カトリックと社会主義、そしてサルトル  加藤周一論ノート(2)  1,フランス文学者として  雑誌『世代』連載のコラム『1946・文学的考察』で文筆家としてデビューした後、一九五一年十月にフランスへ留学するまでの五年間、加藤周一はなによりもまずフランス文学者として活躍した。  『自選集』第一〇巻の著作目録を見ても、この期間を通して、新聞・雑誌に月に五、六本の寄稿をしており、その多産ぶりには目を見張るものがある。こうした評論・コラムの半分以上がフランス文学論である。主要な論考を『現代フランス文学論T』(一九四八年)、『現代詩人論』(一九五一年)『現代フランス文学論』(同)にまとめたのに加え、書き下ろしで岩波新書『抵抗の文学』(一九五一年)を出し、フランス文学論だけで四冊もの著書を出している。  これ以外にまだ共著書・辞典がある。渡邊淳ほか著『現代フランス文学 新しい動き』(一九五〇年)、東大フランス文学会編『フランス文学辞典』(一九五〇年)中島健蔵編『フランス文学読本』(一九五一年)などである。  ただし加藤周一が当時から、決して「フランス屋」ではなかったことは、付け加えておかなければならない。日本文学も藤原定家などの古典から夏目漱石や芥川龍之介という近代小説、詩歌まで実に幅広く論じている。シェークスピアやオーウェルなどフランス以外の海外の作家も論じ、月々の文芸時評や内外の演劇論、映画論も書いている。  これらは『文学と現実』(一九四八年)『文学とは何か』(一九五〇年)『美しい日本』(一九五一年)『抵抗の文化』(一九五二年)の四冊に主要な原稿がまとめられている。  加藤自身、一九五五年二月に帰国した後、これらの旧稿の一部を『知られざる日本』(一九五七年)に編み直したとき、「あとがき」で次のように書いている。    ここに集めた論文を書いた後に、私は外国へ渡り、国へ帰ってから後に再び国の文化を論じた。世間ではそれを評して、私が外国旅行の結果はじめて日本の文学・芸術に興味をもち出したかのようにいうものがある。しかし能舞台や、定家とその周辺に、私が傾倒したのは、戦争中御用学者が日本文学をそれとは全くちがう面で強調していた時代であり、京都の庭をまとめてみて歩いたのは、戦後「近代化」が相言葉となり、祖先の偉業を偲ぶことの流行しなかった時期である。そしてそういう事柄について私がこれらの文章を書いたのは、すべて外国旅行以前、占領下の日本においてであった。  そうした留保はありつつも、今回はフランス文学者としての発言を軸に、戦後最初期の加藤周一の思想をたどってみたい。  ちなみに海老原武『加藤周一』(岩波新書、二〇一三年四月)は、フランス文学について「当時の加藤青年の主たる関心が五つの系統の作家にあった」と整理している。第一に象徴主義の詩人たち(ボードレール、マラルメ、ヴァレリー)と象徴主義的風土から生まれた作家たち(プルースト、ジード、クローデル)、第二に三〇年代の反ファシズム運動の一翼を担った作家(ロマン・ロラン、ジャン・ゲーノ、ジャン・リシャール・ブロック)、第三は新しい小説の書き手としてマルローとサルトル、第四はレジスタンスの作家(ヴェルコール)、詩人たち(アラゴン、エリュアール)、第五は新しい演劇作家(アヌイ、ジロドゥー、カミュ、サルトル)である。なかでも「青年加藤周一にとって大きな位置を占めていたのは、なんといっても象徴主義の詩人たち、とりわけポール・ヴァレリーである」と述べている。  たしかに戦争直後の時点では、ヴァレリーの存在が大きかったのかもしれないが、それはまだドイツ占領下の「抵抗」の文学と戦後の新しい動きを知る前だ。それらを知った後も含めて考えると、加藤周一にとって一番大きな存在は断然サルトルだった。  鷲巣力は『加藤周一を読む』(岩波書店、二〇一一年九月)で、「加藤周一が関心を抱いたフランス文学者」として、第一に象徴主義文学者とその後継者、第二に抵抗の詩人たち、第三にサルトルをあげている。とくにサルトルを三本柱の一つに据えている点は私も同意見だ。  私は、鷲巣のあげた三つのグループとともに、海老沢が二番目にあげた、三〇年代の反ファシズム運動の一翼を担った作家たちを加えて、四つのグループとして考えるのがいいと思う。つまり、第一に象徴主義文学者、第二に三〇年代の反ファシズム作家、第三にレジスタンスの文学者、第四にサルトルである。  加藤周一はフランス文学者としてのスタートを、まず象徴主義文学者と、三〇年代の反ファシズム作家の、二つの文学者グループを考えることから始める。    2,ヒューマニズムの起源と未来    この時期、加藤周一が最初に論じたのはヒューマニズム(フランス語ではユマニスム)であった。  「ヒューマニズムと社会主義」(『黄蜂』一九四六年十月号1)では、ヒューマニズム(人間性)という言葉が戦前の一時期流行したことから説き起こす。それは何の実りも生まないまま、聖戦文学に取って替わられた。加藤はまずヒューマニズムの正確な理解が必要だと、ヨーロッパにおけるヒューマニズム成立の歴史を振り返る。  加藤によれば、「ヒューマニズムは第一に文藝復興期のヒューマニストの説」であり、「ヒューマニストとは『古代の言葉及び文藝』を研究する者」である。彼らは、哲学者でも、合理主義者でもなく、いわば文献学者であった。古代ギリシャ語を学び、失われたその核心を発見した。それは理性であった。「何ものにも奉仕しない理性、要するに外在する一切の目的と権威とから解放され、純粋に理論的な人間精神の独立の観念」こそギリシャ人のみが得た、ギリシャ文明の本質だと加藤は書いている。ヒューマニズムの出発点は、理性の発見にあった。  一方、平等の思想はカトリックから生まれたと書く。「人間の平等と云う観念は、ヒューマニストにも、(奴隷制社会の・北村注)古代ギリシャにもない。それは思想的には原始キリスト教に依って与えられ、現実的にはローマ帝国を通じてカトリック教会によりヨーロッパ的普遍性として実現されたものである」(極端な当て字は改めた)。  ヒューマニスト由来の「理性」尊重の思想と、カトリック由来の「平等」思想を統一したのがデカルトである。こうして「万人に均しく頒たれた理性という観念」が生まれ、自然科学の全面的発展と、フランス革命に始まる「凡ゆる近代民主政治と社会主義的経済理論との形而上学的根拠を与えた」。  こうした歴史を踏まえ、加藤は「ヨーロッパ近代の人間性は単にヒューマニスト的ではなく、語源的な意味に於てカトリック的、普遍的なものとなるであろう」と書いている。  この時期、普遍と平等の思想を生み出したのはカトリックだということを加藤はたびたび語っている。「カトリック」の語源であるギリシャ語の「カトリケー」やラテン語の「カトリクス」は、「普遍的」の意味である。  『近代文学』の座談会「フランス文学について」(一九四六年十月号)でも、加藤は次のように発言している。    ヒューマニテーに対する信頼、僕は、やはり個人的な自由と精神の優位、凡ゆる外的な条件から独立した責任の観念、自由意志と人間の内面性の発見みたいなもの、そういうことはギリシャ的な発見だと思う。(中略)然し、ギリシャのユマニテは万人に均しく頒たれたものではない。それを一般化し、人間の観念を奴隷や野蛮人の中にまで拡張し、人間性一般とか、インターナショナリズムとかユニヴァーサリズムという観念を建設したのはカトリックだと思う。(中略)それがつまりプロレタリアのインターナショナリズムの基礎で、あれは決してコムミュニストの発明でなく、殊にソルボンヌと、ローマ教会とのあの輝かしい、十三世紀が決定的にしたものです    無神論の社会主義と、カトリックは何かと対立するが、そのカトリックの普遍主義が労働者階級の国際主義の源だという指摘は、今読んでも新鮮だ。  加藤のこうしたカトリックに対する理解と知識は、戦争中、東大文学部講師だったカトリック評論家・吉満義彦に触発されて身に着けたものだろう。後年、加藤は吉満の思い出を自伝『羊の歌』や、「吉満義彦覚書」2に書いている。  加藤にとって、ヒューマニズムの父が理性、母がカトリックとすれば、その嫡子は社会主義だった。前述のプロレタリア国際主義についての指摘だけでなく、左翼批評家ジャン・ゲーノを論じた「ジャン・ゲノに就いて」(『近代文学』一九四六年九月3)でも書いている。「ユマニスムの立場を徹底させる限り、何等かの社会主義が必然的であることは、更めて云うまでもない」と。古代ギリシャのユマニテを代表するソクラテスと、ロシア革命を指導したレーニンは「同じ精神に属する」というゲーノの言葉を引いている。  ジャン・ゲーノは『ユーロープ』誌主筆として、一九三〇年代のフランス文芸界を、ジードらの『N・R・F』誌とともに隆盛に導き、反ファシズムの知識人の統一戦線結成に貢献した。  加藤は「ひとりゲーノのみならず、戦争に対し勇敢な反対を続けた者は、ことごとく広い意味での社会主義者であり、この戦争の時代にユマニテを正しく代表し得たものは、すべて、洋の東西を問わず、社会主義者の他にはなかった。この事実は、例を挙げるまでもなく実に明白であって、日本の場合には殊に著しい」と、社会主義者の反戦平和と人間尊重の姿勢を高く評価している。  ヒューマニズムが必然的に社会主義にいたるという発展は、ジャン・ゲーノ自身の思想遍歴がそうだった。加藤は別のところで、ジャン・ゲーノの思想を次のようにまとめている。  彼の立場は、本質的には広義のユマニスム。しかしミシュレ風の「ユマニスム・ロマンチック」は現実に対して無力だから、三十年代ヨーロッパの現実的条件を分析し、ユマニテを現実の中に回復しなければならぬ。それには、プロレタリヤ革命を通じて、社会主義へゆく他はない。革命の方法は、フランスの条件の下では、平和革命を期待し、必ずしも十月革命を模倣する必要はないというのが、主張の要点である。(東大フランス文学会編『フランス文学辞典』の「ジャン・ゲーノ」の項目。加藤周一執筆。全国書房、一九五〇年)    ここからわかるように、加藤はジャン・ゲーノが社会主義者であるとともに、公式主義者でないことを評価していた。  3,現代文学の根底を支える二つの思想  カトリックと社会主義(マルクス主義)を思想史的に関連付けるだけではなく、加藤周一は両者を、現代の課題にこたえる最も重要な二つの思想としてたびたび言及している。  「おそらく、カトリシスムとコムミュニスムとが現代の最も大きな問題であるが、その何れの場合にも本来実践的な性格行動の原理としての意味が何よりも明かであろう」(「サルトルと革命の哲学」=「文化タイムズ」一九四七年八月十一日号)  「殊にカトリシスムとマルキシスムとは、全人間的問題として、今日の文学の根底を支えている」(「現代フランス文学の問題−『現代フランス文学論』の序」『新文学』一九四八年六月号4)  カトリックとマルクス主義の二つが「今日の文学の根底を支えている」とは、面はゆいほどの過大評価の気もする。でも加藤の文学の師である渡辺一夫も「コミュニストとカトリシスムとが、今後の世界や人類を救うもの、否、新たな道を歩ましめるものと言われる」(「エゴイズムについて」『近代文学』一九四七年四月号)と書いているので、一九三〇年代から四〇年代のフランスでは、両者がそれほどの権威と影響力を持っていたのかもしれない。すくなくとも渡辺一夫と加藤周一が共有する見方だった。ファシズムに対して「神を信じる者も、信じない者も」という合言葉で共闘したフランス人民戦線の経験も影響しているだろう。  なぜカトリックとマルクス主義なのか。引用した渡辺一夫の文章の前後を読むと、その事情がわかる。  (二つの大戦によって・北村注)一切が意味を喪失した折に、我々人間の逞しい意識は、二つの岐路に立たせられる。一つは、人間社会の新しい型体の強制によって極めて現世的な人間処理を行おうとすることであり、二つは、「二つの極限」の間に釣り下げられた人間の存在を意識しつつ、その憎上慢を戒めつつ、形而上学的な統一を改めて行おうとすることである。一つは、外から、物質から、二つは、内から、精神からの再建設ないし改正を行おうとする。コミュニスムとカトリシスムとが、今後の世界や人類を救うもの、否、新たな道を歩ましめるものと言われるのは、こうした岐路の存在を意味するものと私は思っている。(同前)  戦争のなかで古い道徳・秩序が通用しなくなり、新しい秩序として、政治的には社会主義、精神的にはカトリックに大きな期待が集まっていたということである。  加藤周一も、そういう意味でカトリックとマルクス主義に期待していた。加藤は、第一次大戦後、もはや相対主義や懐疑主義を脱して、何らかの「信仰」を持たなければならないと何度も論じた。「歴史的相対主義から絶対的信仰へ、一九世紀から二〇世紀へ、時代精神は第一次大戦を境として革命的に変化する」(「革命の文学と文学の革命―『ユーロープ』誌の役割に就て」『人間』一九四七年九月号5)と書き、「一九世紀的歴史主義に反対する現代の思想が国民的問題に超越的な人間の問題を主な関心の対象とする」(「現代フランス文学の問題−『現代フランス文学論』の序」前出)と書いた。  ここで加藤が使っている「歴史的相対主義」「一九世紀的歴史主義」という言葉は注意を要する。これはマルクス主義が人間と社会の歴史性を強調する「歴史主義」の意味ではない。あくまで「相対主義」を指している。  4,「信仰の世紀」  加藤が現代における「信仰」の必要を、熱く全面的に語ったのが「信仰の世紀と七人の先駆者」(『人間』一九四七年七月号6)である。  最初に付記しておくと、加藤のいう「信仰」は宗教的意味ではない。「信仰の世紀と七人の先駆者」で次のように断っている。「私が、信仰の語を用いたのは、必ずしも宗教的意味に於てではない。濫用された信念の語を嫌って、fidesなるラテン語に、その他の適当な訳語を求め得なかったからである」。「必勝の信念」などと、戦争のために多用された言葉をそのまま使うことを避けた選択である。  ちなみに、『人間』掲載のこの評論で加藤は初めて原稿料をもらった。これ以前に、学生中心の『世代』、野間宏がつくった『黄蜂』、小田切秀雄らの『文学時標』、『近代文学』などに書いているが、それはすべて原稿料なしだった。  『人間』は川端康成と久米正雄が創刊し、鎌倉文士たちが多数執筆した、当時の人気雑誌だ。改造社の『文藝』の元編集者だった木村徳三が編集長で、後には、木村の『文藝』時代の上司だった小川五郎(筆名・高杉一郎)のシベリア抑留記『極光のかげに』を連載して反響を呼ぶ。しかし、部数減少と出版元の経営難で一九五〇年に廃刊した。  加藤は「私の売文業は、木村氏の好意と『人間』によって、はじまったのである。(中略)『人間』以後新聞雑誌の註文に応じて作文すれば、とにかく暮してゆくことができるようになった。私は医を業として文筆を道楽とするのではなく、文筆を業として医を道楽とする生活をつづけることになった」と、自伝『続羊の歌』7に書いている。当時、加藤は東大医学部の副手で、無給だった。当時の若手医師の地位は低く、よその病院の診察のアルバイトなどはしても、経済的に苦しかった。  話題を戻して「信仰の世紀と七人の先駆者」の内容を一瞥すれば、これは大変熱のこもった評論である。『1946・文学的考察』も熱気ある筆致だったが、あれは過去に対する怒りと批判の熱さであった。「信仰の世紀と七人の先駆者」は、建設と前進の意気込みにあふれている。  加藤周一があげる七人の先駆者とは、詩のヴァレリー、劇のクローデル、小説のプルースト、新教徒ジード、カトリック教徒ペギー、合理主義者アラン、汎神論的神秘家ロマン・ロランである。「七人の先駆者の意味を感じない者はない。しかし、その意味を、明らかに限定した者もいない」、ここで取り上げるのは「独断的な一面である。私には、その一面が、本質に見えるのだ」と、自説の独創性を強調する。  加藤は二十世紀について「生命と直観の立場による超歴史主義と、社会主義によって強調されるユマニスムの、一見、矛盾した対立がある。この対立は、そのまま、二〇世紀のヨーロッパに宿命的なものではないか」と書く。「形而上学的超歴史的人間の発見と、社会的歴史的人間の必要とは、前後の世界戦争に依って両面を強調されながら、時を追っていよいよ鮮明に、二〇世紀精神を貫く二本の軸のように、我々の眼にも見えるのではないか」  「形而上学的超歴史的人間の発見」と「社会的歴史的人間の必要」という二十世紀精神の二つの主題を、加藤はベートーベンの交響曲のように縦横に展開していく。実存主義哲学者アンリ・ベルグソンと社会主義者ジャン・ジョレスの対比、「この世紀が復活させた古典」「パスカルとマルクス」の双璧、「神秘主義8と社会主義の対立」「永遠の今と歴史的時間、実存的孤独と社会的責任」。  そして次のように、懐疑主義・相対主義から脱却した「信仰(信念)」こそ、二十世紀の精神だと説く。    (善悪、美意識、神、理性など、七人の先駆者それぞれが選んだ特定の価値を・北村注)如何なる証明が支え、如何なる論理が基礎づけているか。そんな証明は何処にもなく、そんな論理が存在するはずはない。しかも彼等の二〇世紀は、一人として、相対主義者でもなく、懐疑主義者でもなく、況やその上に立った知的乃至美的なディレッタンでもないのだ。先駆者の意味は、ここで、明らかである。(中略)先駆者たちは、前世紀末の懐疑主義と歴史的相対主義とを粉砕し、信仰により絶対へちかづく各々の道を切りひらくことによって、二〇世紀の先駆者であり、一批評家がいみじくも名づけた如く、正にこの世紀の精神の Wegbereiter(ドイツ語・先駆者、北村注)であった。信仰の世紀が、始る……。(『加藤周一著作集第一巻』三一三―三一四頁)    最後は、知識人の責任と実践の決意を掲げて締めくくる。  社会的危機は、懐疑主義の根底を脅かす。(中略)凡ての懐疑主義者は、己の存在の根底を脅かされるとき、為すこともなく危険を迎えるか、懐疑主義者であることを止めるか、二つに一つを択ばなければならない。そして、おそらく、後の一つを択ぶならば(中略)単なる懐疑主義の克服にとどまらず、更に、孤独を破り、「文化の擁護」のために戦うことが、知識人の社会的責任となるであろう。  (中略)  三〇年代の作家は(中略)先駆者たちが与えた二本の軸、超歴史的体験と歴史的責任との交る所で、或は教会に属し、或は地上の党派に属し、何れも戦闘的に、何れも実践的に生きているのだ。しかも、第二次大戦の後に、私が、ベルグソン・ジョレス問題として、二十世紀精神を要約した、超歴史主義と社会主義とは、その双方をいよいよ徹底させるであろう。(同前三一九―三二四頁)  ベルグソンは晩年カトリックに帰依し、ジョレスは社会党指導者として第一次大戦に反対して暗殺された。加藤がここで「ベルグソン・ジョレス問題」と名付けたのは、「形而上学的超歴史的人間」と「社会的歴史的人間」という「二〇世紀精神を貫く二本の軸」を二人の生涯が典型的に示しているからである。  加藤周一がカトリックと社会主義を今世紀最大の思想的課題と見ていたのも、「二〇世紀精神を貫く二本の軸」である「ベルグソン・ジョレス問題」を代表する思想だったからだ。    5,「イデオロギー」の力を信じて  『著作集第一巻』の「信仰の世紀と七人の先駆者」追記(一九七九年)で当時の考えについて振り返っている。    この文章をここに再録するのは、戦争直後の日本の知的雰囲気に対する私の反応を、そこに読みとることができるからである。知的雰囲気は、敗戦とからんでの、「シニカル」な懐疑主義、または政治とあらゆる「イデオロギー」に対する不信であった。私は私自身のなかにもあった懐疑主義を攻撃するために、戦時中に読んだフランスの作家たちの仕事から「信仰の世紀」を空想して、それを叙述するという廻り道をした。(中略)私の狙いは、第一に、現代の思想的問題が、歴史に超越的な経験と、歴史的社会のなかでの要請という二つの出発点(あるいはそこから出発しての二つの座標軸)を含んでいて、それを統合するのは不可能だろう、ということであり、第二に、それにも拘らず一般的な懐疑主義は自滅的な立場であるから、問題の解答は何らかの信条の上に築かれるほかなかろう、ということであった。私は今でもそう考える。(同前三二五―三二六頁)    超歴史的経験(とくに人間の自由意志の問題)と歴史的社会的要請の二つを「統合するのは不可能だろう」という言葉が目を引く。戦争直後の言葉では「宿命的」なほど「一見、矛盾した対立」と言っていた。不可能だからどうしようもないということではなく、不可能なほど困難だからこそ、そこに最大の思想的課題があるということだ。自伝『続羊の歌』9でも「敗戦直後に、私は『すべてのイデオロギーに懐疑的』になっていたどころではなく、今日までの生涯を通じてもっとも強く『イデオロギー』の力を信じていたのである」と書いている。  後に加藤周一がサルトルに注目し、繰り返し論じるようになるのは、「歴史に超越的な経験と、歴史的社会のなかでの要請」という二つの座標軸の統合を、サルトルが誰よりも深く考え、実践していたからである。(後述)  「追記」で加藤は、戦後直後の「信条」について「今でもそう考える」と書いているが、『続羊の歌』の記述からすると、その後「イデオロギー」の力をそれほど信じなくなったようにとれる。本当はどうなのだろう。一九七二年に書かれた「私の立場さしあたり」10から、そのあたりがうかがえる。  「価値について私は相対主義者であり、特定の価値を信じて疑わないのは、おそらく歴史と社会についての、また人間の生理・心理学的機構についての、情報の不足、無知の結果だろうとさえ、考えている」と書いており、イデオロギーとの距離は開いた気がする。「人は常に、合理的に基礎づけることのできない信念から出発する」と、何らかの信念が必要であることを認めて、ただの相対主義・懐疑主義からも距離をとる。その実践的結論は、「私の信念をまもるために、私自身が他人を殺すことを正当化できない」ことであり、「強き者」が、「自己の信念から導き出した結論を『弱き者』に押しつける」ことに反対ということだ。だから「特権階級が人民に対し、日本帝国主義が朝鮮半島に対し、アメリカ帝国主義が日本に対し」何かを押しつけることに反対すると書いている。  人間と人間であれ、国と国であれ、力によらない民主的関係に価値をおく「信念」に立っていたことがわかる。  少し先走りしたようだ。戦争直後に戻れば、加藤周一は「IN EGOISTOS」(『近代文学』一九四七年七月号11)でエゴイズム礼賛論を批判した。名指しはしていないが、おもに荒正人の発言に対する批判である。  荒正人は「エゴイズムを拡充したところに展開する、眼もはるかなヒューマニズムの新世界」(「民衆とはたれか」『近代文学』一九四六年三号)があると、エゴイズム賛美を打ちだした。これに対し加藤は「我々は、エゴイズムからヒューマニズムが出て来るとは考えない」「小市民的エゴの凝視が、イデオロギーに対する現実の尊重、『論理のことば』に対する『心理のことば』、政治に対する文学だとは、毫も考えない」と批判した。  加藤の批判の一つは、エゴイズムの強調が、カトリックやマルクス主義などイデオロギーの否定と表裏一体である点にあった。現実のエゴイズムが、孤独な相対主義・懐疑主義に陥る危険があるとすれば、当時の加藤の信念からいっても、批判は当然であった。さらに、ヒューマニズムの成立がエゴイズムの発展とは、歴史的にも何の関係もない点も批判した。何事も歴史的展開を踏まえて考える加藤にとって、思想史を閑却した独断的主張は我慢ならなかったのだろう。  加藤のエゴイズム批判は、これまで見てきた加藤の問題意識と一直線につながっている。ただ荒正人のエゴイズム論の発表の方が、加藤の一連の文章より早いことから、荒正人の誤ったヒューマニズム論に対する反発が、加藤のヒューマニズム論・信仰論を生み出すスプリング・ボードになったのかもしれない。  荒は直接反論しなかったが、二年後に、加藤周一が批判した「星菫派」とは、加藤の「自画像」ではなかったかと批判した。本多秋五もかかわって、いわゆる星菫派論争となる。しかし、それもまた別の話だ。  6,戦中・戦後のフランス文学との出会い  戦後最初の加藤周一の、カトリックとマルクス主義への期待、懐疑主義から脱却しようという信条をみてきたが、これらを書いた時、正確には一九四七年夏まで、加藤はまだ、ナチ占領下と戦後のフランス文壇の詳しい情報に触れていなかった。この時、加藤はおもに一九三〇年代の『ユーロープ』誌と『N・R・F』誌にもとづいて書いている。反ファッショ人民戦線を文化的にリードした両誌は、第二次大戦勃発で輸入がとだえるまでの分が、東大フランス文学研究室にあり、戦争中の加藤はそれを借り出しては読んでいた。フランスからの情報伝達の遅さという点でも、戦前の情報から戦後の思想を引き出した加藤の洞察力という点でも、驚くべきことである。  先に触れた『著作集第一巻』の「信仰の世紀と七人の先駆者」追記で「この文章には、知的鎖国のなかで暮していた筆者の時代遅れが、歴然と見える。一九四七年の春、フランスでの関心は、おそらく戦時中の『抵抗』と『協力』に集中していたはずだろう。またそのことと関連して、両大戦間の作家に対する評価も大いに変っていた。そういうことのすべては、私のこの文章に反映していない」と書いている。  さらに詳しく、「フランスから遠く、しかし……」(一九八一年12)では当時を回想して次のように書いている。  《N・R・F》と《ウーロープ》を中心とした第二次世界大戦までのフランス文学については、いくらかの知識が私にあった。しかし、その二つの雑誌に係わりのあった文学者たちの他に、どういう詩人や作家や芸術家たちがパリにいて、どういう活動をしていたのかについては、ほとんど何らの知識ももっていなかった。(中略)太平洋戦争の間、フランスとの交通は途絶え、雑誌も書物も輸入されず、文学や芸術に関する情報も伝わってこなかったときに、私はフランス文学を読んでいた。フランスが最も遠く離れていたときに、その文学は私の心にもっとも近かったのかもしれない。  一九四五年日本の降伏以降に東京の事情は変った。まず日本国外の情報が入ってくるようになり、私は私が専門としていた血液学の領域で、戦時中のアメリカでは眼のさめるような進歩があったことを、はじめて知った。また日本国がヒトラーと組んで「聖戦」に熱中し、文学を荒廃させていたときに、フランスではナチの支配に対する「抵抗」があり、その「抵抗」が詩と文学に活力をあたえていたことも、戦後はじめて知ったのである。(『加藤周一自選集第六巻』三二四―三二五頁)    ナチ占領下のフランスでわきおこった「抵抗」の文学を最初に知ったのは、一九四七年七月だ。その時、東京の日仏会館で現代フランス書籍展が開かれた。加藤は「戦前沈黙していた詩人が、俄に活気をとり戻し、戦前知られていなかった新しい作家が競い興る未曽有の壮観を、私は日仏会館の書籍展覧会で知った」(『続羊の歌』、以下しばらく同書から)と振り返っている。  「『抵抗』の文学との接触は、日本の『後れ』への私の確信を強めたばかりでなく、また私自身のフランス文学理解の『後れ』をも自覚させずにはいなかった」。カトリック作家のモーリアックが「共産主義者と手を組んで『抵抗』の作家組織に投じるだろうとは、想像することもできなかった」。ルイ・アラゴンの美しい詩も、ドイツ軍に協力してフランス解放とともに自殺したドリュ・ラ・ロシェルの行動も、「それぞれの作家について私がもっていた像から理解することは困難であった」。「戦後俄にあらわれて一世を風靡しようとしていたジャン=ポール・サルトルやアルベール・カミュの文学が、それまでの文学の概念からははみ出していて、読み方を変えなければ、核心をつかみ難かった」。  そして、なにより「小説作法の技巧上の問題よりも、より根本的な問題から出直す必要があった」と書く。「より根本的な問題」とは人間観の問題を指す。    7,『抵抗の文学』    「抵抗」の文学から加藤周一が、どのような人間観を受け取ったのかを知るために、『抵抗の文学』(岩波新書、一九五一年三月13)を見たい。この本は、当時入手できる情報でという限界はありつつも、フランスのレジスタンス文学をいち早く紹介し、よく読まれた。当時の加藤の主著といってもいい。  まず加藤は詩から始める。「フランスの抒情詩そのものが、抵抗とともに、フランスの国民的感情のなかへ帰ってきた」(『抵抗の文学』、以下しばらく同書から)と説いた。  抵抗の詩人を代表するアラゴンは、「もっとも深い感動ともっとも単純な形式との比類のない結合」を実現し、祖国愛が個人的愛情と一体となり、単純な形式と複雑な韻律を併せ持つ、美しい詩を書いた。そして「フランスの人民の心と、フランスの詩の伝統とを一挙につかんだ」「彼が、彼自身の立場において、人間の観念をつかんだ」と論じた。  さらにエリュアールの詩「自由」を取り上げた。「生徒の手帖に/学校の机や樹々に/また砂の上雪の上にも/ぼくは書くお前の名を」ではじまる、有名なこの詩は「ほとんど童謡のように単純な形式のなかに日常的な単語を生かして、強い効果を生んでいる。(中略)彼は、抵抗が要求する民衆の詩の形式を、自らふんできた道の上にそのまま発見することができた。そうすることのできた詩人は、エリュアールを措いて他にないのである」と書いた。  より年若い、抵抗のたたかいと英雄的行為をうたった詩人にもふれ、「浪漫主義以来の詩人がうたった個人的感情を超えて、彼らは、時代の魂をうたったのである」と書いた。ボードレールから始まり「ヴァレリーが極限まで洗練した象徴主義的方法とその後の避け難い不毛」は「民衆と頒ちもつあたらしい体験によって、はじめて破られた」と指摘した。  そこでは、孤独と孤独とがむすばれていたので、もはや、個人主義的な意味での、たとえば隠棲したフロオベルと同じ意味での孤独は、ありえなかったのである。詩人は、自己の体験から出発する時、フランスの人民とともに出発する他はなかったともいえよう。もしそうでなければ、象徴主義が前後に比類のない精密な方法によって到達した行きどまりに、突然新しい道のひらけるはずもなかった。新しい道は、新しいイデオロギーによっても、まして新しいスローガンによってもひらけない、新しい体験によってしかひらけないのである。(『抵抗の文学』一〇五頁、『著作集第二巻』六三頁)  続いて加藤はヴェルコール『海の沈黙』やボーヴォァール『他人の血』の小説と、カミュやサルトルなどの劇作を論じる。これらの小説・戯曲の描くのは、近代文学が一貫して主題としてきた人間体人間の対立、心理的対立・葛藤ではなく、「現実と精神、運命と自由、超越者と人間の対立」だという。  アヌイ「アンチゴーヌ」が描くのは、現実を受け入れて服従する「現実主義」と、自由を求めて反抗する「理想主義」の対立である。サルトル「蠅」が描くのは、「神の秩序への服従と(中略)神に反抗する人間の自由との対立」であり、「同じ対立がキリスト教的な世界観と無神論的自由の哲学との対立も意味する。劇的対立の本質は、人間と人間に超越的なものとの対立」なのである  大戦と抵抗をくぐり抜けた現代は、神託による運命とそれに抗う人間の対立を主題としたギリシャ悲劇的世界なのだ。  また、加藤はこうした対立が解決困難な対立だという。それは、「考え方のちがい」でも「性格の違い」でもなく、「心理や性格を成立させる現実的根拠」の違いだからだ。  「たとえぱ、サルトルが『実存主義はヒューマニズムである』に引いた少年の例、ナチスと戦うために母親を絶望につきおとすか、頼るところのない母親を助けて戦いを棄てるかという場合、すなわち、効果がたしかで直接的だが個人のための行為か、効果が不確実で間接的だが全体のための行動かという揚合は、個人的なものと社会的なものとの矛盾のあらわれとも見られよう」と書いている。    8,新しい人間観    「抵抗の体験が、文学にもたらしたものは、詩において、小説において、また劇において、近代的個人主義的人間観の否定にまで導かれる人間の観念」だと加藤は書く。  そして、「近代的人間観に深く根ざし、離れがたく結びついている小説的表現も、根本的に修正されなければならない」。しかし加藤は、それが簡単ではないことも十分知っていた。「おそらく市民社会とともにはじまった小説の歴史、散文による表現という約束、読者がそれぞれの孤独のなかで小説を読むという事情は、問題を困難にしている主な条件であろう」。  本書の最後に加藤は重ねて論じている。「抵抗のなかから生れたあたらしい人間のイマージュが、第一に社会的連帯性によって特徴づけられているとすれば、第二に、人間の自由の主体的自覚によって特徴づけられている」。「立場を自由に選ぶとは、何らの前提なしに選ぶということであり、前提なしに選ぶということは、究極において、他の立場から出発した人間を説得することは不可能だということである」  「新しい人間は、市民階級のなかにではなく、人民のなかに、新しい人間の現実は、世界が究極においてそのなかに還元される、人間と世界とのあるいは人間と人間を超えるものとの緊張関係のなかにあるだろう」として、人間は「神と、あるいは社会と、あるいは歴史と」の対立・緊張関係に置かれているのが現代の最大のテーマなのだと論じている。  加藤の言うことを整理すると、「抵抗」の文学が示した新しい人間観とは、一方で社会的な束縛をうけつつ、他方で本来的に自由な人間である。社会の共同の使命のために、自己の命を犠牲にしてもいとわない存在であるとともに、社会的大義と個人的安寧のどちらをとるかを、自由に選ばなければならない存在である。この人間は、社会や歴史という、自我を超越して存在する世界と対立するともに、運命や倫理などの形而上的な超越者とも対立している。人間は二重の意味で、超越的存在と緊張関係におかれているというのだ。  よく見ると、ここでも「三つ子の魂百まで」というべきか、「抵抗」の文学を知る前と知った後で、意外に問題意識は変わっていない。「抵抗」の文学を知る前に論じていた「信仰(信念)」の問題は、『抵抗の文学』の「立場を自由に選ぶ」問題に直結しているし、以前のいわゆる「ベルグソン・ジョレス問題」、つまり「形而上学的超歴史的人間の発見」と「社会的歴史的人間の必要」という「二十世紀精神の二つの主題」も、『抵抗の文学』の「自由の主体的自覚」と「社会的連帯」という新しい人間観の二つの特徴にそのまま移し替えられている。  『抵抗の文学』の前でも後でも、加藤は戦争体験の中からつかんだ自分自身の問題意識を一貫しているのだ。『続羊の歌』で書いていた「私自身のフランス文学理解の『後れ』」と「より根本的な問題から出直す必要があった」という言葉には、加藤一流の誇張も含まれていた。    9,自分と同じ魂をサルトルに見た    そして、こうした一貫した問題意識から、加藤がフランス現代文学・思想のなかで最も注目したのがサルトルだった。  加藤周一が考えた二十世紀の最大の思想的課題と、サルトルの取り組んだ課題がピタリと重なっていることは、今まで示した引用からもうかがえると思う。  加藤のサルトルに対する関心はずば抜けて高く、サルトルについて数多く書いている。『著作集』と『自選集』にあるだけでも、ダブりを除いて八本。なかでも「サルトル私見」(一九八四年14)は、『著作集』で百七十頁余の本格的サルトル論である。それ以外にも、戦後の五年間だけで、大小十本の原稿を書き、サルトル『文学とは何か』の翻訳もしている。  加藤周一は、一人の作家、思想家について一、二度しか書かないことが多く、繰り返し論じるのは例外的だった。例えば、高校から大学時代に傾倒したヴァレリーでさえ、本格的に論じたのは、著作集で十数頁の「ヴァレリイ頌」(『詩人』一九四七年五月号15)一つしかない(それ以外に、晩年の講演一つ、「夕陽妄語」で一回)。夏目漱石論は、短い「漱石に於ける現実」(『国土』一九四八年三・四月号16)しかない。取り上げた回数で言えば、森鴎外、木下杢太郎、サルトルの三人が多いが、とくにサルトル論の数は群を抜いている。  なぜサルトルなのか。加藤は「サルトル私見」の冒頭でみずから次のように述べている。    サルトルの思想的世界において――ということは、その文学的世界において、ということと、切り離しては考えられないが――、私が今評価しているのは、主として次の二点である。  第一点は、その手法に係り、世界的・特殊的なものと、抽象的・普遍的なものとの間に、絶えず行われる弁証法的な操作である。(中略)  第二点は彼が解こうとした問題に係る。それは、世界の客観的な秩序と個人の経験のかけ替えのなさ、歴史の過程と人生の一回性、その二つの軸の交るところに位置づけられた人間の全体を、いかに理解し、叙述し、意味づけるかということである。私はそれがわれわれの時代の中心的問題であると考え、さらに時代の中心的問題に正面からとり組んだのがサルトルであったと考えて、したがってサルトルが今世紀最大の哲学者の一人であった、と考える。優雅だったからではない。しかし同じ問題を彼よりも優雅に解いた思想家はいなかった。 (『著作集第七巻』一七四―一七五頁)    ここに語られたサルトル評価の第二点、「世界の客観的な秩序と個人の経験のかけ替えのなさ」の対立とは、まさに何度も指摘してきた、当時の加藤周一の最大のテーマ「ベルグソン・ジョレス問題」にほかならない。このテーマを、加藤はサルトルやフランスの「抵抗」の文学を知る前に熟考していた。サルトルを知った時、加藤周一は自分と同じ魂の持ち主を、遠く離れたフランスに見出したのではなかったか。  戦後最初の五年間における、最も重要なサルトル論としては、さきの『抵抗の文学』に含まれている部分以外に、「サルトルの『自由の道』−小説の運命」(『展望』一九五〇年三月号17)をあげておきたい。  近代心理小説の伝統と、近代的市民的人間観の上に近代小説は成立し、プルーストで頂点に達するとともに、袋小路にいたった。そこから抜け出るために、ソ連のエレンブルグが外部から近代小説を否定したとすれば、内部から否定したのがサルトルだと加藤周一は論じている。  「存在は本質に先だつ」という命題が、サルトルの実存主義の出発点である。「彼は、中世以来の『本質が存在に先だつ』という原理にもとづく人間観そのものを否定する」、そして「市民階級の原理を否定し」、「心理分析の手法を否定」し、「プルーストを否定する」。「プルーストの哲学が、観想的であり、過去に向っているとすれば、彼の哲学は、行動的であり、未来に向っている」のだ。  そして全四巻のうち三巻まで刊行されたサルトルの小説『自由への道』について書く。主人公は生活の一瞬一瞬に「二者択一の避けられぬシチュアシオン(状況・位置)」におかれて「小市民として絶えず自己を択んでいる」。「原理的には、人間は、そのあらゆる行為において、自己を択ぶが、それがもっとも現実的に自覚されるのは、社会的問題と個人的問題とが交るばあいにおいてである」。この社会的問題と個人的問題が交わらずにはいない「現代という時代のシチュアシオン」を描いたところに、サルトルの人間観と、小説の真のリアリティがある、というのが加藤の論の中心である。  「このような戦争は、人間に超越的なものである。神はなくても、戦争は存在するばかりでなく、神のように存在するのだ。各人は自由だが、自己に超越的なものが外から迫ってくるときに避けて通る自由をもってはいない」  ここで、加藤周一が『抵抗の文学』で論じた、社会的でかつ本来自由な新しい人間を、サルトルが書いていることが分かる。少なくとも、加藤周一はそう読み取り、サルトルこそ「新しい人間観」に基づく「新しい文学」のトップランナーだと考えた。  もう一つ、「サルトルの位置づけ」(『展望』一九四九年七月号18)では「サルトルの文学史的意味を一言でつくせば、古典主義に対する反逆である」と評した。そして、サルトルのデカルト批判の重要性を強調した。「デカルトのなかには近代思想の基本的な原理が殆どすべて含まれている。従ってデカルト批判は、古典主義批判にとどまらず、近代そのものの批判である」「サルトルの思想史的意味は少なくとも一面は、デカルト的近代的人間観殊にその自由の観念の徹底的批判者としての意味だと云ってもよい」と書いた。  本論の初めでふれたように、加藤周一は、理性尊重と人間平等の二つの思想を統合したのがデカルトであり、近代ヒューマニズム思想がそこから始まると論じていた。加藤はデカルトこそ近代思想の原点だと知っていたからこそ、そのデカルトを徹底的に批判し、新しい人間の自由の哲学を構想したサルトルを、驚嘆と共感の思いで読んだに違いない。  加藤周一がサルトルに見出したものは非常に大きく深い。カトリシスムとマルクス主義の対立という加藤の最重視した思想的課題は、サルトル自身が格闘した課題であった。政治的にフランス共産党は有力でも、思想としてのマルクス主義が日本のように強くないフランスでは、それは稀有で誠実な行為だったことを、加藤は後の「サルトルと共産主義」(『世界』一九五七年五月号19)で論じている。  加藤周一はいろいろな形でサルトルから影響を受けた。例えば『羊の歌』(一九六六年)が、サルトルの自伝『言葉』(一九六四年)と似たところがたくさんあることを海老坂武『加藤周一』(岩波新書)は指摘している。連載コラム「夕陽妄語」は、サルトルが書き続けた時事評論「シチュアシオン」を念頭に置いていたかもしれない。  しかし、加藤周一がサルトルを高く評価し、時に影響を受けつつも、サルトルのエピゴーネンに陥らず、自らの個性を完成させていったところに、加藤周一の選択があった。  しかし、それはまた別の話である。   おわりに――若干の蛇足的補足  加藤周一は『現代フランス文学論T』(一九四八年)の「序(現代フランス文学の問題)」で、フランス文学の中の「第一 社会的問題」「第二 美学的問題」「第三 宗教的問題」の三つを考えると予告していた。本稿は第一の「社会的問題」と、第三の「宗教的問題」に集中したことをお断りしておく。  本稿の注記が『現代フランス文学論T』を多く参照しているように、この「T」と番号を振った本自体が、第一の「社会的問題」を扱った論をまとめている。同書の「あとがき」で「私はここにあつめた文章を一九四六年春から一九四八年春にかけて二年の間に書いた。その度に雑誌に発表したが、およそ『序』に説明した意図の下に、一定の秩序に従って書いたのである」と、執筆にあたって大きな構想があったことを語っている。  おそらく、加藤は続いて刊行する「U」で、第二の美学的問題、「V」で第三の宗教的問題をまとめる構想だったのだろう。だから、当時すでに発表していた「ヴァレリー頌」や「象徴主義的風土」など、いくつもの重要な評論を「T」に収めずに、残している。また、本稿で詳論した「信仰の世紀と七人の先駆者」は、第三の「宗教的問題」の総論にするつもりだったのだろう。  しかし、加藤が次に刊行した『現代フランス文学論』(一九五一年)は「U」となっておらず、不整合だ。それは「T」を出したときの構想をそのまま持続できなかったせいである。  『現代フランス文学論』の「あとがき」で、「今できあがった本の形ははじめに考えていたようなものではない。五年間に当方の文学に対する考え方が変り、文章のつくり方にもそれがはっきりとあらわれるような状態で、よく統一した概観をしあげることなどは、もともとできない相談であった」と書いている。  現に、『現代フランス文学論』は、象徴主義関連の「美学的問題」を論じた評論といっしょに、ヴェルコール、サルトルなどを取り上げた「社会的問題」に分類すべき文章も再び入れている。「宗教的問題」の位置づけも変わったようで、「信仰の世紀と七人の先駆者」は収録せず、文学論ではない「戦後のカトリシスム」を一本だけいれている。三つの問題をバランスよく論じるという当初の構想とは別物である。  本論で指摘したように、「抵抗」を体験したフランス文学の激変によって、加藤自身が描いた見取り図がくるってしまい、加藤の「現代フランス文学論」概観は未完に終わった。しかし、残された文章から、私たちがその概略をつかむことは可能だ。私の文章はその一つの試みである。  つけくわえておけば、すでに描いていた構想よりも新しい変化への対応を優先したことは、時代の動きに敏感な加藤周一のジャーナリスト性をよく示してもいる。  なお、象徴主義の詩人を中心とした第二の「美学的問題」を論じるのは、私の手にあまる。『加藤周一著作集第一巻』の第W部にこの主題の評論がまとまっているので、関心のある向きは参照してほしい。これらについて海老沢武『加藤周一』(岩波新書)は、「加藤の読解にはカトリック神学の影響がきわめて強い」と指摘している。  「リアリズムと小説」や「定家『拾遺愚草』の象徴主義」など、当時の加藤周一の日本文学論にも、フランス文学研究の影響があることにも触れたかったが、他日を期したい。 1 「ヒューマニズム義解」と改題し『現代フランス文学論T』(銀杏書房、一九四八年十月)所収 2 『吉満義彦全集第五巻』解説(講談社、一九八五年一月)、『加藤周一自選集第七巻』(二〇一〇年三月、岩波書店)所収 3 「ジャン・ゲーノと批評」と改題し『現代フランス文学論T』(同前)所収 4「序(現代フランス文学の問題)」として『現代フランス文学論T』(同前)所収 5 「文学の革命と革命の文学」と改題し『現代フランス文学論T』(同前)所収 6 『加藤周一著作集第一巻』(平凡社、一九七九年二月)所収 7 『朝日ジャーナル』一九六七年連載、岩波新書一九六八年九月刊行。『加藤周一著作集第十四巻』(平凡社、一九七九年九月)所収 8 神秘主義という言葉を加藤は悪い意味で使っていない。小論「神秘主義解義」(「東京大学新聞」一九四八年一月十五日号)で、神秘主義は、フランス語のmystiqueの訳語であり、「原語に少しも悪い意味が含まれていない場合、訳語が悪い意味でしか用いられないとすれば、奇妙なものであろう」と書いている。「神秘主義は、本来宗教的な概念で、もっとも普通には、体験的な神の認識であると言われる。更に、普遍化すれば、絶対者との魂の合一の体験である」「神秘主義は、知性と対立するものではなく、知性を含むもの、知性による認識を完成し、根拠づけるものとして、ヨーロッパ精神の生成に常に本質的な役割を演じた」と書いている。「ベルグソンによる合理主義の攻撃、リルケ、ヴァレリー、ロマン・ロランの神秘主義のどこにも反動的なものはなく、彼等こそ我々の世紀の知性を代表している」としている。ちなみに前出の東大講師・吉満義彦も神秘主義をたびたび論じた。 9 注7参照 10 「朝日新聞」(一九七二年一月十七日付―二十一日付)初出。『稱心獨語』(新潮社、一九七二年九月)、『加藤周一著作集第十五巻』(平凡社、一九七九年十一月)所収 11 『文学と現実』(中央公論社、一九四八年九月号)所収 12 ベルヴァル、矢島翠編訳『パリ一九三〇年代』(岩波新書、一九八一年七月)序文。矢島は加藤の妻。『加藤周一自選集第六巻』(岩波書店、二〇一〇年二月)所収 13 詩人を論じた「途絶えざる歌」の章のみを『加藤周一著作集第二巻』(一九七九年十月)所収 14 『人類の知的遺産77 サルトル』(講談社、一九八四年四月)。『加藤周一著作集第十六巻』(一九九六年十二月)、『加藤周一自選集第七巻』(岩波書店、二〇一〇年三月)所収 15 「ポール・ヴァレリー」と改題し『現代フランス文学論』(河出書房、一九五一年)、『加藤周一著作集第一巻』、『加藤周一自選集第一巻』(岩波書店、二〇〇九年九月)所収 16 「夏目漱石に於ける現実」と改題して『文学と現実』、「漱石に於ける現実」に戻して『加藤周一著作集第六巻』(平凡社、一九七八年十二月)、『加藤周一自選集第一巻』所収 17 「ジャン・ポール・サルトル――『自由への道』と小説の運命」と改題し『現代フランス文学論』、『加藤周一自選集第一巻』所収 18 『加藤周一著作集第二巻』所収 19 『現代ヨーロッパの精神』(岩波書店、一九五九年二月)、『加藤周一著作集第二巻』、『加藤周一自選集第二巻』(岩波書店、二〇〇九年十月)所収 --------------- ------------------------------------------------------------ --------------- ------------------------------------------------------------ 16