加藤周一論ノート(3) 西洋見物と雑種文化論   北村隆志  1、西ヨーロッパで五つの体験  一九五一年一〇月、加藤周一はフランス留学に旅立った。こう書いて、ふと、留学なのに「旅立った」でいいのかと迷ったが、加藤自身が、この時のヨーロッパの見聞集を『ある旅行者の思想』と名づけているので、案外ぴったりかもしれない。  加藤周一は当時、東大医学部で血液学を研究していた(立場は助手の手前の副手だったと思われる)。医学研究のためアメリカに留学する選択肢もあったようだ。加藤周一の蔵書・遺稿の整理をすすめている鷲巣力によれば、「加藤が遺した記録にも、アメリカ留学の可能性がかなり高かったことが記されている」(『加藤周一を読む』岩波書店、二〇一一年、五八頁)という。  しかし加藤にとって、アメリカの医学より、戦争中に東大仏文研究室に入り浸って以来のフランス文学への関心の方が強かった。加藤自身書いている。「私がみずからもとめたのは、医学研究のことを離れても、その国の本を読みつづけてきたフランスへ行き、しばらくそこで暮すことができる機会であった」(『続羊の歌』岩波新書、一九六八年、四三頁)。  はたして機会はめぐってきた。一九五〇年の戦後第一回のフランス政府給費留学生(ブルシェ)は推薦により、加藤より八歳年上の、東大仏文科の森有正助教授が選ばれた。(森はその後帰国せず、二六年間フランスに暮らして客死した。)一九五一年の戦後二回目のブルシェは公募になり、加藤にとってもチャンスだった。加藤は受験し、給費生には落ちたが「半給費生」に受かった。  この第二回目のブルシェ試験で合格したのは、加藤の友人で東大仏文出身の三宅徳嘉都立大助教授だった。辰野隆が「渡辺(一夫)とか、森とか、三宅とかね、これはみんな仏文はじまって以来の秀才だ」と評した伝説的存在である。加藤も「(仏文の)教室の後の方に坐って、三宅徳嘉のように段ちがいに学力のある学生と渡辺先生との問答を傍聴することにしていた」〈( )内は北村注。以下、特記しない限り同じ〉と戦争中の思い出を『羊の歌』(岩波新書、一九六八年、一七九頁)に書いている。  中村真一郎や福永武彦も受験したが、文学部門で合格したのは三宅のみだった。秀才で知られた加藤でさえ半給費生にしか受からないのだから、いかに熾烈な競争だったか分かる。    「半給費生」というのは、往復と生活の費用をみずから弁じれば、フランス政府が、学費を免除し、滞在許可その他の便宜をはかるというものである。その頃の日本政府には旅券を発行する権限さえもなく、一般の市民にとっては、たとえ費用をみずから負担しても、国外へ出ることが、不可能にちかいほど困難であったから、「半給費生」の資格は、その困難を除くという点で、大きな意味をもっていた。私にとっての問題は、必要な金をつくることができるかどうかということであった。私は昼夜兼行で翻訳をして旅費をつくり、行先から地方新聞に通信を送ってその稿料を生活費にあてることにした。  (『続羊の歌』四三−四四頁)     地方新聞というのは西日本新聞のことである。加藤は留学前の一九五一年二月から九月までにも、同紙夕刊に匿名コラム「ウの目タカの目」を月に四−一〇回と不定期に寄稿している。これが渡航費をつくるうえで役立ったと思われる。もちろん留学中も頻繁に寄稿している。西日本新聞が加藤周一とどういう縁があったのかわからないが、加藤のフランス留学を経済面から援助したということは、西日本新聞の戦後文化への大きな貢献であろう。  また、この時翻訳した一つが、サルトル『文学とは何か』(人文書院)である。白井健三郎との共訳である。ただ、終戦直後の半鎖国状態のなか、十分な辞書も翻訳経験もなく、誤訳が多かったらしい。加藤より一回り若いフランス文学者の海老坂武は、学生時代にこの翻訳を読んで、「誤訳、ないしは誤訳とおぼしき箇所は、ほとんど全頁にわたって発見することができた」「この本の訳のひどさに気がついたのは私一人ではなく、同学の友人たちとの会話の中でよく話題になった」と書いている(『戦後思想の摸索』みすず書房、一九八一年、八五−八六頁)。ちなみに同書は、その後二度改訳され、とくに最後は海老坂自身も翻訳に加わり、いまはずっと改善された。  苦心して滞在費をつくった加藤周一にとって、留学生活は決してゆとりのあるものではなかった。当時、パリで加藤と知り合ったフランス文学者の朝吹登水子は、「私たち外国在住日本人の数は少く、一様に貧しかった」として、加藤が「靴下のつくろいがうまくできない」と言って、靴下に穴が開くたびに、残った部分をつまんで繕うので、だんだん靴下が短くなるとこぼしていたと書いている。(『著作集』第一〇巻月報)  また、作家の大岡昇平は、一九五四年にパリで初めて加藤周一と会い、「サン・ミシェルを少し下ったところのレストランのアルザスのキャベツ煮料理(あまり高くない)を教えてもらった」「知識人は貧乏でなければならない――これが加藤さんから学んだ第一の教訓である」と書いている。(同第一巻月報)  なにはともあれ、こうして加藤周一は医学研究の留学生としてパリに暮らすようになった。その時、三二歳。パリ大学医学部、パストゥール研究所、キュリー研究所と所属を移りながら、血液学を研究した。そのかたわら、パリの劇場やフランス各地の美術館や教会建築に熱心に足を運び、さらにはスイス、イタリア、ベルギー、オランダ、ドイツ、イギリス、オーストリアなど西ヨーロッパ各国も訪ねて回った。  加藤は三年半のヨーロッパ生活を「留学」と呼ばず、「西洋見物」と呼ぶ。医学研究は東京でもフランスでもそれほど変わりはなく、相違はヨーロッパの生活と文化にじかに触れた体験にあったからだろう。そして「これが私の生涯における第二の出発になった」と『続羊の歌』で書いている(四五頁)。八月一五日を区切りにした戦後社会に向けた第一の出発につづく、新たな「出発(たびだち)」である  第二の出発となった西洋体験は、加藤周一をどう変えたのか。あるいは、西洋は加藤周一を変えるどういう新しい体験をもたらしたのか。大きく五つに整理できる。  西洋体験の第一はフランス語で生活し議論したことである。第二はフランス中世美術を発見したことである。これらは本物のヨーロッパ文化に触れた体験の、加藤にとってのエッセンスであった。加藤自身は「(当時の東京とパリで)根本的なちがいがあるとすれば、どこにあるかと考え、その一つは、言葉であり、もう一つは、つまるところ中世にさかのぼる歴史であろうという結論にゆき着いた」(『続羊の歌』八〇頁)と述べている。  第三は、魅力的な女性たちとの出会いである。「妹の力」が加藤周一のインスピレーションの大きな源であった。  第四は外から見ることによって見えてきた日本の発見である。加藤の仕事はフランス文学から離れ、「雑種文化論」にはじまる文化論・文明論にシフトしていくことになる。  第五は、旅行者あるい観察者としての自己の発見である。  この五つについて順番に見ていこう。 2、加藤流イマージョン語学習得法  まず、第一のフランス語生活の意味から始めよう。  加藤が西洋で造形美術――とくに精神と「形」の関係――に開眼したことは多くの論者が触れている。  たとえば、海老坂武は「『羊の歌』に関するかぎり、氏の西欧体験の核心にあるのは――と読者である私が勝手に言いきってしまうなら――芸術とは、さらには文化とは、内なるもの(衝動と言ってもよいし精神と言っても、加藤氏の場合にはよかろう)を形に刻み出すことであり、これを感覚的秩序として構築することである、という発見につきる」(『戦後思想の模索』九二頁)と書いている。鷲巣力も「シャルトル、ランス、アミアン、ルーアンの大聖堂を訪れて「中世美術を発見」したことは加藤にとってきわめて大きな意味をもった。留学中の「最大の発見」といって間違いないだろう」(『加藤周一を読む』七〇頁)と評している。  ところが、初めて日本語の生活を離れて、会話も読み書きもすべてをフランス語で生活したということの意味はなぜか閑却されがちである。  しかし、加藤自身は『続羊の歌』で繰り返しフランスでの言語体験の重さを語っているのである。     (フランス行きの)旅客機のなかで、私はすでに、もしすべての考えを外国語で表現するほかはないとすれば、そのことは私の考えの内容にも影響をあたえずにはいないだろう、と感じはじめていた。日本語の考えを、必要に応じて訳しながら、暮すこともできる。しかしそれでは周囲の世界を内側から理解することにはならぬだろう。私がみずからそのなかに身をおいた世界は、それを解釈することが同時に私自身を変えることを意味し、私自身を変えずにその世界を解釈することはできないだろうという点で、そのときまで私の暮して来た世界と、根本的にちがうものである。(『続羊の歌』四六頁)    留学前の加藤は、マルクスのテーゼ「哲学者たちは、世界をいろいろに解釈してきただけである。しかし、たいせつなことは、それを変えることである」が好きで、評論によく援用していた。後年書いた『続羊の歌』のこの場面では、“解釈ではなく変革”という通常の形ではなく、“解釈=変革” となっている。もっと言えば、“他者を解釈することが即自己変革”という、マルクスの元のテーゼとは異質の命題になっている。  私は昔、大学の卒業論文を書くとき、教授に「論文を書いて、自分が変わらなければだめなんだ」と言われた。残念ながら私の粗雑な卒論はとても自分が変わるどころの騒ぎではなかったが、加藤周一の西洋体験=西洋理解は、この教授の言葉に通じると思う。  加藤はフランス語体験について他にも次のように語っている。    そのときまで日本語の命題から成りたっていた私の世界を、フランス語の命題でおき代えてみることに、異常な興味を抱いていた。(同六一頁)    日常生活の上でほとんど言葉の不自由を感じないようになった後、私はその言葉と日本語との相違を、いよいよ鋭く意識するようになった。その相違は根本的なもので、その言葉を話しながら暮すということは、日本語の世界とは微妙に異る別の精神的秩序のなかへ、次第に深入りしてゆくことを、意味するほかないように思われた。その深入りの可能性は、しばしば私を戦慄させた。(同八〇頁)    語学教育の一つに、イマージョン(没入)教育とよばれる方法がある。外国語を身に着けるため、すべての学科をその言語で行う方法である。加藤周一が「戦慄」すらしたフランス語の体験とは、徹底したイマージョン教育だったといえる。読むだけであれば、日本でも相当習熟していただろうが、毎日自分の考えをフランス語で表現し続けたことの意味は大きかった。“私はフランス語ができたから議論したのではなく、議論したからフランス語ができるようになったのだ”ということを加藤は書いている。あらゆる情報・概念のインプット、頭のなかでの処理、議論・会話のアウトプットをすべてフランス語で行うことは、自分の内面をすべて分解して再び組み立て直すような、生まれ変わった思いがしたのではないだろうか。  ここで私は鶴見俊輔のアメリカ留学体験を思い起こさずにはいられない。  鶴見俊輔は素行不良で中学校を中退し、一六歳でアメリカのマサチューセッツ州の寄宿高校に留学した。最初、教師の授業はもちろん、生徒の言うこともほとんどわからなかったそうだ。一日五〇個の英単語を覚えるノルマを課して、「生涯であれほど勉強したことはない」というほど猛勉強をした。数ヵ月後、高熱が出て寝込んだが、熱が下がって十日ぶりに学校に出ると、突然周囲の言うことがすべてわかるようになっていたそうだ。  このような劇的な語学習得は、少年期には時々あることだと鶴見自身は言っているが、その後、留学九ヶ月でハーヴァード大学の入学試験に(もちろん英語で)合格したのだから、信じられない飛躍である。  私は、二〇一一年の正月にアメリカ東部を旅行して、鶴見俊輔が留学した高校に行ったことがある。ボストン郊外コンコードにある、ミドルセックス校という全寮制の高校である。美しい木立の中に、赤レンガ造りの瀟洒な建物がゆったりと並ぶ、非常に気持ちのいい学校だった。雪景色のなか、キャンパス中心部の広場の周囲には大きなブナやナラの木があって、葉の落ちた枝を青空に伸ばしていた。鶴見俊輔は、留学して学校に着いた日が嵐で、翌朝起きると、大きな木が倒れて校庭がめちゃくちゃだったと語っている。後片付けのため学生総出で、一週間授業がなかったそうだ。私の見た木々は、その後に大きく育ったものだろうか。  鶴見俊輔のころは男子校だったが、今は男女共学である。冬休み中で生徒はほとんど帰省していたが、事務の人がいて構内を案内してもらった。日本の著名な哲学者が三〇年代に在学していたことを話したら、卒業者名簿を出してくれた。めくってみると、一九三九年卒業生のなかに確かに「Shunsuke Tsurumi」とあった。  一九四一年に日米戦争が始まるまで、鶴見俊輔はハーヴァード大で哲学を勉強し続けて、ものを考える内面の言語がすっかり英語に変わってしまった。一九四二年六月に捕虜交換船で帰国し、戦争中、海軍軍属としてバタビアで勤務していた。その時は、自分がいわば敵性語でできた人間であることが、いつかばれるのではないかというストレスで、始終両手をズボンにこすりつけるチック症状に悩まされた。戦後、文筆活動を始めた当初も、日本語の文章が不得手で大変苦労した。鶴見から悩みを聞いた桑原武夫が、志賀直哉に相談したら、今のままやっていった方がすぐれた日本語の書き手になれるから心配するなと励まされたそうだ。  加藤周一は『日本文学史序説』で「北アメリカの直接の、そしておそらくもっとも深い影響は、鶴見俊輔にみることができる」とし、その文体についても「鶴見の文章は、明らかに現代日本語の散文への貢献である」と評価した。鶴見俊輔がニューディール期の最も進歩的な時代のアメリカから、深い影響を受けた理由の一つに、英語が内面深くに根を下ろしたことがあったのである。  鶴見俊輔のケースが、加藤周一にも当てはまるのではないかと思う。加藤の特徴である、合理的で明晰な、そのまま翻訳して欧米人にも理解しやすいといわれる文章には、自分の考えをフランス語で表現して暮らしたことの影響があっただろう。  フランスはじめ海外に留学する人はごまんといる。しかし、留学中の外国語のイマージョン体験を自分を作り変えるように生かした人は、加藤周一や鶴見俊輔のほかごく少数にとどまるだろう。    3、複数言語で考える日本文化    加藤周一のフランス語体験の影響はただなんとなくというあいまいなものではない。影響が非常に意識的だったことは、『日本文学史序説』でとりあげた古典について、加藤周一は英語やドイツ語で翻訳・注釈をつくっていたことからもわかる。鷲巣力によれば、遺稿のなかにそれらを記したルーズリーフ型ノートが六〇〇ファイル以上ある。主にカナダのブリティッシュコロンビア大学の客員教授時代(一九六〇年―六九年)に英語でつくったもので、一部はベルリン自由大学で教えた時代(六九年―七三年)にドイツ語で書かれた。  日本語、漢文を、日本語で、あるいは漢文の読み下し文、あるいは漢文そのまま読むときと、それを西洋語に翻訳して読むときでは、どのように理解するか、何を連想するかは、おそらく異なる。西洋語に翻訳することで、読みの視野は広くなり、漢文をそのまま読んでいただけでは発見できない事柄を発見しただろう。このような作業を行ったがゆえに、加藤の日本文学史研究や日本美術史研究は世界的視野をもった、と私は確信する。(鷲巣力『「加藤周一」という生き方』筑摩書房、二〇一二年、四一頁)  こうした外国語を通して日本文学を考える原点が、フランス留学時代の体験だったろう。  ちなみに池澤夏樹は、加藤の遺稿ノートが明らかになる前に、「加藤周一は、日本文学・日本文化を論じるのに、常にどこかで日本語以外の言語でも考えていた。(略)これはぼくの推測ですが、たぶん間違っていない。それによって、日本文化を普遍的な尺度をもって測ろうとした」と指摘していた。(「雑種文化と国際性」『知の巨匠』岩波書店、二〇一一年、一二一―一二二頁)  外国語に習熟すること、特に、その言語で自分の考えを表現して一定期間を暮らすことを加藤はその後重視した。一九六〇年から一〇年間、カナダのブリティッシュコロンビア大にいった理由も同様だった。カナダに行った理由を加藤は、向こうから招かれた偶然もあるが、「英語を自由に使えるように」したいことと米国を見て理解したいという自分の希望から出た計画性もあり、半々だと言っている。(『過客問答』かもがわ出版、二〇〇一年、九一―九三頁)  もちろんカナダに行く前から、英語は人並み以上にできていた。現に一九五八年のタシケントでのアジア・アフリカ作家会議準備委員会での加藤周一の活躍ぶりを「ミスター・カトーは前の人とは英語で、右側の人とはフランス語で、左側の人とはドイツ語で議論するとモスクワ娘が目をまるくしていましたよ」と堀田善衛が証言しているそうだ(『著作集』第七巻月報、海老原光義)。しかし、それくらいでは加藤にとって「英語を自由に使える」とはいえず、英語圏で実際に暮らすことが必要だったのだと思う。  また、ブリティッシュコロンビア大やベルリン自由大では日本文学・日本文化を教えた。それは日本の文化と文学を西洋人にも理解できるように、どのように西洋語で表現するかを実地に試す絶好の機会でもあった。加藤周一の計画とそれらの大学からの招待が完全に合致していたことは言うまでもない。  ちなみに西洋語との相互交通の難易度という点で、加藤周一と対照的なのは吉本隆明である。  例えばジュネーヴ大学の日本研究者グループ(ジュネーヴ・グループ)による、日本の戦後知識人の論文集の仏訳プロジェクトが進行している。このグループと交流のあるフランス思想研究者の三浦信孝は、加藤周一が丸山眞男を評した「普遍的な言語で語り、概念の正確さと論理の明晰さゆえにその思考が国際的な知的社会で何の違和感もなく理解される」(加藤「精神の往復運動」)という言葉を引きながら、「これは今回のジュネーヴ・グループの翻訳論文集から吉本隆明が落とされた理由である」と紹介している(三浦信孝編『戦後思想の光と影』風行社、二〇一六年、一三八頁注記)。  つまり吉本隆明は、丸山眞男とは反対に、「普遍的な言語で」語っておらず、その思考が「国際的な知的社会で何の違和感もなく理解され」にくいために、収録されなかったということである。  収められるのは加藤周一「日本文化の雑種性」、鶴見俊輔「知識人の戦争責任」、橋川文三「日本浪漫派批判序説」、竹内好「アジア主義」である。これらは、戦後日本の代表的論考であることに加え、長さも適当だという技術的理由もあった。丸山眞男は「超国家主義の論理と心理」がすでに仏訳も英訳もあるためにはずされた。  吉本隆明について加藤周一は「『言語にとって美とはなにか』という題名を外国語に訳すとどうなるのか、と疑問を呈したことがある」と、フランス文学者の鈴木道彦が書いている(『著作集』第二巻月報)。  なるほど、英語に直訳すればWhat is the beauty for a language となるだろうが、これでは意味が通じないということだ。Where is the beauty in a languageとしたら、もう少しわかるかもしれないし、あるいは How can we find beauty in words という意味かもしれない。本当のところは私には判断できない。  それはさておき、鈴木道彦は「この疑問はたいそう面白かった。それは要するに加藤さんにとって、何語であれ一つの思想が形成されれば、それは複数の言語に翻訳可能でなければらならず、つまりは普遍的なものとなるべきであることを、示しているからだ。そこから加藤さんの論理の透明な美しさが生れるのだと私は思う」と書いている。  最後に、加藤周一にとってもう一つきわめて重要な外国語を補足しておかなければならない。それは中国語である。といっても現代の北京語ではない、古典中国語、つまり漢文である。漢文由来の対句的表現は加藤の文体の特徴の一つであるように、加藤は漢文をいかして自分の文体をつくっていた。これは鶴見俊輔が日常語をいかして自分の文体をつくったことと、よい対照をなしている。  中国文学者の一海知義によれば、加藤周一は次のように語っていた。  「一日に一度は漢文の古典に関する本か、古典そのものを、少しでもいいから何ページか読むことを日課にしています」「これは漢文の勉強というよりも、日本語の水準を落とさないために必要だと思いますよ。日本語のある緊張したリズムを維持するために」「何カ月も読まずにいると、日本語の力が落ちるのです」(朝日新聞二〇〇九年二月一九日付。『冥誕』かもがわ出版、二〇〇九年)  また加藤は『孟子』より『論語』を好んだ。「『論語』には、時々、超人間的なひらめきがある。その魅力は、『孟子』にはないな」と言っていたそうだ(同前)。  古臭い封建道徳のかたまりと思っていた『論語』を、あの加藤周一が高く評価していたとは意外だった。さっそく私も岩波文庫の『論語』を買ってきて読み始めたが、最初の方で挫折してしまい、いまだに読み通せていない。   4、「形と精神」の発見  加藤周一を変えた西洋体験の二番目、造形美術の発見について見てみよう。  加藤は一九五〇年代のフランス、特にパリに暮らして、東京と何もかも違うと感じたわけではない。西洋に「身も心も捧げつくした崇拝者」も「西洋にかかわる一切のものをきらう国粋主義者」もすでに過去の存在であり、両者に「共通のコムプレックス」は時代が壊してしまったという。  なぜなら時代は日本と西洋とを近づけたからである。フランスはもう遠くはない。その距離は心理的には東京とたとえば青森、たとえば香港との距離に等しい。  もはや西洋は経済的条件さえ許せば気軽に往復のできるところで、風俗習慣のほとんどちがわぬところである。日本のどこでもではないが、少くとも大都会の一部分では生活様式がほとんど西洋化されているといえよう。(「パリの日本人」『ある旅行者の思想』角川書店、一九五五年、二〇六頁)  これは加藤の留学から半世紀以上たった現在の日本人の感じ方に近い  しかし、加藤は「何もかも同じだと感じるということだけからはむろん何も出てくるはずがない。(略)ちがうところは歴史であり、文化は歴史的なものだから必然的に文化でもある」(同二〇七頁)と書く。加藤は文化のなかでもまず建築に大きな違いを感じた。    私が東京とパリとの根本的なちがいを感じたのは、病院と研究室の外においてであった。道の両側に並んだ石造の建物は、重く堅固で、あたかもパリの街全体が一個の複雑な彫刻であるかのような印象をあたえた。(中略)  おそらく私はそこに――外在化された、すなわち感覚的対象と化した一個の文化の核心をみていたのだろう、としかいうことができない。その核心は、おそらく一二世紀の頃から確かなつながりを以て今日まで生きのびて来ていたにちがいない。(中略、パリのノートル・ダム大聖堂などの)一二、三世紀の教会建築の私にあたえた印象が、セーヌ両岸の街の印象と無縁ではなかった、という意味である。そのどちらにも、私は、何らかの内的衝動を感覚的秩序のなかに外在化しようとする強い意志の発現を、感じた。それは東京で私が嘗て一度も感じたことのない経験である。(『続羊の歌』五三−五四頁)    ここで加藤が語っているのは、第一に時代を超えた文化の連続性についてであり、第二に造形美術・建築などの「形」は精神の外在化だということであり、第三に(第二の発見と裏表の関係として)、目に見える秩序の背後に「文化の核心」というべき精神があるということだ。  『続羊の歌』では、この発見を様々な表現で書いている。  文化の連続性については、「それは建築だけのことではなかった。やがて私は、フランスの文化の中世以来連続して今日に到っている事情は、日本の文化が鎌倉時代以来連続して今日に及んでいる事情に似ていると考えるようになった」(同八〇頁)とある。  美術と精神の関係は、フランス生活の長い彫刻家の高田博厚の言葉として書く。すなわち高田は「文化とは「形」であり、「形」とは外在化された精神であって、精神は自己を外在化することにより、またそのことのみによって、自己を実現できるものだということ」を繰り返し語っていたと。  フランスの中世建築とはパリのノートル・ダムをはじめ、ランス、シャルトルなどのゴシック様式の教会建築であり、ゴシック建築が体現した精神とはカトリックである。そのことを加藤は「ランスのカテドラル」(『ある旅行者の思想』)で書いている。  カトリシズムは、その時代に、ことばの意味するとおり普遍的なものであった。スコラはしばらくおき、ゴティックの建築は、今もその普遍性の証拠としてのこっている。われわれはそれを眼でみることができる。どこのカテドラルにも同じ構造がある。(中略)そこには、あきらかに一つの抽象的、普遍的な形がある。そういう形を生みだしたのが北フランス、別のことばでいえばパリを中心とするフランスであったということは、フランス文化とその精神を考えるときに、実に暗示的なことだろうと思われる。文化は、他のどこでも、同じような抽象的、普遍的性格をもっていたわけではない。(同一三七-一三八頁)    中世フランスのゴシック建築が現在のセーヌ両岸の街とつながっていると加藤がいうとき、それは中世以来のカトリックの精神が現代のフランス文化の背後にも生きていることを意味する。現に加藤は、建築のみならず、ステンドグラス以来の絵画、聖像以来の彫刻、グレゴリオ聖歌以来の音楽の「そのすべてに浸透していたカトリシスムは、今でも生きている」と書いている。(「名所見物」『戦後のフランス』一九五二年)  カトリシズムがフランス文化の根幹をなしていることを、まさに自らの目と耳で体験したことは、加藤にとって大きな意味をもった。  さらに加藤はイギリスとフランス(ヨーロッパ大陸)の文化の違いに触れて、次のように書いている。  私はヨーロッパ大陸の文化をうごかしてきた原理のいちばん基本的なものの一つは、一種のプラトニズムではないかと思う。それは一口にいうと、イデアの実在を信じるということ、普遍的なものを個別的なものの背後に実在としてみとめるということ、たとえば造型的な世界を日常的世界を超えた現実的なものとして感じるということである。だから、ヴィーンには音楽があり、パリには建築と古典主義の文学とがあったのであろう。(「ロンドンの印象」『ある旅行者の思想』七五−七六頁))    ここでは、イギリスの「経験主義的・帰納的なものの考え方」と対比して、「ヨーロッパ大陸の文化」のプラトニズムを指摘している。  ヨーロッパ大陸の文化の基本原理は、観念(イデア)の実在を信じるプラトニズムにあるというのは、それまでの加藤にはない、一歩踏み込んだ物言いである。神を信じるカトリシズムの奥には、イデア(観念)の実在を信じるプラトニズムがあるということだ。プラトニズムを基本としたヨーロッパ大陸の文化との対比で、帰国後には日本文化を「一種の感覚主義、感覚的・日常的・経験的世界がそのまま現実であり、唯一の存在であって、その世界を超えたどういう種類の存在もみとめないという世界観」(「雑種的日本文化の希望」、『中央公論』一九五五年七月号初出)という現世主義・此岸主義に特徴づけることになる。ということは、イギリス文化は日本文化に近いのかもしれない。詳しくは後述する。    5、関心の中心は精神  プラトニズムやカトリシズムのような超越的世界観こそ、ヨーロッパ大陸(ここではフランス)の文化の核心だとつかんだのは、そもそも加藤周一が個々の作品の印象や、作家の生活よりも、作品の奥にある精神にいっそう興味を持っていたからである。自身もはっきりと「ある文学史家は、作家の作品に執する。ある文藝批評家は作家の生活に執する。私は、作品をつくる精神を分析することに興味を覚える」(「木下杢太郎の方法」一九四九年)と書いていた。  戦後最初期の文学論「リアリズムと小説」(一九四七年)では、バルザックをその観念性のゆえに評価した。バルザックの特徴は「読者に迫るその徹底的な観念性と、一切の感覚的世界を支配する人間の情熱や意志の現実性」にある。ゾラにとっては観察と実験でつかんだ「感覚的世界が現実」であるのに対し、バルザックは「観念が唯一の現実である」。「二〇世紀は、(ゾラの)「ルーゴン・マッカール」からはじめたのではなく、(バルザックの)「人間喜劇」からはじめたのである」と、ゾラの客観描写よりも、バルザックの観念性に軍配を上げた。  そして、「「人間喜劇」のプラトニックな作者が、我々の焼跡の地平線に、その巨大な姿を現すべき時が、遂に来た」「観念イデアは、行為の中で、実体となるであろう。そして、作家にとって、行為とは、小説をつくることの他にはなく、小説をつくるとは、己の可能性を追求することにはじまる他はない」と締めくくっている。言外に、日本にとって最初は観念(理想)でしかない民主主義の実現をめざす行為こそ重要だということを示唆している。  また「リアリズムという言葉を最初に、そして、正確に、用いたのは、中世ヨーロッパの僧侶である」と、スコラ哲学の「実在論(リアリズム)」を評価している。この中世「リアリズム」は、「神」などの観念(イデア)の「実在」を主張し、神は名前だけで実在しないとした「唯名論」と対立した。現実主義あるいは写実主義という意味の近代「リアリズム」とは真逆といえる。加藤周一は中世リアリズムが実在を主張した「観念」「精神」に、現実を変革する人間の意志的行為の可能性を見出していたのである。それはマルクス主義に対する評価にもつながっていた。  また、「漱石に於ける現実」(一九四八年)では、「「明暗」によって、また「明暗」によってのみ、漱石は不朽である」と、漱石の小説の中で唯一『明暗』を高く評価した。その理由は、現実観察や心理分析の的確さではなく、そこに描かれた情念と観念の現実性にある。加藤は「ここで現実的なものは、喧嘩をする人物たちのなかに燃えている虚栄心や憎悪やあらゆる種類の偏執の激しさそのものに、他ならない」という。これは「吝嗇」や「嫉妬」や「慈悲心」の化身が服を着て歩いているような、バルザックの「人間喜劇」の世界と共通であろう。「観念的なものは現実的であり得るし、むしろ観念的なもののみが現実的であり得る」「「明暗」における現実的なものは、作者の観察に負うものではなく、作者の内的体験に負うものである」というところに、漱石の「精神」が『明暗』で初めて現れたという加藤周一の考えが見て取れる。  同時代の戦後文学に対しても、加藤は、現実描写を旨とする私小説や風俗小説よりも、野間宏や椎名麟三のような観念性の高い小説に新しい現実を作り出す可能性を見出していた。  文学作品を読むに際しても、その背後にある思想と精神をつかもうとした加藤周一の姿勢が、西洋見物において建築や造形美術の奥にある精神を「文化の核心」として見出させたのである。  成田龍一も「加藤が思考する作法、すなわち、作品を入り口とし、その印象を分析し、様式=構成を解析することによって、それを創りあげる精神――作者個人のという以上に、集団的な心性に接近するという姿勢が、『ある旅行者の思想』のなかに存分に示されます」(『加藤周一を記憶する』講談社現代新書、二〇一五年、一一五頁)と書いている。  6、ミューズたち    西洋体験の第三は女性たちとの出会いである。  私は加藤のプライバシーを云々するつもりはない。しかし『続羊の歌』に描かれた数々の魅力的な女性たちの姿は、終戦までの『羊の歌』正編にはないものである。また、女性の影響の大きさは、女性が直接書かれていない部分にも多く及んでいる。女性たちとの出会いをヨーロッパ体験の重要部分として取り上げなければ、大事なピースが失われたままになってしまうと思う。フランス留学に取材した小説『運命』(講談社、一九五六年)も、主人公の日本人画家と三人の女性との交際が物語の主軸になっており、その点からも、「西洋見物」中の女性の存在の大きさがうかがわれる。  そもそも『羊の歌』はなぜ「歌」なのか。鷲巣力は「加藤の『羊の歌』は半生記であり、散文である。「歌」という必要は必ずしもない。にもかかわらず「歌」と謳った。その理由は何だろうか」が、長年の疑問だったと書いている。そして、ある時、『羊の歌』の一つの意図は「女性讃歌」であることに気づいたと続ける。『羊の歌』の第一主題は加藤周一の自己形成の記録であり、「第二主題で加藤の人生を彩った女性たちにたいする「讃歌」を奏でたのである。いや、彼女らも加藤周一が「加藤周一」になるに与っただろう。そうだとすれば『羊の歌』は、ことばの本来の意味での「歌」であるに違いない」(『「加藤周一」という生き方』一〇八頁)と疑問を解いている。私もまったく同感である。とくにそれは『続羊の歌』にいっそうぴったりあてはまる。  『羊の歌』正編に出てくる女性は、妹ら家族を除けば三人である。芥川龍之介を教えてくれた小学校の同級生、淡い恋心を詩「さくら横ちょう」にうたった小学校の同級生、そして東大病院で一緒に働いた看護婦の一人である。看護婦の彼女は加藤の当直の晩に夜食をつくってくれ、内房の彼女の村まで一緒にいったが、それ以上の進展はなかったようである。「最初の女友だち」と評している。小説『ある晴れた日に』に出てくる若い看護婦のモデルである。『ある晴れた日に』の看護婦は、加藤の傍観者としての自己認識のきっかけをつくる重要な存在である。  「私はそれまで若い女が私に好意をもつはずはないと確信していた」(『羊の歌』二〇七頁)で書いているように、『羊の歌』正編にはほとんど女性は出てこない。男女別学の戦前の教育制度とともに、女性に高等教育の可能性が閉ざされていたために、加藤周一と対等に話しあえる若い女性は周囲にいなかったのであろう。  ところが、『続羊の歌』になると状況は一変する。フランス滞在中、多くの女性と知的で豊かな交際をもったことが書かれている。彼女たちは加藤にとってまさに芸術の女神ミューズであった。  まず、下宿先の主人である詩人ルネ・アルコスの、亡くなった息子の美貌の嫁ミシェール。週に一度は一緒に出掛け、「どこかで食事をしたり、音楽を聞いたり、芝居を見物したり」して「私たちが、話題に窮するということは決してなく、一つの話題について喋り足りるということもなかった」(『続羊の歌』六一頁)。もちろん会話はフランス語であり、加藤の語学力上達にも大いに益しただろう。  また、米国の黒人画家の女性。彼女の友人の若い米国人の男を連れてきて、一緒に恋愛論を話し合ったことが書かれている。「信仰はたとえば恋愛のようなものだ。誰かに惚れることが必要だからと言って、惚れられるもののではない。惚れる必要がなくても惚れるときには惚れるわけだ……」(同五一頁)。  続いて、南仏のニースで開かれた国際ペンクラブの会議で知り合った若いアイルランド女性。加藤は部屋で話そうと誘ったが、彼女は応じなかった。「『愛は時を忘れさせ、時は愛を忘れさせる』。しかしそれはまだ愛でさえもなかった」(同七六頁)。  さらに、パリで危篤になったNHK局員につきそっていたデンマーク人の看護婦。局員はヘルシンキ五輪(一九五二年夏)の取材に来て、前からの病気が悪化し、帰途パリで動けなくなったのである。彼は手厚い看護もむなしく亡くなった。「そのあわただしい時間に、私と彼女とは、急に親しくなった」。  彼女は、アフリカの密林で医療に取り組むシュヴァイツァー博士を「現代の聖者」とよび、アフリカの博士の病院で働くことを決めていた。しかし、アフリカに去った彼女から、数ヵ月後、辛い手紙が届く。博士は病院にほとんど現れず、訪問客の応対や映画撮影にかかりきりであること、レントゲンなどの新しい医療機器の導入にも反対していること。そして、理想に燃えたボランティアの青年が博士によって追い出され、絶望して自殺したこと……。  加藤周一はこの体験をもとに、後に小説「人道の英雄」(一九五五年)を書いた。そこで加藤はシュヴァイツァー博士(小説ではS博士)の偽善を具体的に指摘した。『続羊の歌』で、「私の旧師がその小説をみて激怒している」ときいたとして、その後亡くなった旧師への弁明を試みている。「植民地帝国主義こそは偽善の体系であり、個別的な善意を、その体系から引き離すことが、体系そのものに挑まずにどうして可能であろうか」「私は、私が愛したかもしれないひとりの娘の心の傷と、伝説的な人物の名声や権威とを、断じて交換しない」(同九七−九八頁)。  そのほかに『続羊の歌』には「二人の女」という章がある。二人とは「ルーマニア系のユダヤ人」の共産主義者の女性と、「パリで画廊を経営していたある中産階級の婦人」である。思想信条と階級的立場は正反対の二人だ。加藤はそのどちらとも、深い関係になるチャンスがあったが、そうはしなかったと書いている。「ほんとうの恋人であるためには、私たちのどちらも、充分に盲目的でもなく、充分に未来を夢みてもいなかったのであろう」。  『続羊の歌』で最後に出てくる女性が、フィレンツェで出会ったヴィーンの娘である。予定を変えていっしょにフィレンツェからシエナを回り、その後、彼女に誘われてヴィーンを何度も訪ねた。彼女がロンドンで就職した後は、加藤もロンドンに下宿を得てしばらく滞在した。  加藤は英国から帰った後、「ロンドンの娘との関係を断とうと考えて、しばらく手紙を書かなかった。彼女はそのことを怪しみ、仕事を休んで、突然、パリの私の住居に現れた」。加藤はオーストリア出身の彼女と暮らすことを決意し、「彼女は後に私の妻と」なった。しかし、加藤には日本に別の女性がいた。『続羊の歌』では留学前に「帰ってきたら、結婚を考えよう」と話し合った「京都の女(ひと)」がいたと書いている。「遠い京都で私を待っているはずの人間」とは、「会って説明した上で別れなければならない。そのためにはどうしても日本へ帰らなければならない」と、延び延びにしていた帰国を決意した。  オーストリアの女性はヒルダ・シュタインメッツといい、二人は一九五二年の秋にフィレンツェで出会った。そして加藤がヨーロッパから帰国して七年後、二人は一九六二年にバンクーバーで婚姻届けを出した。    7、加藤周一における「妹の力」  正続の『羊の歌』は最初「朝日ジャーナル」に発表されたとき、「連載小説」と銘打たれていた。のち岩波新書に収めた時の正編の「あとがき」でも「累を他に及ぼすことをおそれて、現存の人の名前をあげず、話にいくらか斟酌を加えたところもある」と、すべてが事実ではないと書いている。  『続羊の歌』の「京都の女(ひと)」は、おそらくフィクションであろう。加藤は一九四六年に結婚していた。当時の妻・加藤綾子あての私信が、留学中に刊行した『戦後のフランス』(一九五二年)にフランスだよりの一つとして収められている。  最終的に綾子とは別れ、ヒルダと結婚した。しかし新しい結婚は必ずしもうまくいかなかったようだ。一九七二年、新しい絆となることを期待してヴィーンの孤児院から養女を迎えるが、ヒルダと加藤は一九七四年に離婚した。養女のソーニャはヒルダが引き取り、オーストリアに帰った。その後、共同通信記者だった矢島翠と三度目の結婚をし、この結婚生活は亡くなるまで変わらなかった。  こうした事情を私は鷲巣力『「加藤周一」という生き方』で知った。同書では、加藤が綾子、ヒルダ、矢島と知り合って恋した時期の熱烈な相聞歌と、三角関係に悩める胸中を詠んだ詩歌の数々を紹介し、加藤の情熱家の一面を明らかにしている。  加藤は著作でほとんど自分のプライベートについて書かなかった。唯一の例外が正続『羊の歌』である。しかし、そこでも「話にいくらか斟酌を加え」ているくらい、謎が多い。作家の生活より、精神に関心を傾けた加藤周一らしいとも言える。  そのなかで加藤自身は自分の結婚歴を、管見の限りただ一回書いている。『常識と非常識―加藤周一講演集V』(かもがわ出版、二〇〇三年)の「前口上」のなかである。    結婚を三回し、離婚を一度した。結婚制度は重んじているが、矛盾と無理もある。若い男女がロマンチックな出会いをして、結婚し、五〇年一緒に住み、最初と同じような愛情を保つのは非常に困難だと思う。  恋愛は、自由意思による選択ではない。一種のアクシデントで、非常に強力な、他のすべてを圧倒するような感情的出来事だ。他の経験の価値を抑えつけてしまうほど強力な経験で、そうした世界に選択の自由などあるはずもない。恋愛は非合理的で、激しい情熱だから、物差しなどない。いい恋愛、悪い恋愛、正しい恋愛もない。年齢にもかかわらない。    女性たちは加藤に恋愛の非合理な情熱を教えただけではない。私は加藤周一の音楽論や美術論の陰には、女性たちが寄り添っていると思う。  たとえば『続羊の歌』の「音楽」の章。「吹雪の夜、テアタ・アン・デァ・ヴィーンで《トゥリスタンとイゾルデ》を聞いたときに、私は恍惚として我を忘れた。それは私にとって、全く新しい経験であった」と書いている。このコンサートは一人で行ったかのような書きぶりだが、実際はヒルダと二人で聞きにいった。鷲巣力が前掲書で『トリスタンとイゾルデ』をヒルダと桟敷席で見たことを紹介している。妻ある身としてのヒルダとの恋が、不倫の悲恋を描いたワーグナーの楽劇の見方に影響しない方が無理だろう。「音楽」の章には「愛する女との抱擁は――私が人生においてある種の音楽のよびさます陶酔恍惚の境に、比較することのできる唯一の経験であった」とさりげない風で書かれているが、傍らに愛する女性がいたからこそ、ワーグナーの恍惚に浸ることができたのである。  ヒルダとの恋が影響したのはワーグナーだけではない。『ある旅行者の思想』におさめた「フィレンツェの夕暮」も、表面的にはイタリア・ルネッサンス芸術の美しさ、とくにミケランジェロのダヴィデ像をたたえているだけだが、最後に「酒の味は講釈だけではわからない。飲み、かつ酔い、髪黒く色白き女の頬のばら色に染まるのを眺め、その抑揚のつよい言葉のにわかに甘くひびく時を知らなければならない」(二〇頁)とある。一般論のように書いてあるが、彼の地でヒルダと出会ったことを知れば、ここに彼女の存在を読み取ることは難しくない。  芸術論をおさめた『西洋讃美』にもある。「ヴィーンの想出」はウィーンの図書館で眺めたデューラーの素描と版画集への愛を語ったものだが、そこにはもちろんヒルダもいただろう。加藤自身も『著作集』でこの小論の追記に「「ヴィーン」については、ここで補足するためにはあまりにも係りが深すぎる。その係りの少くとも一面には、『続羊の歌』のなかで触れた」と書いている。  ちなみに後年の『ウズベック・クロアチア・ケララ紀行』(岩波新書、一九五九年、八七頁)でもヒルダと出会った時のことがふと顔を出している。ソ連のウズベック共和国のタシケントで、地元の女子学生と二人でイスラム教寺院に入ったとき、「突然イタリアを想い出していた」と書いている。「シエナで私は女友だちと教会のなかへ入った。(中略)私たちは柱のかげで抱擁した」が、突然、僧侶に「ここは祈りの場所である」と怒鳴られて、追い出されたと。加藤の一種の茶目っ気とともに、意外に大胆な一面がうかがえる。  加藤周一の様々な芸術論とかかわる女性はヒルダだけではない。「ルオーの芸術」(『西洋讃美』)で加藤は「ある夏の日の午後、すでにマロニエの葉の色ずきはじめた並木のかげに坐って、私はみてきたばかりのルオーを想いうかべていた」と書いている。一人で思いを巡らしているようだが、これもそうではない。先に紹介した米国の黒人女性画家と一緒に見に行ったのである。『著作集』の追記に書いている。「今は昔、一九五〇年(ママ)の初め、私はイエナ広場の国立近代美術館で、「ルオー回顧展」をみて、その後アメリカ人の画家、モーゼルとアルマ広場まで歩き、広場に面したカフェーのテラスで、みてきたばかりの展覧会の話をしたことがある。(中略)そのとき彼女と喋ったことを、パリ一三区の下宿で書きとめたのが、この小文である。(中略)今は亡きモーゼルの名を、私はこの文章のあとにぜひ誌しておきたいと思う。≪to Mozelle. with Love≫」  芝居も同伴者がいたことは観劇記からうかがえないが、実際は前出のミシェールや、あるいはパリにいた朝吹登水子と大部分の芝居を観た。「私にとって、芝居見物の記憶は、この二人の美女の想い出と切り離すことができない」(『続羊の歌』六二頁)。と書いている。  加藤周一は日本古来の「妹(いもの力」の信奉者であり、それを思う存分自分の力の源泉としていたことが分かってくる。  フランス留学前に書いた「日本の庭」(一九五〇年)は、京都の修学院離宮や龍安寺の庭を論じて、加藤が初めて「自らを文筆家として意識した」評論だ。このかげにも女性がいたのかもしれない。『続羊の歌』の「京都の庭」の章は、「その女(ひと)のために私はしばしば京都へ行った」と書きだし、京都を「もう一つの故郷」とよび、「ひとりの女のあらゆる表情を、私がそこに読んでいたということであろうか。おそらくそうではなく、女のなかにその世界の反映を見ていたのであろう」と少々謎めかして書いている。  「京都の女(ひと)」は、加藤の最初の妻の綾子のことをぼかしたフィクションではないかとさっき書いた。しかし、もしかすると、日本の庭の美への加藤の開眼にあずかった女性が誰かいたのかもしれない。  加藤が芸術体験を共有する相手は女性とは限らない。フランスの代表的カテドラルであるランス、ラーン(ラン)、ソワッソン(ソワソン)を加藤は一人で見に行ったかのように「北フランスの旅」(『ある旅行者の思想』)で書いているが、実際は同じ留学仲間の森有正、三宅徳嘉と旅行している。一九五三年二月十六日、十七日の土日のことである。三宅徳嘉の遺稿集『辞書、この終わりなき書物』(みすず書房、二〇〇六年)に収められた、当時の三宅の妻への手紙にこの週末旅行のことが詳しく書いてある。そこに加藤周一の名はないが、対独戦の英雄タッシーニ将軍を悼むミサにラーンで出くわしたことを二人とも書いているので、一緒にいたことは間違いない。「北フランスの旅」の一節「ソワッソンの廃墟で」では、正面ファサードの壁だけが残ったサン・ジャン・デ・ヴィーニュの教会を見て「ただ一人でその前に立っているのは、悲しいことである」と書いているが、一人ではなかったのである。  三宅は一九九七年に友人あての手紙で留学時代を次のように回顧している。「森さん、加藤周一と、Chartres(シャルトル)、Reims(ランス)などに週末旅行に出かけ、また高橋幸八郎氏を加えて、毎週のようにAlbert SoboulのNotre-Dame des Champs街の家へ集まり、イギリス、イタリアの若い革命史家たちと、持ち寄りの食べ物、飲み物で、議論したものです。そこへHenri Lef?vreが、ルーマニア美人を伴って時に現れたりして」(同一八二頁)。シャルトルの週末旅行や、あるいは毎週の議論に加藤も加わっていたようだ。  執筆における状況の置き換え、とくに同行者の捨象は、それぞれの主題を純化するための仕掛けであり、一種の抽象化であったろう。私が多少細かく現実との違いを指摘したのは、ただ、加藤がこれらの文章で予想される孤独な旅人というイメージと違って、たいへんな交友好きだったことを確認したかっただけである。音楽、美術、舞台、建築なども、ひとりよりも友人と一緒に見て感想を語り合うことを好んだだろう。文章に書かれた独創的な発見や鋭い分析も、最初は友人たちとの会話のなかで形を成し、研ぎ澄まされていったと思う。それが本来の加藤周一流であったし、生彩に富む会話の名手で、大変情に厚かったという、多くの知友の証言にも合っている。    8、雑種文化、その現達成    「西洋見物」が加藤周一にもたらした変化の四つ目は、日本の発見である。  加藤周一は一九五五年二月、三年半ぶりに日本に帰国した。フランスへ行くときは空路だったが、帰りはマルセーユ発の貨物船で六週間の船旅だった。日本に留学するため同じ船に乗っていた英国の社会学者のロナルド・ドーアは、加藤周一の案内で、マルセーユ近くのル・コルビュジェの有名な市営アパートや、カイロの博物館を見てまわった。ドーアは「またこの人の多才さに感心した」「加藤さんの予備知識は相当なものだった」と回想している(「プラトンの優れた子孫 加藤周一」『図書』二〇一〇年一月号)  帰国後の加藤の最大の変化は、フランス文学についてほとんど語らなくなったことである。海老坂武も「奇妙なことに帰国して以後、加藤周一は(フランス文学者という・北村注)このレッテルを忌避するかのごとく、フランス文学論と言えるものを一つも書いていない。この衣を脱ぎ棄てて、新たに姿を現したのは文明評論家、〈雑種文化論〉の加藤周一であった。長い眼で見ればこの脱皮こそ〈西洋見物〉の最大の成果であったとも言える」(『加藤周一』一〇九頁)と書いている。フランス文学論に近いものとしては「サルトル私見」(初出『人類の知的遺産七七』講談社、一九七四年)はあるが、サルトル論は思想哲学であって、もはや文学論とは言えない。  外国の文学を語るよりも、もっと足元を見つめ直さなければならないという加藤周一の焦りにも似た気持ちは、留学中の文章にも現れていた。    日本の外へ出て、日本の文学のことを考えると、今の日本文学が、古い伝統からはなれて西洋を手本にしていることが、大へん奇妙にみえる。(中略)われわれの伝統のなかには、もしそのなかに入ればまだそこから抽きだせるもの、そこから出発して発展させることのできるものが沢山ありそうである。少なくとも私はそう思うし、今までそれを充分にしてこなかったのは怠惰であったという印象をうちけすことができない。(「西洋見物の途中で考えた日本文学」『文学』一九五四年一月号)    そして、帰国第一声ともいえる「日本文化の雑種性」(『思想』六月号)で、雑種文化論を提示した。  その冒頭でもまず、「私は西洋見物の途中で日本文化のことを考え、日本人は西洋のことを研究するよりも日本のことを研究し、その研究から仕事をすすめていった方が学問芸術の上で生産的になるだろうと考えた(中略)少くとも私自身の場合には怠慢であったと考えた」と、日本文化に焦点を当てる理由を明らかにしている。  加藤は、英仏の文化が純粋種であるのに対し、日本文化は日本と西洋の「二つの要素が深いところで絡んでいて、どちらも抜き難い」「雑種の文化の典型ではないか」という。そして、西洋の影響を排して日本の伝統文化への回帰を求める国民主義も、逆に、日本の西洋化一辺倒の近代主義も、誤った純粋化運動だと退けた。結論として、「純粋種に対する劣等感」を捨てて、「文化の雑種性そのものに積極的な意味をみとめ、それをそのまま生かしてゆくときにどういう可能性があるか」を追求することが日本の課題だと提起した。  雑種文化論から六〇年、少なくとも明治以降の日本文化が雑種であることは、今では常識だと思う。加藤周一の時代以上に、経済・情報・文化のグローバル化が進んだ二一世紀の現在、西洋の影響を排することなど不可能だし、他方で、俳句、柔道、歌舞伎から日本食まで世界に広まった日本の伝統文化も数多くある。  ただし加藤周一が抱いた「希望」は、今までのところ実ったのか、流産に終わったのか。その見立ては人によるだろうが、私は実ったものが多いと思う。  まず政治では、日本国憲法―とくに九条―を七〇年間変えずに維持し続けてきた意味は大きい。押し付け憲法という意見もあるが、これは日米合作の憲法とみるべきである。加藤の雑種文化論は「戦後の民主主義の擁護とワンセットになっている」(海老坂武)だけに、改憲を食い止めてきた意味は大きい。  政治において、西洋と日本の文化の混交に日本の希望があるという考えは、鶴見俊輔にも共通する。鶴見は吉田満との対談で次のように語った。一方では「アメリカ流の平和国家の目標が日本に根付」くことを期待し、他方では、殲滅戦をやらず「自分自身が普遍者だという思い上がりがない」ところの「明治以前からの日本の村の伝統」を高く評価する。「明治以前の村の文化と戦後の国家規模における平和思想とが、ある方法で連続した時に初めて、われわれはもっと安定した形を持つと思います」(鶴見俊輔対話集『戦争体験』ミネルヴァ書房、一九八〇年、一〇六―一一一頁)。  経済的にはGDP世界第二位―その後第三位―の経済大国をきずいた。様々な欠陥はありつつも医療の皆保険制度と公的年金制度で世界一の長寿国を実現した。経済的格差も比較的緩やかで、大学・専門学校への進学率も七割に達する。  こういうと、戦後保守政権を賛美するようだが、そうではない。もちろん、保守政権が役割を果たした面もあるが、国民の勤労と運動と投票行動が実現した地平である。今の政権は、それを掘り崩そうとしているが、やはり国民の良識と運動が、事態の一路悪化を食い止めている。  そして雑種文化として日本ならではの独自性と、世界に通用する国際性を勝ち取ったのが、マンガ・アニメのように思う。鳥獣戯画や北斎漫画に見られるように、日本にはそもそも漫画的表現の伝統があった。そこにディズニーの「白雪姫」やミッキーマウスのアニメーション技法が移植された。さらに戦後日本の社会と国民に育てられて、まさに雑種的表現を勝ち取った。例えばアニメ「アルプスの少女ハイジ」はヨーロッパでも多くの国でテレビ放映されたが、いずれの国でも日本アニメだということはほとんど知らずに見ている。ポケモンの成功も同様だ。  文学では大江健三郎と村上春樹が雑種文化の代表であろう。  大江健三郎はサルトル、ロシア・フォルマリズム、南米のマジック・リアリズムなど海外の最先端の文学に深く学びながら、日本の近現代の歴史と現実に根差した文学をつくった。その高い国際的評価はノーベル文学賞受賞に実った。川端康成が日本的美を評価されて受賞したのとは、質的に次元の異なる受賞だった。  村上春樹もアメリカ現代文学を深く身に着けてデビューした。無国籍的とかアメリカ文学の模倣とか言われながら、一方で描いているのは紛れもない現代日本の場所と時間であることも間違いない。  成果と達成ばかり強調すると、まだまだこれぐらいで満足しているようでは甘すぎるという声も聞こえてくる。そのとおりである。ここに書いたのは優れた成果の側面だが、遅れた面や未達成の課題も多い。雑種文化の可能性追求の歩みはまだ道半ばである。  9、日本と似た国イギリス  話を一九五五年に戻せば、発表当時の雑種文化論はおおむね好意的に迎えられたようだ。フランス文学者の河盛好蔵は「私は加藤君のこの主張に全く啓発された。日本文化の雑種性を説いたのは加藤君が始めではない。しかしそれの積極性を認め、そこからの出発をこのように綿密に、実証的に、また自信をもって主張したのは加藤君が始めではないかと思う」(『新選現代日本文学全集三四』解説、一九五九年)と書いている。  雑種文化論の驚くべき点は、成田龍一も指摘するように、加藤がかつての自説の否定にまで踏み込んでいることだ。加藤は、戦後の民主化=近代化=西洋化という知識人の(少なくとも一部の)主張は「いくらか事態を誇張する傾向があり、西洋を謳いすぎたし、日本を貶めすぎた」「その考えはもはや戦時中の日本文化主義の裏返し以外のものではあるまい」と書いている。  ここで「日本を貶めすぎた」というのは、加藤自身の自己批判であった。少なくとも隠れた形での。  それを最もよく示すのは『文学とは何か』の修正である。留学前に書いた角川新書『文学とは何か』(一九五〇年)を、一九七一年に角川選書から新装復刊するときに、一部の極端な日本文学批判を削除修正しているのである。  しかし、もう一方で加藤は、外国帰りの知識人のよくある日本回帰といわれることには断固反論した。留学前の日本文化の評論を集めた『知られざる日本』(一九五七年)の「あとがき」で次のように書いている。    私が外国旅行の結果はじめて日本の文学・芸術に興味をもち出したかのようにいうものがある。しかし能舞台や、定家とその周辺に、私が傾倒したのは、戦争中御用学者が日本文学をそれとは全くちがう面で強調していた時代であり、京都の庭をまとめてみて歩いたのは、戦後「近代化」が相言葉となり、祖先の偉業を偲ぶことの流行しなかった時期である。そしてそういう事柄について私がこれらの文章を書いたのは、すべて外国旅行以前、占領下の日本においてであった。    果たして、加藤周一は日本回帰したのか、それとも最初から同じ立ち位置にいたのか。桑原武夫は当時、『雑種文化』の書評でうまい言い方をしている。「加藤氏はたしかに変った。しかし、それは『英仏両国民の自国の文化に対する極端に国民主義的な態度によって大いに刺激され』てコロリと変ったのではない。(中略)ただ彼は日本はイギリス、フランス、アメリカまたはソ連等のサルマネ的近代化をはかることによっては救われぬ、ということに、つとに気づいてはいたが、ながい留学期間中に、それをたしかめ、一そうの自信をもって具体的に発言するようになっただけである」(「日本文化論の重要な萌芽」『日本図書新聞』一九五六年一〇月一五日号)  「雑種的日本文化の希望」(『中央公論』一九五五年七月号)では、加藤のその後の日本文化論を貫く、日本文化の此岸性と非超越的思想という特徴が初めて定式化される。    しかし芸術においても、文学においても、今仮に装飾主義と写実主義ということばでよぶ二つの傾向は、実は同じ淵源から出た一つのものであろう。それは一種の感覚主義、感覚的・日常的・経験的世界がそのまま現実であり、唯一の存在であって、その世界を超えたどういう種類の存在もみとめないという世界観の、二つの側面のあらわれであろう。(中略)  もし今、日本の芸術家にとって、西洋の精神的風土と接触することに意味があるとすれば、西洋の、少くとも西ヨーロッパ大陸での、プラトニックな意識の構造との接触という点にしかない。(『著作集』第七巻、四三頁)    前半の一節を海老坂武も「『日本文学史序説』や『日本 その心とかたち』を予告する言葉として了解される」と評している。  ここでイデア(超越物)の実在を信じる「プラトニックな意識構造」の文化を「西洋の、少なくともヨーロッパ大陸での」と限定していることに注意してほしい。前にも指摘したように、大陸以外のヨーロッパ、すなわちイギリスは別なのだ。『ある旅行者の思想』の「イギリスからの手紙」にも「フランス思想の少くとも一つの基礎は、観念を第一の実在と考えるという意味でのプラトニズムだと思う。(中略)(イギリスの)その精神はプラトニズムと異質であり、フランス一七世紀に結晶している古典主義的美学とも異質であった」(八五―八六頁)と書いている。  このイギリスと日本は似ていると加藤はとらえた。「イギリスからの手紙」のイギリスの風景画家コンスティブルの特徴づけは、次のように、「雑種的日本文化の希望」で論じた尾形光琳の特徴づけと驚くほど似ている。  「コンスティブルは、自然のなかに入り、そこで生き、そこで呼吸し、そこに自分を溶しこむ。(中略)彼は、一息に、何の抵抗もなく、自然と合体する」(イギリスからの手紙、八二頁)  「(光琳の)画面が迫力を持ったのは、画家がその画面を生きていたからであろう。(中略)光琳の場合、対象と画家の主観、自然と人間、また芸術と人生とが、彼の人間のなかで一体となっていたからであろう」(雑種的日本文化の希望、『著作集』第七巻、四二頁)  だからコンスティブルについて加藤はこう書いていた。「彼の風景画はより直接にわれわれを動かす。そしておそらくこの場合には、われわれが日本人であるということに特別の意味があるのだ。(中略)コンスティブルの自然に対する態度はわれわれにとって異質でない」(八二―八四頁)  コンスティブルを加藤はイギリスの典型として扱っている。逆にターナーはイギリスの例外で、フランス文化に近いという。加藤は「(日英には)もう少し深い気質的な相似点があるからだといえるだろう。少なくとも相似点の一つは自然に対する態度、季節に対する態度にあらわれていると思われる。否定的にいえば、日本にもイギリスにもフランス的な古典主義が(そして多分カルテジアニズムが)なかったということだ」と続ける。  カルテジアニズムとは聞きなれない言葉だが、「カーティザンCartesian」といって、デカルト信奉者のことである。ご存知のようにデカルトは大陸合理主義の源流とされる。デカルト(Descartes)は、Des Cartesを続けたもので、頭の「デ(Des)」は英語の「ザ(the)」と同じである。近世から現在までのフランス精神を養ったものはカルテジアニズムとカトリックの二大思潮だといわれるが、どちらともイギリスと日本の精神風土とは異質なものである。  こうしてみると、加藤は日本の非プラトニックな精神風土を、イギリスとの類推で発見・定式化したように思える。しかし、キリスト教圏か否かという点では、イギリスはカトリックではないがキリスト教国である。フランスのカトリック文化とプラトニズムはがっちり統一した文化をつくる。それに対し、イギリスのキリスト教文化とその経験主義的非プラトニック的精神風土との関係を、加藤はどうとらえていたのか。できれば聞きたかったところだ。    10、鶴見俊輔との相違と一致    ところで、加藤周一の発想はフランス型であった。「個人の精神」「集団の心性」に関心がまず行くところや、「ヒューマニズムとは何か」「文学とは何か」などと大きな定義から出発して考えるところに見て取れる。  一方、再び鶴見俊輔を比較に出せば、鶴見は徹底して英米型だった。有名無名の様々な人物のエピソードや発言をひき、それをバネに自説を展開するのが鶴見流だった。それはイギリスの伝記の伝統とも結びつく。  鶴見は「大義」や「体系」につながる観念的な言葉を疑い続けた。それはイデア的な言葉への疑いといってもいい。先に紹介したように、加藤は中世スコラ哲学の「実在論(リアリズム)」を評価したが、鶴見は「私の考え方は哲学の流れからいうと唯名論(ノミナリズム)に属している」(『戦争体験』一〇―一一頁、以下同じ)と明言している。唯名論は哲学的には経験論につながる。鶴見は「カントよりヒュームに共感をもった」とも述べ、大陸型観念論よりイギリス型経験論への親近感を表明していた。  鶴見は観念が実体化することを避け続けた。「言葉には必ずそれに対応する一つのモノが固定して有るという信仰から自由でありたい。私はなるべく古い言葉、手持ちの言葉を使ってその時々の要求に近似値的に間に合せることで、不必要な実体化はさけていく」と述べている。さらに「人間の文化というのは結局、大きくみて、その時代を生きる人間の要求に対してみれば間に合せのもの」「どんな生き方も間に合せでしかありえない」と、文化の永続性にも突き放した見方をしている。  鶴見俊輔は大掛かりな観念の罠に足をとられないように、「親問題」と「子問題」という言い方もした。「親問題」とは「人間とは何か」「愛とは何か」というような根源的な問題である。フランス人が好きな問題と言える。しかし、鶴見はこうした問いに答えはないと割り切っていた。だから親問題は普段は胸の中にしまって(棚上げして)おいて、「学校へ行くのは何のためか」「誰と結婚すべきか」という個々の具体的な問題こそ大事だと言ったのである。これらを「親問題」から派生する「子問題」とよんだ。  僕はアメリカとイギリスの思想の関係に詳しくないけれど、こうして考えると、鶴見さんが学んだアメリカのプラグマティズムは、イギリスの経験論哲学を受け継いだものなのかもしれない。  加藤周一と鶴見俊輔というと、二人とも学識豊富で、戦後民主主義を擁護し、平和憲法を守る「九条の会」の呼びかけ人で、京都を愛したなど、共通点が多く見える。しかし実は、思考タイプとしては対照的だったのである。経済学者の伊東光晴は、加藤、鶴見と一緒に選考委員を務めた毎日新聞の「二十一世紀賞」の選考で、加藤周一が「対立するのは、きまって鶴見俊輔さんとであった。鶴見さんは妥協することがない。選考軸が違うのである」と回想している(「理性、科学と自立する心」『冥誕』六四頁)。その選考軸の違いの根は思考の型から発していたと言えよう。  ただし繰り返しになるが、日本文化の「雑種性」をよしとする点で、鶴見俊輔は加藤周一と驚くほど一致していた。加藤の指摘した「雑種性」を、鶴見は「折衷的」とよんだ。鶴見は「日本の文化は折衷的であり、大衆の思想は折衷的」とし、自分の思想は「おのずと折衷的、不定形」なものだと自称した。「そういうもの(折衷性)を振り捨てて純粋な世界へ行こうという知識人の傾向」に対して「私はそういう知識人とはちがう道をとりたい」(『戦争体験』一二頁)と述べていた。加藤周一が国家主義と近代主義の二つの純粋化の道を批判して、日本文化の雑種性に希望を託したのと同じである。    11、「高みの見物」    加藤周一の西洋見物をめぐる探索も、より道回り道の末、やっと最後の章になった。  西洋体験が加藤にもたらしたものの五つ目は、観察者としての自己の発見である。  その自己発見は、留学中に書いた「続ある感想―高みの見物について」(『文学』一九五四年五月)に初めてしかも端的に表現されている。その前に同誌に寄稿したのが、先に触れた「ある感想ー西洋見物の途中で考えた日本文学のこと」(同一月号)であるから、日本の発見に踵を接した自己の発見と言える。  加藤は自分の西洋見物は「高みの見物」だという。「無責任であり、特定の立場によらず、すべての立場に対し公平な態度をとることができる」。さらに進んで、西洋から日本を見るのも「高みの見物」だという。「高みの見物」はごたごたの当事者よりも「見透しの正確さ」を可能にするが、それは「見透しの役に立たぬということ」と裏腹である。    一般化していえば、高みの見物は正確な判断をあたえるが、その判断は役にたたぬ。たまたま役にたたぬのではなく、役にたたぬことそのことが、判断の正確さの条件になっている。つまり事の本質上無益で正確な判断が高みの見物の結果だということになる。したがってもし私と社会との関係が、本来“解釈することが目的でなく、改造することが目的だ”という原則にたっているとすれば、高みの見物ではこまる。たとえある場合には正確さをいくらか犠牲にしても、有益な判断、役にたつ判断を必要とするということになるだろう。    ここまでは当たり前のように聞こえるが、続いて加藤は、戦後の自分の発言に「重大なまちがいがあった」と自己批判に転じる。「重大なまちがい」とは、戦争中の自分の見透し―敗戦―が正確だったことについて、戦後の解釈が一面的だったという。「それは見透しの正確さを誇るに急で、見透しの役にたたなかったというほかの一面にふれていないからだ」。    いくさに対する私の態度は高みの見物だった。(もちろんあの当時の私にとって、もっとよい態度があったろうとは今でも考えない。)まちがいはそのことにはなく、高みの見物から出てくる見透しや判断を、社会のなかで動いている場合の見透しや判断と区別なしに扱った、戦後の私の扱い方にある。それは一面的であり、正しくない。    戦争中の加藤自身の判断は必ずしも合理的推論の結果ではなく、「希望を純粋にする」結果でもあった。「私はいくさの間、日本でも世界でも民主主義の勝つことを希望していた」「しかし実地に手を下してその実現のために努力したわけではない」。戦争中の己の無力を振り返る加藤の苦い自己認識である。  加藤の西洋見物だよりのなかでこの文章は少々唐突である。加藤はこれを書いた「強い動機がある」という。「それは今の世の中の発展、殊に日本での情勢の発展である。(略)国が一定の方向に編成されようとしているとき、その編成の結果がどうなり得るか、編成を妨げる道がどこにあるかという点について、純粋に実証的な結論がえられないからあきらめて考えずにおくというわけにはゆくまい」。  この時、日本で進んでいたのは再軍備である。  一九五〇年に朝鮮戦争を機につくられた警察予備隊が、一九五二年に保安隊に改組され、海上警備隊(定員一万人)も発足。そして一九五四年七月の自衛隊・防衛庁の発足に向け、内外の動きはあわただしかった。日本は憲法で戦力の保持を禁止されていたから、戦車を「特車」、軍艦を「警備船」と呼び変え、吉田茂首相は「保安隊は『戦力なき軍隊』」だと答弁し、再軍備を違憲ではないと押し通していた。  加藤周一は再軍備が既成事実化していく事態を遠くフランスで伝え聞きながら、戦争中のように「高みの見物」でいいのかと自問し、よくないと自答したのである。  ただし、この決意をもって、加藤周一がこの後、政治的実践に手を染めたとは言えない。晩年の「夕陽妄語」に至るまで、政治的発言をやめることはなかったけれども、加藤はある一線を超えて行動に参加することはなかった。  帰国後の目立つ政治的行動としては、一九五九年に安保条約改定に反対して、丸山眞男らの国際問題談話会へ参加したこと、一九六〇年四月四日「安保批准反対請願大会」で講話したこと、日本ペンクラブ理事として、日本ペンクラブ声明文「安保条約批准承認に対して」を起草したことをあげられる。これでも日本の知識人としては政治的な方である。鶴見俊輔のように「デモに参加したほうが気分がいい」というのはまれだ。  加藤周一がその一線を超えたのが、二〇〇四年の「九条の会」の呼びかけであった。「高みの見物について」を書いてから五〇年後のことである。   9