの」こそ、「源氏物語」を古今にまれな傑作にしていると書いている。  その「源氏物語絵巻」の空間と『源氏物語』の時間は日本文化の「此岸性と日常性」にかかわっていると次のように書いた。    されば一方には『源氏物語』の「時間」があり、他方には『源氏物語絵巻』の「空間」があった、ということができる。その一方の時間は、終末論を含まない具体的で現実的なこの世の時間である。物語は永遠を考えなかったから、時の流れに敏感であることができた。  他方の空間は、合理主義的な均斉を含まない感覚的で微妙な日常的世界の空間である。『絵巻』は左右相称や黄金分割を無視したから、空間の構造に無限に敏感になることができた。  このような時間と空間の性質は、おそらく藤原時代の宮廷文化の徹底した此岸性と日常性において、またそれゆえにこそかぎりなく洗煉された感覚的世界において、共通の背景を見出すのである。おそらくそこで、またそこでだけ、『源氏物語』と『源氏物語絵巻』とは、その文学としてまた芸術としてのそれぞれの中核において、相応じるといえるのではなかろうか。  私はそこに日本の文化の故郷を感じる。その世界の構造は、基本的には変らぬままで今日にもつづいている。今でも日本の芸術が微妙なものにちかづくときには、このような時間の質、または空間の質があらわれるように思われる。  われわれはおそらくそれを変える必要もないし、またたとえ望んでも、おそらくそれを変えることは容易にできないのであろう。    「今」を重視する「現在主義」の認識の一歩手前まできているが、まだはっきりとした形をなすに至っていないと思う。  この文章よりも前、加藤が最も早く「現在中心主義」の態度を指摘したのは茶道についてである。「茶の美学」(『茶道全集第一巻』角川書店、一九六三年初出)で、茶道の「感覚の歓びを否定しようとする態度」に続いて、「茶道の第二の原理は、現在の瞬間にいっさいを投じて生きようとする態度である。これもまた一般に日本人の生活と芸術に対する一貫した態度だということができる」と書いている。  この時点では、「自然に対する態度」など日本文化のいくつかの特徴の一つとしてあげている。まだ主要な基本特徴とはとらえていないようだ。  さらに進んで、『日本文学史序説』では、室町時代の連歌を語るくだりで、「今・此処」の世界観を指摘している。「「古代歌謡」以来の日本の土着世界観にとって、究極の、唯一の現実であった日常生活の「今・此処」。和歌から発した連歌は、その世界観を直接に反映していたから、忽ち大衆のなかに浸透して、未曽有の流行を生んだのである」と。  『日本文学史序説』は最初「朝日ジャーナル」に連載されたもので、この連歌の記述を含む第五章「能と狂言の時代」は一九七三年十月―十一月の掲載だった。ここでは六〇年代の文章から一歩進んで、「今・此処」の重視を「世界観」と表現している。加藤の認識の発展がみられる。この章の初出は、次に見る「丸山眞男の「歴史意識における「古層」」が発表された一年後であり、この丸山眞男の論文が影響していると思うのである。     ●丸山眞男「古層」論の影響  加藤周一が「現在主義」という時間意識の問題を日本文化の特徴としてはっきりと認識したのはいつか。それは丸山眞男の論文「歴史意識における「古層」」(『日本の思想6 歴史思想集』筑摩書房、一九七二年十一月初出)を読んだときではないかというのが、現在の私の考えである。  丸山眞男は、日本人の歴史意識(発想と記述様式)には、古代から持続する「執拗な持続低音」(basso ostinato)があるのではないかという問題意識から出発して、『古事記』の冒頭の神話を分析した。そこから「なる」「つぎ」「いきほひ」という三つの言葉を、「原基的な範疇」として抽出し、一つのフレーズにまとめて「つぎつぎになりゆくいきほひ」とした。  「儒・仏・老荘など大陸渡来の諸観念」や「西欧世界からの輸入思想」が主旋律として前面に流れながらも、意識的に「つくる」よりも、おのずからの勢いとして次々に「なる」、変わっていく、生まれていくという日本の歴史意識の「古層」が持続低音として流れ、「旋律全体のひびきを「日本的」に変容させてしまう」と考えた。(こうした外来思想と日本の土着思想の総合、外来思想の「日本化」についての構図は、加藤周一の日本文化論ときわめて近い)  丸山は、日本の歴史意識の古層に流れる「おのづからなりゆくいきほひ」というオプティミズムは、過去に理想を求める復古主義となじみにくいという。また、進歩史観も「ある未来の理想社会を目標」とした「いわば世俗化された摂理史観」であって、どこまでも「究極目標などというものはない」日本の歴史意識の「古層」とは摩擦を起こすという。  そして丸山は「こうして古層における歴史像の中核をなすのは過去でも未来でもなくて、「いま」にほかならない。われわれの歴史的オプティミズムは「いま」の尊重とワン・セットになっている」と、明確な「いま」の肯定、「いまここなる」現実の重視という意識を結果すると説いている。  丸山眞男の「古層」論は当時も注目されたし、現在も賛成・反対・中立的の様々なニュアンスからとりあげられる。加藤が、日本の「現世主義」や「現在主義」について繰り返し語ったのとちがって、丸山はこの一つの論文での論証だけで、それ以上の検討も展開もしていないのは、論文の極端に少ない(講演や座談は非常に多いのに比べて)丸山らしい。  さて丸山眞男の「歴史意識の「古層」」に対する加藤周一の反応だが、この論文の初出である『日本の思想6 歴史思想集』の付録で、加藤は丸山と「古層」をめぐって対談している。日本思想史の初源に、外来思想に覆いつくされない日本の土着思想を想定する同志として、大変興味深い対談である。  加藤はまず丸山が「歴史意識」に限っている「持続低音」について、「ぼくは非常にうまい比喩だと思う。日本文化史のすべての面について、そう言えるのじゃないかと思う」と、日本文化論全体に広げうるとみなしている。そして加藤は、「つくる」のでなく「なる」という歴史意識が「時間的には「いま」のせかいになるし、空間的には「ここ」の世界、日常的現実の世界になるわけですね」と、「いまここ」中心の日本文化の特徴を指摘している。絵巻物についても「「いま」と「ここ」という立場からいって、全体との関連からはなれても、細かいところへどんどん入っていくんですね」と、『源氏物語絵巻』にふれている。さきにみた六〇年代の「絵巻物」論から、八〇年代以降の「いまここ」的観点も含んだ「絵巻物」論への最初の踏み込みである。  この対談は、「歴史主義」の問題や「個人と社会」の問題など多くの問題を語り合っていて興味深いが、いまは「いまここ」に限ってみてみた。  「いまここ」重視という意識が、単に連歌や茶だけのものではなく、日本文化の基本特徴ととらえるようになったのは、丸山眞男の影響があったことは間違いないだろう。戦後日本を代表する二人の知識人の仕事が奇しくも重なりあった瞬間であった。  日本文化における時間については、加藤周一がその後、「現在主義」として日本文化の三つの基本特徴の一つとして繰り返し強調したことは前に見た通りである。また、日本文化における時間と空間については晩年の力を傾け、講演「日本文化の時間と空間について」(一九九六年、『加藤周一講演集U』)、『日本文化における時間と空間』(二〇〇七年)をまとめた。  以上が、現在考えるところの、加藤周一における日本文化論の形成と発展である。 8