「新しき星菫派」と小林秀雄    ――加藤周一論ノート(1) 北村隆志  【はじめに】  加藤周一が亡くなってもうすぐ七年とはいえ、加藤周一を読む喜びはいまだに新しい。  例えば、大江健三郎のノーベル賞受賞について。もう一人の日本のノーベル賞作家と比較して、「川端康成は感覚的な美の自己完結的空間を創った。大江健三郎は文学的空間を普遍的な地平線へ向って解放した。川端は『美しい日本』について語り、大江は日本の苦悩を語ることで同時代の人類社会の苦悩を語ったのである」(「川端康成から大江健三郎へ」朝日新聞一九九四年一〇月二〇日夕刊)  戦後の象徴天皇制について。ニューヨーク・タイムスへの一九七五年の寄稿では、天皇に対する日本国民の意見が大きく割れていること、その背景に戦争体験があることを説明し、「少なくとも現状では、日本の天皇は国民統合の象徴ではないし、その役割を果たすこともできない」と喝破する。平成天皇に代替わりしたことの変化とともに、毎春の卒業式ではいまも、日の丸・君が代が「国民分断の踏絵」にされていることを考えさせられる。  さらに代表作『日本文学史序説』をひもとけば、古今東西の文学的社会的知識に裏付けられた、独創的な批評に満ちている。「大岡昇平は、『レイテ戦記』という『平家物語』以来の戦争文学の傑作を作った」などという大胆な断定を、ほかの誰ができるだろうか。  あるいは同書での鶴見俊輔について。学生時代を過ごしたニューディール期のアメリカから受けた深い影響を見抜き、「周囲の日常的な現実の中に新しい問題を発見する」水際立った問題発見能力が、「精神の一部分が異文化のなかで形成され日本の文化からの知的距離をとるのに自由だろうということ」と不可分だと指摘する。ここでは、軍国主義日本を嫌って、フランス文学や古代ギリシア・ローマ文学に徹底的に沈潜した、加藤周一自身の思想形成にも通じるものを見ているのだろう。  さらに、「鶴見はまた独特の行動様式も発明した。それはアメリカの三〇年代の『自由主義者左派』の信条を、日本社会のなかで、徹底して生きとおすということである」「三〇年代のアメリカが、六〇年代の東京でヴェトナム戦争に反対してアメリカ大使館のまえに坐りこむ人間を作ったのである」という指摘も、見事というしかない。    さて、このような独断的な引用を重ねても、加藤周一を語るよりも、加藤周一を通して私を語ることにしかならないようだ。実際、ここに引いたのは戦後文学と政治論に偏っており、加藤周一の幅広い関心と文業のごく一面に過ぎない。  加藤周一の全体像に迫るには、その最初期からの著作を丁寧にたどるのが、面倒なようで、一番の近道である。近道と言っても、六〇年を超える精力的な文筆活動をたどる道のりは長い。今回はその長い道のりのまず第一歩である。  【複合的な戦後第一声】  加藤周一の戦後第一声は複合的で一つに絞れない。後年の幅広い活動を予告するかのようである。  加藤周一が評論家として世間に知られるようになったデビュー作は、中村真一郎、福永武彦といっしょに、一九四六年に雑誌『世代』に連載したコラム、それを一冊にまとめた『1946 文学的考察』(四七年)だった。とくに初回の「新しき星菫派に就いて」(四六年七月号)は、加藤の個性を鮮烈に示している。自伝『羊の歌』に、待ち望んでいた終戦を迎えて「私は歌い出したかった」と書いているように、加藤は歌い始めた。  本書で加藤は、ドイツの亡命詩人の詩や、古代ローマの詩人が描いたトロイア戦争を語りつつ、日本の戦争を支えたすべてのものを、徹底的に批判している。戦争を支持した知識人を罵倒し、古い日本的なものの一掃と民主主義革命を訴えている。  加藤は後年の『加藤周一著作集』(全二四巻、平凡社、一九七八―八〇、九六―九七、二〇一〇年。以下『著作集』と略)第八巻の「追記」で、これを「怒りの抒情詩」だと書いている。  「戦争は自然の災害ではなく、政治的指導者の無意味な愚挙である、と考えていた私は、彼らと彼らに追随し便乗した人々に対し、怒っていた。その怒りは、しばしば性急な形で、憎悪・軽蔑・弾劾として、九つの文章のなかにぶちまけられている。私はそれを誰のために書いたのだろうか。おそらく誰のためでもなく、自分自身のためであったのだろう。『1946 文学的考察』は、私にとって、何よりも怒りの抒情詩であった」  ただし、戦後最初に発表した文章は他にある。「ジャン・リシャール・ブロック」(『文学時標』一九四六年三月一五日号)と、「天皇制を論ず」(『大学新聞』同年三月二一日号、筆名・荒井作之助)である。  前者は、ナチス・ドイツに対するレジスタンスをリードしたフランスのコミュニスト作家を紹介した短文である。『文学時標』は『近代文学』同人内の「左派」(荒正人、小田切秀雄、佐々木基一)が創刊した文学新聞で、「文学検察」欄をもうけて文学者の戦争責任を一人一人名指しで追及した。その意義は大きい。「文学検察」欄に加藤は横光利一を書いている(同年四月一日号)。戦争直後の加藤周一は、きわめてラジカルで戦闘的だった。  日本近現代史が専門の成田龍一が「加藤の言論活動は、戦時を否定し、あらたな環境=解放としての「戦後」に真正面から向き合うものとして始まりました」(『加藤周一を記憶する』講談社現代新書、二〇一五年、三一頁)という通りだ。しかし、まだ無名の加藤がどういうつながりで『文学時標』に誘われたのかはわからない。  後者の「天皇制を論ず」は、天皇制の廃止を大胆に訴えた文章である。  この文章の一ヶ月前の二月一日、毎日新聞は政府内部の憲法改正案をスクープしていた。その第二条に「天皇は君主にして此の憲法の条規に依り統治権を行ふ」とあるように、旧態依然の内容だった。このように、当時、まだ天皇制廃止に踏み込む議論は日本共産党をのぞいてほとんどなかった。そのなかで、加藤周一の「戦争の原因は天皇制である」「天皇制はやめなければならない。しかも出来るだけ速やかにやめなければならない」と言い切る先駆性は目を見張るものがある。と同時に、他の文章と違って「天皇制を論ず」が筆名を使っていたことは引っかかる。成田龍一は「加藤も、当初は「天皇制」を論ずることに慎重であったのではないか、と思われる」(同前、四五頁)と指摘している。  編集者として加藤周一をよく知る鷲巣力によれば、筆名の荒井作之助とは、「追分で世話になった農民」の名からとったそうだ。このペンネームには「虐げられてきた農民の立場で天皇制を論じたということに違いない」(鷲巣力『加藤周一を読む』岩波書店、二〇一一年、三七頁)と推測している。私も同感する。  鷲巣力は「天皇制を論ず」と「天皇制について」(『女性改造』創刊号、一九四六年六月、筆名荒井作之助)、「新しき星菫派に就いて」は、同時期に書かれ、内容も互いに響き合う関係にある「三点セット」だという(同前、三九頁)。「加藤の戦後における言論の原点、あるいは作家=知識人としての出発点に位置し、それゆえにきわめて重大な作品群である」と位置づけている。 【「星菫派」とは誰か】  「新しき星菫派に就いて」で、加藤は「戦争の世代は、星菫派である」と書き始める。  「星菫派」とは、「寸毫の良心の呵責を感じることなしに、最も狂信的な好戦主義から平和主義に変り得る青年」、「総てのよき芸術にかなり深い理解を示し」「かなりの本を読み、相当洗練された感覚と論理を持ちながら、凡そ重大な歴史的社会的現象に対し新聞記事を繰り返す以外一片の批判もなし得ない青年」のことである。  これを、加藤周一より少し上の世代のこととうけとめる向きがあるが、それは違う。加藤は、一九三七年十二月の「南京陥落」と「人民戦線大検挙」によって「戦争の影響が凡ゆる方面に決定的となった後に二〇歳に達した知識階級は、その情操を星菫派と称ぶに適しい精神と教養との特徴を具えている」と書いている。一九一九年生まれの加藤と同世代、およびその下の世代のことだ。  星菫派が持つのは「現実に対して無力な哲学、歴史を判断することの出来ない思想」、「要するに星菫派は無力であるのみならず無学である」と厳しく批判し、「筆者は衷心からその流行の中絶と、彼らが理性の道へかえることを希望している」と皮肉交じりに締めくくった。  この情け容赦のない批判は、一部の反発も招いた。少し後だが、『近代文学』同人の本多秋五からは「この人たち(加藤周一たち三人・北村注)の内部に星菫派が住んでいたことは、よくも悪くもない。事実である」(『物語戦後文学史』一九五九年初出)と批判された。加藤はただちに「それは出たらめというものである。本多さんにとっては、帝国主義戦争を帝国主義戦争とみるかみないかということが、戦争中の青年の態度をわけるときに、わけ方の要点とはならないのだろうか」と反論した。(「文学的自伝のための断片」一九五九年)  たしかに、加藤周一たち三人にも「星菫派」の一面があった。それは、芸術に対する深い理解であり、広範な(特に西ヨーロッパ文学の)教養である。ある意味では観念的ともいえる、洗練された感覚と論理で彼らが抜きんでていたからでもある。例えば加藤が星菫派について「彼等は狂信家の騒動から面を背けて静けさと孤独とを求め、転変する政治と歴史とを去って永遠の詩と哲学とを求め」たと書くとき、そこに戦時下の日本で精神的亡命を図っていた加藤周一――フランス文学と日本中世の古典を読みふけり、「マチネ・ポエティク」のグループでソネット型の抒情詩を試みていた――の一半の自画像を読み取らない方が難しい。  もちろん正しいのは、自分たちは星菫派ではないという加藤である。メルクマールは芸術への深い理解の有無ではなく、軍国主義を支持したか否かにあるからだ。前出の『著作集』第八巻の「追記」で、「当時の日本におけるリルケの愛読者には、軍国主義を支持した者と、しなかった者がある」と補足し、星菫派として批判したのは後者だという。続けて「殊に四五年八月まではリルケ+軍国主義で、同年九月からはリルケ+平和主義に変るのに至って滑らかであった私と同じ年齢層のリルケ愛読者に、私はほとんど吐気を覚えていた」と書いている。  成田龍一は、加藤の星菫派批判の目的の一つとして「堀辰雄や片山敏彦らの救出」をあげている。「加藤は『四季』派の詩人たちを分節し、堀辰雄=片山敏彦は、戦争に加担しなかったことをいおうとしていた」という指摘は傾聴に値する。(同前、五七−五八頁)。  【感性と知性の統一という芸術観】  加藤周一より八歳下の中村稔は、当時、『世代』発行の中心となった一高国文学会の中にいた。中村は証言する。「「新しき星菫派に就いて」が『世代』創刊号に載ったときも、当然すぐ読んだし、読んでたちまちうちのめされるような衝撃を覚えたのだった。つまり「星菫派」として批判されたのは、僕をふくめた僕の周囲の仲間たちであり、もっといえば旧制一高の教養主義的文化人ないしその卵たちであった」(『著作集』第八巻月報)  このように、「新しき星菫派に就いて」は、戦争中の日本の知識層青年に対する批判として読まれてきた。しかし、私はそれだけではないと思う。ここには生涯を通じて変わらなかった加藤周一の文化芸術観が典型的に表れている。  何度も参照して恐縮だが、『著作集』第八巻「追記」で加藤周一自身が書いている。「文化について、私が殊に強調したかったのは、「新しき星菫派に就いて」にもあきらかなように、戦争と軍国主義の批判に役立たぬような文学的または哲学的な教養は信用できない、ということである」。  一言で言えば、すぐれた芸術には、感性だけでなく知性も必要だという加藤周一の芸術観である。それは冒頭に引いた川端康成と大江健三郎を対比した文章にも表れている。  驚くべきことに、一七歳の加藤周一が書いた、現在確認できる最も早い発表原稿にも、同じ型の芸術観が見られる。旧制一高の寮内新聞『向陵時報』に、藤澤正の筆名で書いた「映画評ゴルゴダの丘」だ(一九三六年一二月一六日号)。鷲巣力著『加藤周一を読む』(岩波書店、二〇一一年)で初めて全文が紹介された。『著作集』にも、『加藤周一自選集』(全一〇巻、岩波書店、二〇〇九―一〇年、以下『自選集』と略)にも収められていない。これらの著作選集の刊行時にはまだ発見されていなかったからだ。  映画「ゴルゴダの丘」は、古典フランス映画の巨匠の一人、ジュリアン・デュヴィヴィエ監督の一九三五年の作品である。題名からもわかるように、『聖書』のキリストの受難が題材になっている。  加藤は書き出しから「この映画にはかりにも批判と名づけ得べきものゝ片影だにない」と、厳しい。では、全く見るべきものがないのかというとそうではない。「映画は或は優美な、或は荘厳な、無数の素晴らしいカツトに充ちてゐる」「(監督の)デユヴイヴイエの詩が溢れるばかりに湛えられてゐる」と、その映像美には最大限の賛辞を与えるのである。  結論は「要するにジエリアン・デユヴイヴイエの大衆性と芸術性の特徴が最もよくあらはれた映画として興味がある。その絵画的効果は無類の美しさであり、その作品内容は二千年来のマンネリズムを墨守して歴史の含む多くの問題――それは勿論現代のうちにも生きてゐる――には全く批判と洞察のめをつむつてゐるのである」で終わる。  この文章を紹介した鷲巣力も「ここには後年の加藤の文章や考えかたの特徴が早くも見られる」「「三つ子の魂百までも」というべきか」(同書一七頁)と驚いている。その特徴として、「分析する対象の「核心」を衝こうとする態度」、「対句的表現」「現代の問題が描かれなければ評価しないという姿勢」の三つを挙げている。  私もこの一七歳の加藤周一の作文に大変驚いた。すでに感覚的美と批判的洞察の統一、感性と知性の双方を基準とする芸術観がはっきりと現れているからである。  では感性と知性の統一という芸術観を加藤はどこから得たのか。おそらくフランスの詩人ヴァレリーから大きな影響をと思われる。最初は、もともとの加藤周一の嗜好にヴァレリーの知性と感性を兼ね備えた著作がかみ合ったということだったろうが、ヴァレリーに親しみ、深く理解するなかで、単なる文化芸術への好みから確固とした芸術観へと形作られていったと思う。ヴァレリーについては次回以降、詳しく書きたい。    【「実朝」と「金槐集に就いて」】  見たように、「新しき星菫派に就いて」の知識層青年への批判は、感性は豊かだが、それに伴うべき知性が欠如しているという批判だった。これは加藤周一の一貫した芸術観だった。最初期の映画評から始まって、加藤周一の日本文学論、作家論には同じ形の批判が繰り返しみられることになる。  その例は枚挙にいとまがない。典型の一つは、拙論「加藤周一私記」(本誌創刊号)で取り上げた加藤の川端康成論である。また『日本文学史序説』のなかの小林秀雄に関する次の指摘だ。  「かくして小林はマルクス主義の客観的歴史主義に対し、主観的で超歴史的な「心」の内的経験を対立させた .彼のそういう立場は、モーツァルトについて、美しく正確に語ることを可能にしたと同時に、日本の中国侵略戦争について、冷静に客観的に語ることを不可能にした」  「小林秀雄の文章は、おそらく芸術的創造の機微に触れて正確に語ることのできた最初の日本語の散文である。その意味で批評を文学作品にしたのは、小林である。しかしそれほどの画期的な事業は、代償なしには行われない。代償とは、人間の内面性に超越するところの外在的世界――自然的および社会的な世界――の秩序を認識するために、有効で精密な方法の断念である」  これは戦争中の小林秀雄について語った言葉であるが、さきの星菫派批判とまったく同形である。「新しき星菫派に就いて」を書いた時、加藤周一の念頭には当然小林秀雄のこともあったと思われる。加藤は後にドイツのナチス協力の詩人について書いた「ゴットフリート・ベンと現代ドイツの「精神」」(一九五七年)のなかで、「おどろくべき類似が、われわれ自身の思想の内側を示唆しているように思われる……」と書いて、小林秀雄の場合を示唆した。その問題意識は戦争直後からあったとみて間違いないだろう。  「新しき星菫派に就いて」を読んで小林秀雄を連想する人は少なくないだろう。例えば社会学者の日高六郎も「新しき星菫派に就いて」に関して「この文章の中に、小林秀雄があらわれてこないことは、私にはいくらか不思議に思える。彼こそは戦争中の青年をもっとも深くとらえた批評家だった。彼には芸術的創造力と時局協力の危険とがあった。私は、彼の戦争協力の「覚悟」をにくみ、彼の『金槐集』についての評論にひきつけられた」(『著作集』一三巻月報)と書いている。  この「『金槐集』についての評論」とは、小林秀雄の「実朝」である。小林は対米戦争開戦後、初めて日本の古典文学論を手がけ、一九四二年から四三年にかけて、「無常といふ事」「平家物語」など六編の短いエッセー・評論を書いた。「実朝」はその最後の一編である。これらの文章は後に『無常といふ事』にまとめられた。(私は高校生のころ、国語の授業で定番教材として習ったが、最近は難解さのために敬遠されているそうだ)  加藤周一も『1946 文学的考察』のなかで「金槐集に就いて」を書いている。本書の加藤は、ウェルギリウスをはじめ古代・現代のヨーロッパ文学一辺倒のなかで、唯一、日本古典文学を取り上げたコラムだ。  加藤周一がこれを書くとき、小林秀雄の「実朝」を意識しなかったわけがない。フランス文学者の海老坂武も「早い時期の加藤の作品である「金槐集に就いて」は、まさしく小林の「実朝」にたいする返答として読むことができる」(『加藤周一』岩波新書、二〇一三年、六三頁)と書いている。  海老坂武はそれ以上書いていないが、では、どのような返答なのだろうか?     【自画像としての実朝】  小林秀雄の「実朝」と比較する前に、まず「金槐集に就いて」自体を読んでおきたい。  三〇余年後の『著作集』の「追記」で、加藤は『1946 文学的考察』の自分の文章について「日本の伝統的文化――殊に文学的古典の評価には、甚だ粗雑なところが目立つ」と反省しているが、「「金槐集に就いて」は、粗雑ではない」と、年月を経てもなお内容に自信をもっている。たしかに、戦争直後の熱気に憑かれたような他の文章と違って、「金槐集に就いて」は落ち着いた筆致で、書かれた時代を感じさせない。  それは政治に触れることが全くないせいもある。戦争支持者への怒りをぶちまけ、戦後知識人の使命を語る他の文章と比べて、地味で目立たない。本書に、戦後知識人としての加藤周一の出発点を期待する読者は、読み飛ばしがちではないだろうか。何を隠そう私自身がそうだった。  「金槐集に就いて」は一見、単なる歌人論に見えるが、実はそうではない。加藤周一は実朝に、戦争中の自己を投影している。政治の激浪のなかで己の悲劇を見つめた鎌倉幕府の三代将軍源実朝は、半ば以上、加藤周一の自画像なのである。  実朝は鎌倉の鶴岡八幡宮で暗殺されたとき、満で二六歳だった。日本中が焦土となって戦争が終わった翌月、加藤周一も二六歳を迎えた。  暗殺の動きは以前から予見されていたらしい。加藤は書く、実朝は「危険を避けることを考える代りに、危険を前にした人間を歌おうと試みたのである」と。「死の前兆を至る所に見た人間が、世の中を逃避出来るものだと考えていたはずはあるまい。彼は、政治的現実から逃避したのではなく、却って、それを直視した。ただ死の相の下に直視したので、政治的行動の相の下に分析しなかっただけである。彼の現実に対する態度からは、何等の行動も、逃避という行動さえも出て来ることが出来なかった」  さらに加藤は実朝について「政治的陰謀の網の目の中で、(正室に迎えた・北村注)京都の貴族の娘の華奢な肉体を愛撫している一箇の青春を想像せよ」という。そこには武家の政争の渦中で、みやびな貴族文化にあこがれる詩人の姿がある。  「この(実朝の・北村注)世界は、如何なる歴史の怒涛も呑み得ず、如何なる世の中の外的現実も破壊し得なかった」と加藤が語るとき、そこに軍国主義の悪気流から身を守るため、フランスと日本中世の文学を読みふけった加藤自身の内面を重ねずにはいられない。  『続・羊の歌』で加藤は書いている。「私は、いくさの間、同時代の作家の小説よりも、『新古今集』の時代の歌人の家集を読んで暮らしていた。私にとって文学とは、まず何よりも『山家集』や『拾遺愚草』や『金槐集』であり、時代を超えて私の魂に訴えるものであった」と。  実朝についての以下の文章は、行動の可能性を持たなかった戦時下の加藤周一の姿である。  「惨憺たる現実、呪われた宿命の桎梏の下にあって、「昔の人の袖の香」のする橘の想出に、過ぎ去った文明の饗宴を探りあてようと云う、この奇怪な念願を理解しない者は、遂に詩人の一切を理解しないであろう。この世界は、多くの時代と多くの批評精神とを乗り越えて生延びたものである。この世界は、永遠の相の下に、外的現実を詩人の内的現実に還元し、歴史の中にあって、或る完璧な存在の影を映すものである。無能の将軍が、力強い歌人であったのは矛盾ではない」  実朝にとって「唯一の行為は、詩作であり、唯一の事業はかけ換えのない観念に形式を与えることである。「金槐集」は、かくして言葉と形式との実験室に化せざるを得ない」。加藤も友人たちと「マチネ・ポエティク」のグループをつくり、ソネットの一四行詩をモデルに日本の新たな定型詩を試みた。  そして「問題は、孤独である」。実朝は「世の中にある人間精神の孤独、死と共にある絶対の孤独」を歌に託し、「死ぬ時にも、孤独に死んだ」。加藤も、必勝の信念を繰り返すだけの周囲の人々から孤立し、いつ来るかわからない召集令状の影に脅かされていた。  加藤は亡くなる直前にも、実朝に対する特別の思いを語った。映画「加藤周一 幽霊と語る」(二〇〇九年)のなかである。  「「金塊集」と私の出会いというのは戦争です。(中略)実朝は、定家の弟子ですから、その古今集風の正統を継ぐという歌がたくさんあります。けれども、同時に、安定した伝統に従っているというだけでなく、もっと悲劇的で、危機感を湛えている」  「私たちの場合は、やはり、実朝にむしろ近いわけです。過去に我々の知っているいろんなものがあった。しかし、それは皆、滅びちゃうかも知れない。自分も含めて」  この映画は、加藤周一の死を予期してつくられたものではないが、奇しくも遺言となった。そのなかで敗戦直後の「金塊集に就いて」に託した思いが、こんなにもはっきりと言い遺されたのである。    【能動的歴史的な実朝像】  ここでようやく先の疑問、加藤周一は「金槐集に就いて」で、小林秀雄の「実朝」にどう返答したのか、に戻れる。  加藤は冒頭で二つの相反する実朝評を引く。一つは、武士らしくない女々しい男というものだ。同時代の歴史書『吾妻鏡』の「以歌鞠為業。武藝似廃。以女性為宗。勇士如無之(歌鞠をもって業と為し、武芸はすたるるに似たり、女性をもって宗と為し、勇士は之無きがごとし・北村注)」という批評である。もう一つは、江戸時代の国学者・賀茂真淵の批評で、万葉集の男らしさをうけつぐ「ますらをぶり」の歌人というものだ。  加藤は「同時代より今日に到るまで、凡ゆる実朝論は、その何れかに属している」と書いた。しかし、加藤はあえてふれていないが、小林の「実朝」こそ、こうした従来の実朝像を打ち破った評論だった。  小林が発見したのは、「孤独」な実朝であり、実朝の「悲しい」歌だった。  小林は「実朝の歌は悲しい。おおしい歌でもおおらかな歌でもないのだから」と書き、「真淵の有名な評言にしても、出鱈目なものである」と退けた。  「ますらをぶり」と評されるもっとも有名な歌の一つ「箱根路をわれ越えくれば伊豆の海や沖の小島に波の寄るみゆ」について、小林は「僕は大変悲しい歌と読む」「詞書にさえ、彼の孤独が感じられる」という。その雄渾さに正岡子規が驚嘆した「大海の磯もとどろによする波われてくだけてさけて散るかも」という歌を、小林は「大海に向かって心開けた人に、この様な発想の到底不可能な事」といい、「青年の殆ど生理的とも言いたい様な憂悶を感じないであろうか」「この歌から誰も直かに作者の孤独を読もうとしなかった」と、評価を一変させる。  先に見たように、加藤も実朝の「孤独」を強調した。加藤は小林の実朝論を否定したのではなく、継承したのである。まずそれが第一のことだ。  後年、加藤周一の日本文学論の集大成である『日本文学史序説』で、小林秀雄の『無常といふ事』について「それらの短く緊密な文章は、芸術的形式や自然や言葉に対する詩人小林秀雄の鋭い感受性が遺憾なくあらわれている」と高い評価を与えた。こうした共感はすでに「金槐集に就いて」にもうかがえる。  そのうえで第二に、加藤と小林の違いはどこにあるのか?  小林は実朝について「天稟」という言葉を繰り返している。あるいは「純潔な美しさ」「無垢な魂」「無邪気さ」という言葉を使う。つまり、実朝の優れた歌は実朝の天才が生んだという直観的見方だ。その天才がどこから生まれたかは分析しない。しかし、天才は歴史の紛糾と混濁を超越する。「どんな意識家も天稟には引摺られて行くだけだ。平凡な処世にも適さぬ様な持って生れた無垢な心が、物心ともに紛糾を極めた乱世の間に、実朝を引摺って行く様を僕は思ひ描く」。一方で、歴史は人知を超えた「必然」であり、どんな天才もその「必然」を逃れられない。「実朝の横死は、歴史という巨人の見事な創作になったどうにもならぬ悲劇である」。  小林の天才びいきについて、やはり加藤は『日本文学史序説』で書いている。「モーツァルトMozart(「モオツァルト」、一九四六)からゴッホGogh(『ゴッホの手紙』、一九四八―一九五二)まで、実朝(「実朝」、一九四三)から本居宣長(『本居宣長』、一九六五―一九七七)まで、創造的な「天才」を語ることで、小林秀雄は常に自分自身を語っていた」。つまり、小林は天才たちの創造の機微を「自己内面の問題に還元」したのである。  確かに小林は、当時の実朝の置かれた政治状況や、万葉集との影響関係など、歌の背景をあれこれ書いてはいる。しかし、歌そのものを評価する時には、それら背景知識はいったんカッコのなかにいれ、歌から感じ取れる実朝の内奥の声に耳を傾ける。そして今まで聞き逃されてきた実朝の「孤独」な「悲しい」調べを聞き取る。それは万葉集の「長調」の歌とは明らかに違う「短調」の旋律だ。その違いを聞き分ける小林の鋭敏さは比類なく、加藤が「詩人小林秀雄の鋭い感受性が遺憾なくあらわれている」と舌を巻いたとおりである。  これに対して加藤は、実朝の天才ではなく、「世の中に対する詩人の態度」を問題にする。実朝の歌「かくてのみありてはかなき世の中を憂しとやいはむ哀れとやいはむ」を引いて「この思想は、行動の原理にならぬ」という。と同時に、実朝は運命から逃避するのではなく、「却って、それを直視した」。歴史を超越したのではなく、「死の相の下に直視した」、そこから、その孤独で悲しい歌が生まれたと論じている。  加藤の思考を敷衍すれば、歴史は人知を超えたものではない。行動して歴史に働きかける選択肢も常にあるが、実朝は資質的思想的な理由でその道をとらなかった。「彼は、烈しい孤独の底で、己の悲劇的存在を見つめ、全身の情熱をこめて自らの現在の永遠を、とらえようと試み、その他の何事も、全く何一つとして試みなかった」。  「天稟に引きずられる」小林の受動的内省的な実朝像に対して、「己の悲劇的存在」を自覚し、直視するところに、加藤の能動的歴史的な実朝像がある。ここに小林秀雄と加藤周一の芸術に対する態度の違いが見て取れる。    【対談で一瞬見えた小林秀雄批判】  それだけではない。小林秀雄は、万葉的な「ますらをぶり」を強調した真淵の実朝論を否定した。他方、加藤周一の「金槐集に就いて」はさらに進んで、京都と貴族文化への実朝の憧れを重視した。歴史と社会をふまえた加藤の実朝論の特徴である。  それは『日本文学史序説』の「『新古今集』の美学は武士権力の作り出した新しい社会に対して挑戦的であった。(中略)『新古今集』の美学は武士を改宗させることに成功した。すなわち西行と実朝である」という位置づけにいたる。  ちなみに小林は「実朝」の冒頭で、芭蕉の言葉を引きながら「僕らは西行と実朝とを、まるで違った歌人の様に考え勝ちだが、実は非常によく似たところのある詩魂なのである」と書いた。西行と実朝を並べた先の加藤の評価は、小林の論を受け継ぎつつ、小林の捨て去った歴史的方法(階級関係を重視する唯物史観的方法)を用いて、小林よりはるかに見通しの良い展望に達したものだ。  ここで触れておきたいやりとりがある。加藤周一と小林秀雄の対談の一節だ。  二人は、戦後数年の間に、雑誌の座談会・対談で二度顔を合わせている。  一度目は『文藝』一九五〇年四月号の座談会「現代文学の全貌」だ。ほかに蔵原惟人、中村光夫、伊藤整、野間宏、青野末吉、阿部知二、白井浩司と司会役の中島健蔵と、あわせて十人も出席した企画だが、内容は薄い。中島が司会役をはみ出て、長々と発言しているのが目立つくらいだ。  加藤と小林が同じ話題で発言したのは二カ所だけだ。一つは太宰治について加藤が「その思想というのは何にも信じないという思想じゃないですか」「思想性はあるかもしれないが、積極的な意味で思想はない」と言ったのに、小林が「そうだと思う。懐疑の速度が大変早いのだよ」と返したところ。もう一つは、小林が作家の「頭がいいか悪いか」について話したところで、加藤が「小林さんは極端な例を引かれる」と言い、小林が「ぼくはただ平ったくいっているのですよ」と答えた。どちらも議論らしい議論になっていない。  二度目は『演劇』一九五一年七月号の対談「演劇の理想像」だ。二人の議論は大いにかみ合い、基本的な考え方の食い違いはほとんど見られない。  二人の議論は「ドラマというものは個人と個人の間に起るものではなくて、人間を超越したあるものと人間との関係の中に起る」(小林)というギリシャ悲劇的状況と、現代の共通性から始まる。人間と超越者との関係を日本の能から学んだフランスの劇作家クローデル、言葉による分析的方法が行き詰まり、物や人間自体を差し出す象徴的方法が強くなってきたこと、新劇に多い翻訳劇の問題点など、議論は刺激的に展開する。とくに最近の海外の演劇動向を小林が加藤から素直に学ぶ姿勢は、大家らしくなくて好感が持てる。  私が注目したのは、対談の最後に、二人の「歴史」への態度の違いが一瞬あらわれたところだ。  加藤が、最近劇的なものが現れない理由として、「今は、仮の世の中であるという感じ方」が普及しているからだと言った。加藤は「実際は、仮りの世の中というものはない」、カミュなどは「仮りではなく、今の世の中が動かせぬ本当の世の中であると思っているからこそ、劇的なものをそこに見ることが出来たのでしょう」と続けた。それを受けて次の応答がある。    小林 そうすると、ドラマティックなものは、歴史概念とは違うものだな。  加藤 現在をカタストロフへ行きつく過程として見ると、現在は相対化されてしまい、唯一の現実として見えない。だから当然、劇的なものも出て来ないのだろうと思いますね。いま在るものを、在るとして見るという見かたが、劇的に見る見かたですよ。しかし、歴史的な見かたが現実的でないとは言えないでしょう。現在を過程として相対化して見るということは、歴史的に見るということだけれども、そういう見かたは、仮説的なものではなくて、現実的なものだと思う。何故なら、それが人間を支配するから。(傍線北村)    雑誌の対談はここで終わっている。小林のいうことはよくわかる。人間の歴史はうつろいやすいかりそめの出来事に過ぎない。小林の持論だろう。それに対する加藤の返事はわかりにくい。前半の「しかし」の前では、現在を過程の途中と見る見方からは劇的なものは出てこないといっている。後半の「しかし」の後は、歴史的な見方は「仮りの世の中」という見方ではない、人間にとって「現実的なもの」だと修正している。  対談を書き起こした短い一節に過ぎないので、ここから結論を引き出すのは難しい。でも、ここに一瞬、小林秀雄の非歴史的方法に対する加藤周一の批判が見えた気がする。    【藤原定家への接近と評価】  『日本文学史序説』からわかるように、加藤周一は『古事記』や『源氏物語』から現代までの、しかも漢文で書かれた著作も含めた、総合的な日本文学に通じていた。しかし、デビューした時からそのすべての知識を持っていたわけではない。一九五一年十月のフランス留学出発前に加藤が論じた日本古典文学は、鎌倉時代の詩歌――藤原定家と源実朝と、室町時代の能・狂言にしぼられる。(もう一つ、『万葉集』も中学生の時からよく読んだことを『羊の歌』で書いているが、戦後すぐの時期にはまだ『万葉集』をとりあげた評論はない)  戦争中の加藤が『新古今集』の定家や実朝に親しんだ理由は、戦乱の時代に生きた彼らの境遇に、自分に近いものを感じたことが大きかった。  加藤は当時の戦後派文学者たちの座談会で、「新古今の作家たちが置かれていた環境が我々の悲惨な条件に似ている」「戦争や飢えや寒さの中でああいう歌を作ったということは非常によく分る」と、『新古今集』の歌人たちへの親近感を語っている(佐々木基一、花田清輝、野間宏、福田恒存、加藤周一「戦後文学の方法を索めて」『綜合文化』一九四八年二月号)。これに対し、佐々木基一は「僕らは定家の歌の中に入ってそこから出て来ようという気にはなれない」と、同意しかねる発言をしている。  加藤は「僕には非常に身近かなものだね」と繰り返し、「定家の時代に、歌という形式はあったけれども一方には東歌、一方には宮廷詩人の儀礼的な歌にすぎない。作家自身の内的体験を歌うという近代的な抒情詩はなかった。そういうものをつくり出したのは、ああいう時代におかれたインテリゲンチャだった」と、藤原定家を高く評価している。  余談だが、この座談会で加藤は「(外国文学の)直輸入も日本文学の伝統だと思う。直輸入であればあるほど、益々伝統に根差している」と、一見、逆説的な伝統論をしゃべっている。「憶良以来の日本文学は、そういうものだ。和歌の伝統は漢詩なんかに比較すれば直訳でなしに、日本文学の独自の伝統だね。それでも、歌人の日記には漢文のものが沢山ある。外国語で日記を書いて、たまたま創作に携わる時には国語を用いたという趣きだね。野間君が伝統から外れているとすれば、日記をフランス語で書くに至らないという不徹底のために伝統から外れているんじゃないか」  この発言は二つの点で面白い。一つは伝統文化と外来文化を対立させる国粋主義的伝統論をきっぱり退けて、外国文化の積極的な摂取こそ日本の伝統であると常識を転倒させた点だ。ここには留学の帰国後に発表する雑種文化論のヒントがすでにみられる。  もう一つは、日本文学を語りながら、日本人による漢文も視野に入れている点だ。これは、漢文による知的思想的文献も文学史の重要な柱に位置付けた『日本文学史序説』の萌芽である。歌人の日記といえば、高校の国語では紀貫之の「土佐日記」ぐらいしかやらないが、藤原定家の「明月記」は漢文の日記である。  ちなみに、数年前、冷泉家文庫の展覧会で「明月記」の現物を見たら、冊子ではなくて、膨大な数の巻物であった。もらった手紙を張り合わせて裏に書いたりしていて、以前持っていたイメージと大きく違っていた。そんなことも知らなかったのかと笑われるかもしれないが、百聞は一見に如かずとはよくいったものだ。  一九四八年の、まだ二八歳の加藤周一がすでに後年の主要業績につながる発想を抱いていたことに驚く。そういえば、実朝を語る時の「吾妻鏡(東鏡)」の引用も、小林は読み下し文だが、加藤は漢文のままであった。こういうところにも、漢文も日本の伝統文学という思いがあったのかもしれない。  【「フランス語で日記を」の波紋】  ただし、この座談会の発言は、当時、上記のようには受け取られなかった。逆に「日記をフランス語で書く」という発言が独り歩きすることになった。加藤は「ヨーロッパ精神を掴もうとすれば、話すとか、日記を書くとか、徹底的にやるよりない。もしそうでなければヨーロッパ精神は徹底的に分らない。そういう解り方は、明治以後には衰えたけれども、奈良朝、平安朝、江戸時代には行われた。常に行われてきたので、それが、日本の作家の立派な伝統だと思う」とも言った。これが物議を呼んだ  荒正人には「フランス語で日記をつけるなどといふときには、もちっとイロニイをこめていって貰えぬかと思うのである。その優等生じみた素顔が物悲しい」(「オネーギンを乗せた「方舟」」『赤い手帳』昭和二四年刊)と揶揄された。竹内好からは「加藤の絶対他力にたいして、私は絶対自力を対置する。私は、加藤の論理の正しさを認めつつも、自分がそれに従うことは許さない。私は、加藤とおなじ目標に向って、加藤と反対の方向に歩く」(「ある挑戦――魯迅研究の方法について」(『思潮』一九四九年五月号)と批判された。  加藤も言葉通りの意味で「フランス語で日記」と言ったのではない。座談会でもすぐに「フランス語というのは譬喩ですよ、勿論」「直輸入というのも、日記を外国語で書くというのも象徴的な意味です」とことわっている。  それにしてもと思う。加藤は日本文化の伝統を広くとらえる目を備えていた一方で、やはり軍国主義と戦争と結びつけられたすべての日本的なものを嫌悪し、ヨーロッパ文化、なかでもフランス文化に強く傾倒したことは否めない。  鶴見俊輔は戦中から戦後にかけての加藤について次のように書いている。  「おそらく、戦争中の日本で彼が学生としてくらしていたころには、近代のフランス文化とイギリス文化の基準に自分をむすびつけて同時代の日本文化を批評するという傾向はあっただろう。そのような棒杭に自分を仮に結びつけることなしに、同年輩の人びと(大学生をもちろん含む)の大半の確信となった超国家主義に自分をゆずりわたさないということはむずかしい。彼の属していたマチネ・ポエティクという仲間のもっていた鎖国性は、当時の日本文化のもっていた鎖国性に対抗して、自分たちの精神の自由を守る正当防衛だったと思う。  その鎖国をとおしての西欧文化育成は、敗戦によって終り、それからは、現実の西欧文化を相対化してゆく活動が、加藤周一の中におこった。  ヨーロッパ文明がそのまま普遍的文明であるというような考え方から、戦後の加藤周一はゆっくりとはなれていった」(『著作集』第八巻月報)  戦後ごく初期の加藤周一が、極端なヨーロッパ主義者といわれたのは、それだけの根拠があったのである。そこから離れていく加藤の変化が、誰の目にもわかるようになるのはまだ先の話だ。  言論界にデビューした最初の六年間、加藤周一が最も関心を持っていたのは、フランス象徴主義とレジスタンス文学であった。それと同時に、内外の現代文学についても多く語っているが、そこには独特のリアリズム論が見えていた。次回はこれらについて論じたい。   12